「論語と算盤」考
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「論語と
一万円札の肖像に選ばれるのですから相当の功績を残した人には違いありません。
日本資本主義の父と言われています。
NHKの大河ドラマ「晴天を衝け」をご覧になった方は彼の一生はだいたいお分かりになっておられるでしょう。
ドラマとして面白いのは青春時代の幕末までの活躍だと思います。
しかし渋沢栄一が功績を残したのは明治から大正そして昭和の初めまでの
34歳から亡くなる92歳の間です。
当時抜群の長寿であったことはさておいて、まず簡単に生い立ちを見てみます。
幕末の1840年(天保11)に現埼玉県現深谷市(武蔵国榛沢郡血洗島)に生まれ、家業は農業と製藍業の販売でかなりの資産家でした。
この時代農民も町人も中流以上の家庭では子弟には漢学(儒教)を学ばせます。
後年儒教の論語を経済界に広げます。
栄一が青年になった頃は尊王攘夷で世間は沸き返っていました。
この運動の活動家は武士と公家がほとんどでしたが、中には農民、商人もいました。
栄一は家業はやらずに尊王攘夷運動に没入します。
仲間を募って横浜の外人居留地を襲う計画を立てますが、取りやめます。
その後どうゆう縁故か一橋家の用人平岡円四郎の家来になり、更に一橋慶喜(
15代最後の将軍)の家来になります。武士になったのです。
一橋家の兵力増強に農民を募集し成功し、慶喜に認められます。
幕府の兵ではありません。慶喜が将軍になる前の一橋家の兵です。
慶喜は将軍に就任します。1866年(慶応2年)です。
慶喜の弟の昭武がパリ万博列席するにあたり、慶喜の命で随身としてパリに外遊します。
そこでヨーロッパの近代技術、経済制度(資本主義)を知り、これを日本に取り入れる必要を痛感しました。
日本に帰った時には徳川幕府はつぶれ、維新政府になっていた1968年(明治元年)11月でした。
しばらく一橋慶喜の藩主の静岡いましたが、維新政府に乞われ大蔵省で租税、新貨条例、国立銀行条例の立案にあたりました。
1873年(明治6年)に大蔵省を辞任して、旧来のままの日本の民間の経済産業に欧米方式を引き入れて興隆させることを目論見ます。
「維新政府が富国強兵と唱えても、基本的には民間が富まなければ国は富まない。そのためには実業(商業・工業)の立ち上げが大事である。欧米の隆昌は商工業にある。」との考え方です。
渋沢栄一は先ず日本で銀行、鉄道、株式会社の創設が必須であることをパリで実感しました。
先ず銀行の創設です。大蔵省時代に条例は作ってあります。第一国立銀行を創設させます。主要な出資者は三井組、小野組です。国立とありますが、民間銀行です。紙幣の発行も行いました。未だ日本銀行はありません。その後合併を繰り返し今日のみずほ銀行になっています。
栄一は1916年(大正5年)まで頭取を務めています。
その後紙幣の紙の必要から製紙会社を起こします(現在の王子製紙)。
更にその後紡績会社(現東洋紡)、保険会社(東京海上)、海運会社(日本郵船)、多数の鉄道会社、セメント会社(浅野セメント)、東京株式取引所等の設立発起人となり、株主を募って多くの株式会社を設立させました。
その数は500社余りと言われています。
彼は一部の会社の経営責任者となりますが、ほとんどの役割は設立発起人の一人として株主を募る役と経営のアドバイスで、経営者は別に起用します。
自分も出資しますが、数パーセントとわずかです。唯一家業と称していた渋沢倉庫でも20パーセント位です。
関係した会社の会長職(当時社長の名はなく会社トップは会長)は、第一銀行(頭取)、東京瓦斯、帝国ホテル、東京石川島造船所(現IHI)等10社ほどありましたが、77歳の時にすべて辞めました。
渋沢栄一は基本的には資本と経営を分離を計っています。
財閥と言われる三井、三菱、住友、安田は会社の資本を独占的に保有しています。
ですから渋沢家は戦前から財閥ではないとの評価でしたが、戦後のGHQでは財閥に認定され渋沢同族会社は解散させられました。
明治以降会社の設立のため資本を募り、経営指導をし、あるいは自ら経営者となり、日本産業経済の立ち上げに貢献した渋沢栄一の更なる面を見てみます。
それは実業界での商業道徳の啓蒙です。
彼は何度か洋行していますが、1902年(明治35年)親善のためアメリカ、イギリスを訪問したおり、先方より日本人は約束を守らない、利己主義との非難があり、その時わが方でもそのような輩はいると取りなしてくれるイギリス人もいましたが、ショックを受けます。
帰国後実業界に信義と道理を打ち立てるために論語の道徳を持ち込みます。
各地で講演した筆記をまとめたものが「論語と算盤」で1927年(昭和2年)に出版されました。
算盤は利、実業のこととなります。
外に大正14年に発表された「論語講義」(口述筆記)があります。
渋沢は商業と道徳の接着剤に論語(儒教)を取り入れ、実業家への商業における道徳論を展開しました。
商業の公益性の重視、拝金主義、利己主義の抑止です。
論語の教訓によって商売し、利殖を図る。自己の富、地位、子孫の繁栄は第二に置く。
道理を持った富貴(富と地位)でなければ貧賤の方が良い。
富は自己一人の占有ではない。国家社会の助けによって利するもの。社会の救済事業は当然の義務。
商業の徳義は信。生産殖利は仁義道徳によらねばならない。
これが渋沢が論語の教訓から得た実業家への訓話です。
それでは筆者の思いです。
渋沢が当時の実業家に訓話した商業道徳を論語より取り入れました。
論語は孔子の教えを孔子亡き後弟子たちが教えを編集したものです。
孔子の教えの儒教は為政者(王、官僚、行政官)に対し聖人君子になる道を説いたものです。
江戸時代に武士の必須の科目になりましたが、武士も為政者ですので対象者としてはまあ間違いはないでしょう。
この教えの対象者を農民や町人にもすることには少し無理があるのですが、
これを更に利益を追求する商人にも対象とすることには大分無理があるのですが、為政者を実業家に読み替えて拡大解釈して商人道徳の教えに取り入れました。
「利を放りて行えば 怨み多し」
「君子は義をさとり、小人は利をさとる」 小人:一般人
しかし明治政府も儒教を国民道徳に取り入れました。孔子の教えの五常「仁・義・礼・智・信」は為政者だけでなく国民みんなの道徳の基本になりますから渋沢が商人に採用しても違和感はなかったのでしょう。
同時代に新渡戸稲造が「武士道」を著します。
彼はアメリカ滞在中にアメリカ人より欧米人の道徳は聖書に基づくものだが、日本人の道徳観念はどこから来るものか問われ、武士道精神を思いつき
「武士道」をアメリカで著したのです。
渋沢は実業家(商人)の道徳を論語(儒教)から見出しました。
渋沢のもう一面を見てみます。
社会事業に熱心でした。
明治5年(1872年)に生活困窮者や身寄りのない人を救うために東京養育院が設立され、東京府知事の大久保一翁の依頼で院長に就任し、亡くなるまで院長を続けました。
彼が本格的に社会事業に乗り出したのは大正時代からでしょう。
日本でも共産主義、社会主義が広まり、貧困対策が叫ばれ、労働争議が頻発します。
政府はこれらに弾圧で対処します。
渋沢は資本主義社会体制の中でそのひずみから生じる弱者・貧困救済のための社会事業の必要を感じていました。
共産主義、社会主義に対抗するためには、商業で利を得た実業家が寄進する社会事業団設立が大事であると考えたのです。
彼は米欧での社会事業を勉強していました。
民間の社会事業のはしりは渋沢でしょう。
彼はほかの事業のトップは77歳まですべてやめますが、社会事業のトップは死ぬまでやめませんでした。
彼の終盤人生は社会事業に掛けました。
大事な仕事は寄付集めです。
実業界や政界に働きかけます。みんな断れません。彼は500に及ぶ株主会社を立ち上げ成功させました。
その時出資に応じた人々や起用された経営者はみんな儲けさせてもらっています。
彼の寄付呼びかけに断れません。
またかと言っていた仁もあったそうです。
渋沢の社会事業にいくつも関係しましたが、トップに就任していたのは東京市養育院長(現東京都健康長寿医療センター)、中央社会事業協会会長(現全国社会福祉協会)、日本結核予防協会会頭、日本盲人福祉協会会長、癩予防協会会頭です。
最後に渋沢の家庭を見てみます。
先妻千代との間に2男3女、後妻兼子との間に5男1女をもうけます。計9男、4女です。
内男子3人、女子1人が早世です。
長男が早世で嫡男は次男の篤二ですが、生活態度が良くないとして廃嫡され、その子の敬三が栄一の跡取りとなります。
息子は4人と孫の跡取り敬三もみんな東京帝大に進みます。
息子はみんな経済界で会社役員を務めます。跡取り敬三は日銀総裁、大蔵大臣を努めます。
さてここで今日渋沢栄一について知る人ぞ知る一面です。
彼に妾が10数人いたと言われています。
明治になり一夫一婦制が決まりました。
妾を囲うことには当時も非難の声もありましたが、まだ許されていた時代だったのでしょう。
妾の子供7人はいたと言われています。
妾の子で有名な人は、星野辰雄は東京帝国大学卒、立教大学教授、長谷川重三郎も東京帝国大学卒で第一銀行の頭取です。
本妻の子も、妾の子も秀才でした。
このようにいくつもの家庭をもっても渋沢は一族会社を作り、家訓を残し、一族をうまくコントロールしました。生前も没後も一族はもめることく渋沢家は安泰です。
渋沢栄一の生涯の第一部は30歳台半まで、幕末に一橋慶喜に見いだされ、パリに行き、西洋文明を学習出来たことです。明治維新政府に仕えて大隈重信、井上馨の要人と知己を得たことです。
早稲田分裂の騒動では大隈に協力しています。井上は総理大臣におされた時渋沢に大蔵大臣就任を断られ総理大臣就任を断りました。
二人との関係とは格別のものがあったようです。
第二部はパリでの学習を基にして実業家として、銀行業、製造業、海運業、鉄道等の500余りの会社を起こしたことです。
明治の日本の経済産業振興に大きな寄与をし、日本資本主義の父と言われます。
第三部の晩年は社会事業への尽力です。
ここでは触れませんでしたが、商業学校、女学校、大学、女子大の創立、維持にも貢献しました。
明治の偉人の一人でしょう。
以上
2024年10月9日
梅一声
参考文献
○論語と算盤 渋沢栄一 2008年(1927初出帆)角川文庫
○福沢諭吉と渋沢栄一 城島明彦 2020年 青春出版社
○渋沢栄一と陽明学 林田明大 2019年 ワニ・プラス
○渋沢栄一 橘木俊詔 2020年 平凡社
○渋沢栄一と社会事業 武井優 2021年 鳥影社
○渋沢栄一自伝(雨夜譚・青淵回顧録(抄)2020年 KADOKAWA
○論語講義(1~5巻) 渋沢栄一 講談社学術文庫
○渋沢栄一伝記資料 渋沢青淵記念財団竜門社編
○論語 上・下 吉川幸次郎 1996年 朝日出版
〇渋沢英一伝 幸田露伴 2020年 岩波書店
〇国士大辞典 吉川弘文館
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