落語の歴史

 

 


 

始めに 

 

 落語は現在は「落語(らくご)」、そして落語を口演する人を「落語家(らくごか)」と言うのが普通ですが、江戸時代から明治時代の初めまでは「はなし」、「はなしか」と言い「咄(家)」とか「噺(家)」の字を当てはめました。

 落語は又「おとしばなし」とも言われており、落語の字をあて「らくご」呼ばせるようになりました。明治時代ことです。

 漢字の「話」の意味は会話や談話で用いられます。「(はなし)」・「(はなし)」は物語や説話を語るときに用いられますが、現在は「話」の字を使っても間違いではないでしょう。

 落語業界(はなしか界)で落語を「はなし」と言いこの字を当てはめたのは物語性を意識したからでしょう。

 それでは今日の落語とは何かについてまとめます。広辞苑から要約します。

 「一人の演者が滑稽な話を登場人物の会話のやりとりを身振りを交えて進め、その末尾に落ちをつけて聴衆を楽しませる寄席芸能。」となります。

 噺の種類は現在滑稽噺、人情噺、怪談噺、芝居噺と分けます。

 落語のほとんどは熊さん、ハツさん、与太郎、兄貴、大家さん、横丁の御隠さんなどが登場する滑稽噺が多いのですが、滑稽な噺ではない人情の機微を演ずる人情噺、噺の一部が芝居がかりとなる芝居噺、幽霊や怨霊をあつかう怪談噺があります。

 この種類の噺には元々は落ち(さげ)はありませんでしたが、近年は人情噺にくすぐりを入れて少し笑わせる場面を入れ、落ちも入ります。

戦前まで名人と言われた人が噺す人情噺が一流の落語芸と言われていました。

 現在は人情噺のうまい人が名人とは限りません。

 又、落語の分け方で古典落語と新作(創作)落語に分けます。

 新作もその作品の作者(演者)が亡くなった後も誰かが演ずるようになりますと古典と言われます。古典も元は新作です。

 

 噺の特徴は物語は会話が中心で手ぶり、顔の表現、声色で登場人物を一人で演じ分けストリーを展開します。時代や状況説明(地)の部分は少ないです。

 一人話芸でも講談は時代背景、状況説明の部分(地)が多く、登場人物の会話部分が落語に比べて少ないことがあげられます。

 浪曲はうなって歌う部分(音節)と登場人物の会話部分(啖呵)があり三味線の伴奏がつきます。

 落語に似たような一人話芸に漫談があります。漫談は滑稽な話を観客に語り掛けて話を進めます。登場人物の間の会話は余りありません。落語でも本題の噺の前に噺す小話は漫談調が多いです。

 

 いずれも落語を上回る人気を博した時代もあったのですが、現在は落語が一番の人気です。他は人気が下火と言えるでしょう。

 それでは今回は落語に焦点をあてて、そもそも落語はどのように誕生したの

かそして今日の落語までを話すことに致します。

 

1,落語前史

  仏教僧の説教話から話芸の噺へと作り変えたのが安楽(あんらく)(あん)策伝(さくでん)(1554年(天文23)~1642年(寛永19)で落語の始祖と言われています。

  戦国時代末から江戸時代の初めのことです。

策伝は京都誓願寺の住職(同寺竹林院安楽寺に隠居)です。 

  これにより落語は京都を発祥の地と言われます。

  

笑い話「醒酔笑(せいすいしょう)」を述作しました。当時親交のあった京都所司代の板倉重宗に持ちかけられ、作ったと言われています。

  1623年(元和9)、八巻 千余の噺を編集しました。

  内容は当時の習性が分からないと理解しにくい噺が多いのですが、こぼれ

噺、とんち噺や教訓めいた噺が十数行にまとめられた噺の集成です。

  現在の落語のネタになっていると言われるものでは、「子ほめ」、「寝床」、

  「かぼちゃ」、「てれすこ」等があります。

 

  職業としての落語は上方と江戸で別々に発展します。途中交流はありますし、同じ噺も多いのです。

 

2、上方落語の歴史

 ①元禄時代(1688~1703年)

  策伝は職業としての噺の専門家ではありません。大名や当時のインテリ階級に噺をして好評を得ていたのです。

 

策伝以来少し途絶えて落語の歴史が始まります。

  京都の露の五郎兵衛(露休(ろきゅう))が元禄時代に京の北野天満宮で(つじ)(ばなし)を初め、人気を博します。

  露休は元日蓮宗の僧侶で、講話を発展させたものや醒酔笑から取材した噺が元と言われています。

 露林は上方落語の祖と言われます。

  辻噺とは寄席(演芸場、小さい小屋)ではなく、寺社の境内や路上で催す

  興行です。大道芸です。  

  大坂でも同じ頃米沢彦八が当世仕方(しかた)(ばなし)の看板をかかげて辻噺を生玉神社の境内で始め人気を博します。

  しかた噺は手ぶり、身振りを交えての滑稽噺です。

 

 ②寛政時代(1789~1800年)

  元禄時代の落語が途絶えて改めて始まります。

 〇(かつら)文治(ぶんじ)(1773~1815年)

 上方落語の中興の祖と言われ、寄席()(演芸場・小屋)の開祖です。京の

人です。

鳴り物入りの芝居噺が得意です。

この頃には滑稽噺だけでなく芝居噺も噺されます。

 

 *寄席:落語興行を行う演芸場で芝居小屋より小さく 、数十人から大きくても200人位を収容。

 *芝居噺:歌舞伎の手ぶり、身振りを入れての物まね。三味線、太鼓などの演奏も入る。

 *さげ:噺の結末を洒落をいれて終わる

     ・“囲いができたね”、へえー(塀)

     ・大岡越前:そんなに食って腹をこわすな。長屋の人:多くは(大岡)食わねえたった一膳(越前)

 

桂派が創設されます。

  桂派から文枝(ぶんし)、文光、文三、南光、三木助、文団治、春団治、小団(こうだん)()

米団(よねだん)()がでます。

文治名跡は二代目文治、三代目文治と続き三代目文治でここで上方と江戸で分かれます。

その後は五代目文治は上方で名乗りますが、以後は今日の十一代目文治まで桂文治は江戸(東京)で名乗ります。

③幕末

  〇桂、笑福亭、林家、立川の一門がしのぎを削ります

  〇林家玉蘭

   出生不明

  ・門下の欄丸

   「浮かれの紙屑や」、「浮かれの懸取」、「竜王界滝の都」創作

   入込噺(見台リズミカルにたたく)を創作

  ・林家正三

   林家の基礎を作る(上方、江戸両方で)

   門人…・ 林馬、正楽、円玉、菊丸、木鶴

 

⓸幕末から明治の初め頃

  〇初代桂文枝

   三代目桂文治の弟子で名人と言われます。

   三十石が十八番

   門下‥‥初代桂文之助、桂文都、初代桂文三、初代桂文團治

四天王と呼ばれます。

  〇笑福亭(しょうふくてい)松竹(しょちく)(生没不詳)

   初天神、松竹梅、千両みかん、猫の忠臣を創作

   笑福亭一派‥‥・吾作、(しょ)(かく)

 

 ⓹明治時代

  〇桂派と三友派

   明治7年(1874)(かつら)文枝(ぶんし)が亡くなると二代目襲名でもめて結局

文三が跡目となります。

   ライバルの文都は桂をやめて月亭(つきてい)を名乗ります。

   明治26年月亭派と桂文團(かつらぶんだん)()派と笑福亭(しょうふくてい)派が合流して「浪花三友会」を創設して二代目文枝(文三)の「桂派」とが競い、上方落語会は黄金時代を迎えます。

   明治の末に桂派が三友派に吸収されます。

   三友派は吉本(現在の吉本興業)の支配下に入りますが、漫才におされ落語は寄席の主流の位置を追われます。

 

 ⑥大正~昭和太平洋戦争前

  〇初代桂春団治

   人気低調の落語界で気を吐いた人です。

   ナンセンスギャグの連発、SPレコードでも人気を集めます。

 

  〇春団治が昭和9年に亡くなりますと落語人気は一層退潮します。

   五代目笑福亭松鶴、四代目桂米團(よねだん)()で楽語荘を結成して落語保存につく

しましす。

 

 ⑦戦後の昭和時代―復興への道

  戦後落語家は上方では10数人になってしまいました。

  昭和25~28年(1950~53)にかけて戦前からの五代目松鶴、立花家橘、四代目米團治、二代目春団治で続けます。

二代目春團治が昭和28年(1953)亡くなります。

  上方落語は滅んだと報道されます。

  

  昭和26年(1951)のラジオ民放の発足で落語を取り上げられるよう

になり、息を吹き返します。

  昭和33年(1958)に上方落語協会が発足します。当時会員22名

(現在260名)。現会長は笑福亭仁智。

 昭和40年代になりますと民放のラジオのDJから月亭可(つきていか)(ちょう)笑福亭(しょうふくてい)()

(かく)(かつら)三枝(さんし)(現文枝)更に(かつら)()(じゃく)(かつら)福団(ふくだん)()の若手落語家スターが生

まれます。

  この人たちの若手の落語会に四天王と言われた落語家が出演します。客は四天王の芸の奥深さにふれて落語の人気が出てきます。

 落語ブームの到来です。

  四天王とは六代目笑福亭松鶴(1918~86年)、三代目(かつら)米朝(べいちょう)

(1925~2015年)、三代目桂春團治(1930~2016年)、

五代目桂文枝)1930~2005年)です。

  桂米朝は独演会で全国を公演し、上方落語を全国区にしました。人間国宝、文化勲章を受章します。

  2006年には60年ぶりに落語定席の「天満天神繫盛亭」が開場しました。

  現在四天王の四人はもう亡くなっています・

  戦後若手といわれてきた人気落語家は実力をつけて活躍しますが、爆笑王と言われた(かつら)()(じゃく)(米朝門下)は1999年(平成11年)に亡くなります。

  笑福亭仁鶴も令和3年(2021)に亡くなりました。

  関西のお笑いは漫才が中心です。

  その中で一定の人気をもって興業が続けられています。

 

3、江戸落語の歴史

 ①天和(てんな)~元禄の頃(1681~1703年)

  〇鹿野(しかの)()()衛門(えもん)(1649~1699)

   江戸落語の祖、座敷しかた噺(動作の滑稽を入れる)、ウガチやサゲを入れます。上方出身(江戸言葉)もいました。寄席ではなく(つじ)(ばなし)(町角で噺をする)や座敷噺(武家屋敷で噺をする)を行いました。

    *ウガチ(穿ち):表に現れない人情の機微、世態を巧みにとらえる

 

 ②天明期以降安政期(1781~1859)

  〇烏亭焉(うていえん)()(1743~1821)=談州楼

   立川烏亭焉馬とも言われます。

   噺の会を主催し、太田南畝外文化人が出席します。

 下火になっていた落語を再び隆盛にします。落語中興の祖と言われます。

烏亭焉(うていえん)()門下‥‥立川流、金馬、焉幸、善馬

   

 寛政の改革(1787~93)のあおりで噺の会の開催が出来なくなり、変わって寄せ場(寄席の初め頃の名称)と称して入場料を取って会を続けます。

  

〇三笑亭可楽( ? ~1833)

三題噺(寄席で客より三つの題をもらい即座に咄を作る)を熱演します。

 門人(十哲)と共に寄席落語を興隆させます。

    朝寝坊むらく(人情噺)、林屋(林家)正蔵(怪談話)、三遊亭円生(芝

居噺)、三笑亭可上、うつしゑ都楽、翁家さん焉、猩々亭左楽、佐川

東幸、石井宗叔、船遊亭扇橋

 

  〇噺の種類が増加

   元々の落語は滑稽話でしょうが、ここで人情噺、芝居噺、怪談噺、音曲噺が取り入れられます。

   滑稽話‥‥滑稽な噺をし、噺にオチ(サゲ)がある。       

   人情噺‥‥人情の機微を演じ、笑いは少ない、オチのないものが多い。

        元祖は朝寝坊夢羅久(可楽の弟子)

   芝居噺‥‥噺の一部がしばいがかりになる。鳴り物、背景が入る場合も

ある。元祖は初代三遊亭圓生

   怪談噺‥‥幽霊や怨霊をあつかう。大道具、鳴り物、照明を使う

        元祖は初代林家正蔵(可楽門下)

   音曲噺‥‥三味線、太鼓、鼓を使い音曲の入った咄をする。

        元祖は初代船遊定扇橋(可楽門下)

 

   (くるわ)(ばなし)を一種類とする人もいますが、ここでは滑稽噺に入れましょう。

   それぞれの噺から現在も残っている代表的な噺の一つを後掲します。

 

 〇三遊亭円生(1768~1838年)

   鳴り物入り芝居掛かりの祖

   三遊亭の流祖

   門人:二代目圓生、初代古今亭志ん生、初代金原亭馬生

  

  〇寄席の始まり

   寄席を始めて開いたのは三笑亭可楽によるものと言われています。

(18世紀末)

寄席は数十人から200名ぐらいの演芸場です。歌舞伎の芝居小屋より小規模です。

   寄席では音曲、声色、手妻(奇術)なども噺を聞かせる間に催されます。

   (現在色物と言っています)

   上方でも同じころ寄席ができます。

 

  〇暗雲の時と復活

文政の頃(1818~29年)寄席の数125軒、天保の頃(1830~43年)噺家200名といわれました。

天保の改革(1841年)で寄席の抑制政策で15軒に制限されます。

しかし制限解除後の安政の頃(1854~59年)には170軒となり

再び隆盛期を迎えます。

   

③幕末から明治(明治維新は1868年)

〇三遊亭円朝(1839~1900)

 話術家として、作家(人情噺・怪談噺)としても優れており、口演速

記録を残しています。

近代落語家の祖とも言われます。

 演目として真景(しんけい)累ケ淵(かさねがふち)、怪談牡丹灯籠、怪談乳房榎、芝浜、死神、塩原

多助一代記など多数が有名です。

 

  〇それぞれの派の興行

   三遊、柳、桂、林、扇、司馬、立川の一門はそれぞれ連を作って興行をします。

   明治に入って三遊派(円朝)と柳派(談州楼(だんしゅうろう)(えん)())が二代勢力となります。

 幕末にいったん人気下火になった人気傾向は明治17年(1884)に

は87軒の寄席に戻ります。

  

  〇珍芸

   本筋を外れた珍芸にも人気が出ます。

三遊亭円遊のステテコ踊り、四代立川談志の釜掘り踊りなどに人気が出ます。この踊りがどんなものか筆者には分かりません。

 

  〇落語研究会の発足

一方伝統落語への回帰として落語研究会(興行)が明治38年(1905)に発足します。

   今日も続いています。

 

 ④大正~戦前の昭和時代(1912~1945年)

娯楽が多様化(映画、浪花節の人気)するとともに、名人と言われ、明治の落語界を支えた三遊亭円遊、四代目円生、三遊亭円左、六代目桂文治、四代目橘家円喬が亡くなり、衰退期に入ります。

その中で活躍した落語家もいます。

〇三代目柳家小さん(1857~1930年)

 大坂のネタ「らくだ」、「時そば」を東京風に改作

 

〇出ばやし(落語家が高座に登場する特にはやす音曲―三味線・太鼓・笛)

 が大阪より東京に持ち込まれます。

 

〇東西交流が行われ人気の回復を図ります。

 

  〇一方人気落語家は花柳界の御座敷に呼ばれ、寄席をすっぽかしします。寄席落語が衰退します。

 

  〇落語界の立て直しのため東京寄席演芸(株)が設立され、三遊・柳連

(会)との二代派閥となり更に柳家三語楼が睦会と合同して落語協会

(大正15年―1926)を設立します。

   昭和5年(1930)には柳家金語楼と春風亭柳喬は落語芸術協会を設立させます。

 

   復活をめざす落語界で人気を得て戦後も活躍する落語家も輩出します。

   この人たちは下記の⓹で記述します。

 

⓹戦後の黄金時代

  〇(さん)遊亭歌笑(ゆうていかしょう)(1917~50年)

   新しいスターの登場です。

   七五調の文句で綴る純情詩集

   「ブタの夫婦がのんびりと 畑で昼寝をしてたとさ 夫のブタがめをさまし 女房のブタにいったとさ いま見た夢はこわい夢 オレとおまえが殺されて こんがりカツにあげられて みんなに食われた夢をみた 女房のブタが驚いて あたりの様子を見るならば いままで寝ていた その場所は キャベツ畑であったとさ」

 

   歌笑亡き後柳亭痴(りゅうていち)(らく)の純情詩集に受け継がれますが痴楽亡き後このシリ

ーズは途絶えます

 

  〇戦前からの名人が復帰します。

   *柳家金語楼(1901~72年) 「落語家の兵隊」 喜劇俳優

*六代目春風亭柳喬(1899~1979年)「子別れ」、NHKとん

ち教室

    *六代目三遊亭圓生(1900~79年) 芸術祭賞 落語協会脱退

八代目桂文楽(1892~1971年)廓噺、幇間(ほうかん)(男芸者)もの、

芸術祭賞

    *初代柳家権太楼(1897~1955年) ナンセンスネタ

    *七代目林家正蔵(1894~1949年) 時事ネタ、初代三平の

     父

    *八代目林家正蔵(彦六)(1896~1982年)芸術祭賞    

    *五代目古今亭志ん生(1890~1973年)「火焔太鼓」 

芸術祭賞

    *三代目三遊亭金馬(1894=1964年) ラジオで人気

    *五代目柳家小さん(1915~2002年)  滑稽話 人間国宝 

落語協会会長

    *五代目古今亭今輔(1898~1976年) 新作に転向

    *三代目桂三木助(1902~1961年)  芸術祭奨励賞

    *三代目三遊亭金馬(1894~1964)居酒屋 養女が林家三平

の妻

 

〇民放ラジオが開始し、ラジオが隆盛時代です。

    ラジオ局が落語家と専属契約を結びます。

    東京放送とは八代目桂文楽、五代目古今亭志ん生、(後にニッポン放

送)、六代目三遊亭円生、五代目柳家小さん

    文化放送、ニッポン放送も専属契約を結びます。

 

   〇ホール落語が登場します。

    観客は大勢です。オーバーなしぐさ、寄席での噺は短くしますがホー

ル落語はじっくり聞かせます。愛好者から歓迎されます。

    ・三越落語会-三越劇場 1955年(昭和30年)

    ・東横落語会―東横ホール 1956年(昭和31年)

        文楽、志ん生、円生、三木助、五代目小さんがレギュラー

    ・若手落語界―第一生命ホール

      

 

   〇古典、芸術の落語が誕生します。

    演芸評論家の安藤鶴夫、湯浅喜久治が落語を伝統芸能、古典、芸術

と称します。

次々に名人言われる落語家が芸術祭賞が芸術奨励賞や芸術祭賞を受賞します。

    八代目桂文楽、八代目林家正蔵、五代目古今亭志ん生、三代目桂三木

助が受賞します。

    柳家小さんは人間国宝認定されます。

    

    一人話芸の落語は大衆演芸より芸術に格上げされたのです。

 

   〇新作落語の時代でもあります。

創作落語会が昭和1961年(昭和36年)に有楽町ビデオホール、

ニッポン放送後援で催されます。

    古今亭今輔、三遊亭歌奴(三代目圓歌)、初代林家三平、桂米丸など

が人気を博します。

   

   ○昭和40年(1965)代、50年(1975)代に若手に有望格が

輩出されます。

    四天王と言われた三遊亭円楽、立川談志、古今亭志ん朝、月の家円鏡

(橘家円蔵)

    古典落語もやりますが、テレビでも人気者でした。

    その外にも春風亭柳朝、柳家小三治、五街道雲助、春風亭小朝等が出ます。小三治と雲助はその後人間国宝になりました。

 

 ⑥受難の時期

  〇昭和40年(1965)代に相次ぐ名人が死没します。

   三遊亭金馬、八代目桂文楽、五代目古今亭志ん生です。

   

  〇人形町末広亭閉鎖、川崎演芸場の閉鎖

   若手の落語家は落語よりテレビ、ラジオのレポーター、司会、パーティ

   の余興で人気が出ます。

   寄席に来る客が減ります。

     

  〇ラジオからテレビ時代へ

   テレビ的落語

   落語家のテレビタレント第1号の林家三平です。

   立川談志がテレビの企画にも参画します。

   金曜寄席、やじうま寄席から笑点が生まれます。

   立川談志の「現代落語論」が出版されます。―落語が能のようになって

はいけない

  

  〇昭和53年(1978)に真打昇進問題で落語協会から三遊亭圓生た

ちが独立します。

会長の柳家小さんの真打昇進基準が甘いと。

   1983年(58年)には立川談志が同じく真打昇進問題で落語協会か

ら独立します。

    談志の弟子が真打に昇進できなかったことからです。

 

  ○現在業界の協会は

   一番大きな組織は1922年設立の落語協会(現会長柳家さん喬)。

次に大きい組織は春風亭柳橋が1930年設立の落語芸術協会(現会長

春風亭昇太)

   1978年に落語協会から分かれた三遊亭圓生の落語三雄会は亡き後

円楽一門会になり、5代目、6期代目円楽亡き後現在は一派は落語協会

へ接近、一派は落語芸術協会に加入、接近しています。

1983年に落語協会から分かれた落語立川流は設立者の談志亡き亡き

後現在は立川志の輔が代表で活動しています。

 

⑦21世紀落語ブーム)

  将来の落語会を背負って立つ男と言われた古今亭志ん朝が2001年(平成13年)に、2002年(平成26年)には人間国宝柳家小さんが亡くなります。

  昭和40年代、50年代に若手の有望格と言われ、その後看板になった春風亭(りゅう)(ちょう)(1991年没)、三遊亭円楽(2009年没)、立川談志(2011年没)、橘家円蔵(2015年没)、柳家小三治(2021年没)も亡くなりました。

 

  しかし寄席、ホール落語、地域寄席、落語勉強会とは別に平成7~8年(1995・96)年頃から落語家の独演会、二人会、三人会形式をプロヂュースする興行会社が現れます。

  落語家自身が落語会をプロジュースする人も出てきます(春風亭小朝がプロジュースする六人会など)。

  寄席(定席)は現在東京では、上野鈴本演芸場、浅草演芸ホール、新宿末

広亭と池袋演芸場の4席です。

外に国立演芸場、お江戸広小路亭、お江戸両国亭では1カ月10数日開演の寄席もあります。

 

 

終りに

 それではおしまいに東京、上方落語界の現況です。

現在はふたたび落語ブームと言われています。

東京落語会では人間国宝になった五街道雲助、それに春風亭一朝、春風亭小

朝、立川志の輔、柳亭市馬(落語協会会長)等が看板でしょう。

これに続く人気者としては桃月庵白酒、三遊亭兼好、柳家三三、春風亭昇太、春風亭一之輔などの人気者がいます。

上方では桂文枝、桂文珍、笑福亭(つる)()、桂吉弥が人気者で関西落語を背負っています。

  落語家が寄席以外で、ホール落語、地域寄席等の公演の機会が増えており、テレビでの活躍もあります。

 日テレ放映の「笑点」は人気の番組で、ここから落語好きになる人も多いで

しょう。

 落語の人気は時代、時代で上がり下がりがありますが、ただの古典芸能に止

まらず大衆芸能として現在も生き続けています。

 

 落語の演目数は約800ほどあり、現在演じられている古典落語は200~

300位と言われています。

 

 最後に四つのジャンルから一つづつ梗概をつづりましょう。

○滑稽噺

 {まんじゅう怖い}

  町内の若い者が集まって、何か怖いかと談義中に嫌われ者の松が「実はまんじゅうが怖い」と告白し、隣の部屋で寝込んでしまいます。皆んで日頃のうっぷんを晴らそうと、そっと枕元に買ってきた饅頭を置きます。松は「こわい、こわいと」言いながら饅頭を食ってしまいます。それを見て皆んなは「お前は本当は何がこわいのだ」と。松「今はお茶が怖い」

  (滑稽な噺で、落ちがあります)

 

○人情噺

 {芝浜}

  ぼてふりの魚屋勝が大金の入った財布を芝浜で拾う。勝は大酒のみです。喜んで家で酒を飲んでどんちゃん騒ぎして寝込んでしまう。

  翌朝女房に「拾って来た財布を出せ」と言います。女房は「そんなことは知らない。酔っぱらって寝て夢でも見ていたんだよ」と言われる。

  大酒のみの勝は深く反省し、断酒してそれ以後真面目に働き、ついに表通りに店を構えるようになります。

  そこで女房が「実はあの財布はお上に届けた」と。そうこうする内にお上より「落とし主が現れないので拾い主に下げ渡す」と。

  女房よりお酒をすすめられる。勝いわく「いやよそう 飲んで寝てこれが夢になるといけねえ」

  (人情噺ですが落ちがあります)

 

○芝居噺

 {中村仲蔵}

  歌舞伎世界で名門ではない中村仲蔵が忠臣蔵の五段目の定九郎役をふられ、

  扮装に工夫をこらして評判になり、名優として後世に名を残すことになる噺です。

  (滑稽な噺ではなく、落ちもありません)

 

○音曲噺

 {紙屑屋}

  道楽者の若旦那は紙屑屋に働きに行かせられる。そこで紙屑の選別をさせ

られる。紙屑の中に義太夫の本を見つけだし浮かれ出し踊りだす。

(三味線が入ります)

(芝居噺も三味線やその他鳴り物が入る場合がありますので、その場合音

曲噺とも言えます)

以上

 22024年11月10日

 

梅 一声

監修竜亭楽馬

 

  

参考資料

○にっぽん芸能史 稲田和浩 2014年 映人社

○改訂 日本芸能史入門 1964年 社会思想社

○落語の歴史 山本進 2006年 河出書房新社

○新版 落語手帳 矢野誠一 講談社

○現代落語論 立川談志 1965年 三一書房

○落語家論 柳家小三治 2001年 新しい芸能研究室

○醒酔笑 安楽庵策伝 鈴木棠三校註 1986年 岩波文庫