日本近世までの戦法と武芸
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(閑話そぞろ歩き 2017年4月2日「日本近世までの戦場での戦い方」に
コンパクトにして掲載)
{はじめに}
武芸は江戸時代に入りますと武術、明治時代に入りますと武道と言われますが、もともとは戦場での格闘技術です。
武芸は武器(兵器・武具)、馬を用いて、又素手で相手(敵)を殺傷する技術です。多くの場合この技術の合わせ技になります。
武器は古来、攻めの道具としては、鉾、剣、刀(太刀、刀、脇差、鎧通し、小刀)長刀、薙刀、弓矢、槍、鉄砲等々で、守りの道具としては鎧、兜、胴丸、
腹巻、楯等々があります。
武芸は本来戦場で戦士と戦士が殺し合う技術として発展してきました。
江戸時代に入りますと集団戦の戦争がなくなり、戦いは鎧、兜を着けない平服での武術が発展します。特に剣術や柔術は鎧、腹巻、胴丸をつけない着物を着たままでの格闘の技術が進化します。
剣術は切り合いが主な技に、柔術は襟をつかんで投げ、抑える技が発展しま
す。明治に入りますと、柔道、剣道は一定のルールの下で技を切磋琢磨するこ
とになります。
それでは古代から戦国時代まで戦場で兵(戦士)はどのようにして敵である相手を仕留めたかです(殺し方)。
これは基本的には歩兵戦か騎馬戦かによって違います。時代によって違います。両方の戦法の併用もありましたが、どちらかが主戦法でした。
時代別に戦法とそれに合わせて戦場での武芸を見てみます。
1、古墳、飛鳥、奈良時代の戦法と武芸
①戦法は歩兵戦
歩兵戦です。馬も使用されましたがこれは指揮官が戦場に赴く時、騎馬
での指揮や連絡用でした。
武器は鉾(長い柄の先に短めの剣(両刃)が付いている)、直刀(歯に反
りがない)に弓です(鉾は矛、戈とも)。
集団で戦うのですが、先ず弓合戦でそれから個別戦で鉾や直刀で相手を
たたき切って仕留めたと思われます。
②武芸の特徴
身を守る武装は挂甲、短甲とか言われるもので、素材は鉄の小片を縫
い合わせて出来ていたとの説もありますが、鉄製品が普及しいない頃ですの
で、一般的には固めた木綿や皮で作られていたでしょう。
後の鎧兜より軽装ですが歩兵としては活動しやすい設計でしょう。
歩兵戦では指揮官も歩兵として戦います。騎馬戦ほとんどなかったでしょ
う。
具体的にどんな技が駆使されたかは分かりません。
楯は持ちません。映画でご覧になった方もおられるように古代のギリシャ、
ローマ中世の戦場での格闘は、兵士はかならず左手に楯を右手に槍、又剣を
持って戦います。
日本では古代から戦国時代、江戸時代も手に楯をもって戦う戦法はありま
せん。矢を防ぐ矢楯はありました(地面に立てて使用)。
これは日本の戦場での格闘の特徴です。
2、平安時代初期から平安中期の戦法と武芸
⓵戦法は一騎打ちの騎馬戦
奈良時代の末期ごろから戦場で馬の効用が言われるようになりました。
歩兵戦より騎馬戦に戦法が変わっていきます。
最初は騎馬に乗った武者が戦場を駆け回って歩兵を蹴散らかし、敵の歩
兵集団をくずしました。
この効果から騎馬武者での戦法が敵も味方もとるようになりますと、次に騎馬と騎馬の対戦になっていきます。
歩兵戦が主力から外れ、騎馬と騎馬とのの一騎打ちが中心になります。騎馬は一般の兵ではなく武者(侍、武士と言われるようになる)と武者
との個人戦となります。
武者は朝廷の武官や地方の名のある豪族、その一族等で騎馬武者と言わ
れました。彼らは戦闘の専門家になります。戦場で戦うのは彼らです。
歩兵は騎馬武者の補助者になります。
平安時代の戦争は、主人が朝廷、国司、地元の豪族に乞われて戦場に赴き
ます。自らの戦争もあります。
その際、主人は家の子、郎党、郎従、小者を連れて戦場に出ます。騎馬武
者(侍、武士)と言われるのは主人、家の子(親子、親類)と郎党(主人 の家人)です。郎従や小者は武装はしますが、役割は騎馬武者の補助者です。
戦場までの鎧兜(箱)の運び、馬の轡とり、弓矢持ち、小荷駄運びが仕事です。
大体一人の騎馬武者に対し5人ぐらいが付きます。これで騎馬武者のワン
セットです。
ですからよく昔の物語で軍勢を百騎、千騎と数えますが、軍勢としての
総人数はこれに5ないし6を掛ける必要があります。百騎は軍勢で五~六百
人、千騎は軍勢で五~六千人となります。(ただし騎馬戦が無くなった戦国
時代も終盤になりますと、百騎は百人、千騎は千人の軍勢を表していました。)
この時代戦場で大人数が集まっても戦うのは騎馬武者と騎馬武者の一騎
打ちです。
郎従や小者間の小競り合いはあったかもしれませんが主戦闘、勝敗に
は大きな影響は与えません。
②武芸の特徴
馬上で声が聞こえる距離(50メートル位か)で、互いに向き合い出身と姓名を名乗ります。
二騎が馬で駆け寄って互いに馬上から矢を放ちます(射る、撃つ)。 弓は互いに馬の左側から放ちます。
射落とせなければ、すれ違いの時に再度矢を放ちます。それでも射落と
せなければ馬を返して矢を射かけます。
射落とせば自分は馬から降りて、相手を抑え、馬乗りになって首を掻きます。馬上での弓矢で決着がつかなければ互いに馬を下りて戦おうと声を掛けます。
互いに同意あれば馬を下りて太刀で撃ち合います。双方鎧と兜で身を固めていますのでなかなか斬れません、太刀で撃ってその打撃の衝撃で倒すことが多いのです。
鎧は重いし、自由がききません。なかなか決着がつきません。現在の剣道のように身軽に動いて面、銅と撃っても相手を斬れません。鎧や兜は斬れません。
そこで双方素手やろうと呼びかけます。太刀を捨てて組打ちをします(小刀は挿したままです)。組打ちはその後戦国時代では小具足、江戸時代は柔術、明治以降は柔道とか呼ばれています。相撲の技も元は組打ちの技です。
これで相手を倒し、組み伏せ、動けなくして鎧通し(小刀)で首級(首・くび)を掻いて、だれだれを討った旨の勝ち名乗りを上げます。そして首級を主人や大将に差し出し、恩賞をもらうのです。
ですから戦闘では先ず馬上の弓矢で、決着がつかなければ下馬して太刀戦、それでも決着がつかなければ素手の倒し合いとなります。
従って一番大事なのは弓馬です。一騎打ちの騎馬戦です。当時は武者は弓馬の道と言われ、平素馬上での弓矢の技術を普段から稽古しました。馬を走らせて的を撃つ流鏑馬は大事な平素の稽古でした。
それから鎧兜や太刀等を付けた武装の重さは悠に三十キロありました。
武者(侍)は馬に乗るにも従者に手伝ってもらう必要があります。
この重い鎧兜は着けての戦いは第一には馬上で戦うことを考えての重装備です。地上での格闘は重くてそう長く戦うことが出来ません。太刀を振り回す時間が長いと両者はへたばってしまいます。
そこで素手の組打ちで決着をつけようとの提案が出ます。ですからもちろん太刀の技も大事ですが、組打ちの技が大事なのです。
現在の柔道にように襟や袖は持てません。鎧を着ているのですから。
相撲の技や合気道の腕を取っての関節技が有効でしたでしょう。現在
の柔道でも形で残っています。
3、平安時代末期から鎌倉時代の戦法と武芸
①戦法は一騎打ちから集団の歩兵戦への移行期間
平安時代末期になりますと戦法が変ります。
武者間の一騎打ちは残りますが、指揮官の乗る騎馬と歩兵との集団戦に
になって行きます。
それでも従来からの戦場でのルールがありました。遠矢(遠くから射る)はしない、馬を射らない、海戦で船の櫓を漕ぐ船頭は非戦闘員であるので射ない、斬らない等でした。
歩兵を含めての集団戦が主体になって来ますとこのルールの順守は難しくなっていきますが無視はしませんでした。
しかしこのルールを全く無視した仁が現れました。源義経です。この仁は奥羽地方(藤原氏のもと)で乗馬技術をみがき、馬体の大きな馬を選び、強い騎馬を増やし歩兵と一体になって戦場を駆け回りました。夜討ち、朝駆けの急襲、遠矢、船頭を討つなど平気で従来のルール無視です。
平家に対し義経が強かったのは当時としてはこの画期的な戦法が功を奏したのです。
平家は卑怯なりと言ったでしょうが、「勝てば官軍」流は義経が出した戦法です。
その後みんな義経流となりましたので、奇抜な戦法とは言えなくなりました。義経もこの自分の戦法で奥州で敗れました。
②武芸の特徴
名乗りをあげての一騎打ち戦も残っていました。騎馬侍はこれを好みます。
やはり首をあげてなんぼの世界です。
それから首をあげて大将から恩賞をもらえるのは当時は騎馬侍だけです。歩兵の従卒はもらえませんので偉い武将であっても首級はとりません。(時代を下った戦国時代は一般の兵も相手の位の高さや首級の数で恩賞をもらえました)
当時の主な武器は弓矢、太刀、長刀、薙刀、小刀です。そうです、槍が
なかったのです。
思いつかなかったのではなく必要を感じなかったのでしょう。長柄の武器
は長刀(柄の長い刀)や薙刀(柄が長く柄の先に短い刀)で充分と思ったのでしょう。
しかし蒙古との戦いである文禄の役(1274年)と弘安の役(128
1年)では鎌倉武士は蒙古軍の武器である槍に悩まされました。
戦後、日本国内で戦でも槍が出現します。以後戦場での接近戦での主力
武器となります。
戦争の武器で槍が13世紀後半まで登場しなかった国は日本ぐらいでしょう。
ヨーロッパでは槍は歩兵も騎馬兵も使いました。手でもって相手を刺す又は投げて殺傷する武器です。古代ギリシャのオリンピックの種目以来今日の陸上競技でもやり投げがあります。石器時代から狩猟で使用されて以来の武器です。
4、室町時代の戦法と武芸
①戦法は歩兵戦
鎌倉末から室町時代になりますと、一騎打ちの騎馬戦はなくなります。歩兵戦です。騎馬武者は馬に乗って歩兵(徒士、足軽)を指揮すること
が主任務です。集団戦の中で馬上で槍や刀を振り回して戦うこともあります。
歩兵には侍格の徒士もいますが、歩卒である足軽(普段は百姓等の庶民)の働きが主戦力となり、これを騎馬武者が指揮します。
歩兵は弓矢、長刀、槍、薙刀、刀、をもって集団となって敵に向かいます。戦場でのルールはありません。なんでもありの殺し合いです。
②武芸の特徴
騎馬武者はもはや騎乗で弓矢をもって戦いません。弓を使うときは下馬して使います。槍や刀は騎乗して又は下馬して地上で振り回します。
相手を殺しますと原則首を取って主君に差し出します。首は腰にぶら下げます。重いのであまり多くはぶら下げられませんので首はいくつもあげられません。
武士(騎馬武者)は戦場では馬から下りて戦うことを念頭に、重い大鎧はやめ、胴丸、腹巻と称される軽くて動きが良い当世具足での装備となっていきます。
歩兵は敵との間隔がある時は矢合戦をし、更に接近戦となりますと、弓、槍、長刀、薙刀、刀での戦いとなっていきます。楯は矢を防ぐ矢立を地上に立てて使いますが、個人では持ちません。
歩兵(足軽)も集団で侍を取り囲んで襲います。侍が撃たれることが多くなります。敗戦になると名のある武士は足軽に首を掻かれることを嫌がり、戦場で自刃します。家来が首を持って逃げるか、そこに埋めて、後日取り出します。
5、戦国時代の戦法と武芸
①戦法は歩兵戦
指揮官の武士(騎馬武者)と歩兵(徒士、足軽)での集団戦の型が出来上がります。
指揮官の騎馬者も戦場では騎馬で指揮することもありますが、下りて指揮することが普通です。
馬上での指揮は指揮官は鉄砲や矢に狙われます。
武田の騎馬軍団のように歩兵の先頭にたって敵陣へ突っ込む戦法もありましたが、少ないケースです。
足軽も臨時雇いの百姓ではなく常雇いのプロの兵士となります。
武器としては鉄砲が導入されました。戦国時代の後半の主力武器となります。
戦闘部隊は鉄砲隊、弓隊、槍隊に分けられ体制を組みます。
野合戦では敵との距離100メートル位で矢合戦が始まります。遠矢で山形に射ます(通常の弓は角度45度で200メートル位飛びます)。
距離50メートル位で鉄砲が放たれます。有効射程距離は30メートル内でしょう。
弓と鉄砲は至近距離で両方使われたでしょう。
弓も鉄砲も有効射程距離は同じぐらいですが、鉄砲の方が鎧を貫く威力が強いのです。
矢は鉄砲に比べ、破壊力は劣りますが、一時に多くの矢を山形に飛ばし、
敵の攻撃力を削げます。
それに矢は鉄砲より早く装填できます。
歩兵に扱いやすい鉄砲が普及しても弓矢は戦場では必須の武器であることは変わりません。
次に接近戦となり双方槍部隊の登場です。互いに横に長く並び互いに槍で遣り合います。
槍は先ず互いの槍を叩き落す行動に出て相手の槍の陣容(槍ぶすまと言う)を崩します。突き合うのではなく先ず互いの槍を叩き落すことが第一の戦術で、突くのはその後です。
槍は長い方が有利です。織田信長は3間半(6,3メートル)の槍を持たせていたとい言われています。
ここで決着がつき敗退して退却、逃げる方が敗戦です。
次いで決着がつかず、乱闘になり、一般の武士、徒士、足軽が刀、槍等の武器を振るって相手に切りかかります。崩れ負けた方は逃げます。勝った方は追いかけて首級をとります。
首を取ることに熱中しますと敵の大将や幹部侍を逃しますので、首を取らずに攻めて追い詰めろと大将は命令しますが、後で首級の数で恩賞が決まりますので、ここは難しいところです。
首級は互角で戦っている時はとれません。敵陣が崩壊して逃げる時に追いかけて取るのです。
②武芸の特徴
剣術は基本です。武士(騎馬に乗れる侍)は馬術と槍の訓練が一番大事です。徒士(下級武士、今日の下士官クラス)や足軽(兵卒)は槍とともに鉄砲、弓矢の訓練が必要です。武士でも弓、鉄砲隊、槍隊の組頭(隊長)はそれぞれの武器の訓練は必要です。
刀は戦場では誰でも常に必要な武器です、その技の訓練は昔から必須でした。
流派はあったでしょうが、剣法、剣術。兵法と言われ一刀流などの名称で全国的な流派が出来始めましたのは戦国時代の後半です。
接近戦での有力武器は一番に槍、次に刀でしょう。足軽の持つ槍は長い方が有利で長いもので、6メートル位のものもあったようです。突くというより互いに槍を叩き落すのです。武士は騎乗でも振り回し突きますので1,5~2メートル位でしょう。
戦国時代には一騎打ちはありません。たまたま騎馬同士が向かいあえば槍か刀でやりあいます。
騎馬集団と騎馬集団の闘い、騎馬集団と歩兵との闘いはあまりなかったのですが、甲斐の武田(信玄)の騎馬隊が有名です。騎馬集団が歩兵を襲い歩兵にダメッジを与えるのです。もちろん後に歩兵が仕留めます。
大変強い軍団として有名ですが、外にあまり聞きません。
6、江戸時代の武芸
江戸時代に入りますと、武具(具足)を付けた大がかりな戦闘はほとんどなくなります。具足を着けない平服での戦いがほとんどになります。この平服での戦いを前提にして剣術が進歩し、襟、袖を持っての柔術が進歩しました。
平服を前提ですと、身の動きは機敏になり、剣術も柔術も多彩な技が生み出され多くの流派が出来ました。
剣術、柔術、槍術、弓術等々武芸百般と言われ各々流派が多彩に別れ、技術を誇ります。
武芸の達人は武芸者、単に芸者と言われ一派を打ち立てます。江戸時代初めは社会的な地位はあまり高くありませんでしたが、戦場を知らない武士やその子弟の訓練のため、彼らの道場に通わせました。
親、兄弟や家来が実戦経験がなくなり教えられなくなったのです。武芸の専門家である流派の師匠に弟子入りして教えられました。
流派の師匠は幕府や藩の剣術、槍術等に指南役として迎えられました。
ただ鉄砲は鉄砲自体が火縄銃から進歩しなかったこともありますが、鉄砲を扱う武士が鉄砲方に限定されたため進歩しませんでした。
近世のヨーロッパでは破裂型の弾頭をもつ大砲や、火縄銃ではなく、撃鉄の衝撃で弾に込められた火薬を破裂させて飛ばせる鉄砲が開発されました。
これにより戦法は変わりました。鉄砲の銃弾の装填は早くなり、的への確度が高く、被弾距離は長くなり、弓矢や槍は必要なくなりました。
火縄銃は玉も装填に2~3分かかります。弓も早くても10秒はかかるでしょう。鉄砲はもっと早く距離も殺傷力が比べものになりません。
又、砲弾や銃弾の威力は強く、個人を守る鎧は役にたたなくなりました。
戦場に壕を掘るか地上にコンクリート製のトーチかを作っての防御方法となります。
国内外での戦争がなかった日本は銃火器の進歩がなく、輸入も遅れました。
黒船の来航以降ヨーロッパの武器を輸入しました。
幕末から明治にかけての国内戦争は近世のヨーロッパ方式となります。
大砲、小銃(銃剣付き)、短銃、刀です。弓矢や槍は使いません。身を守る
鎧、兜等の具足は着けなくなって行きます。大砲の弾や銃の威力には防御とはなりません。
ただ、ヨーロッパではかぶとは第1次大戦で復活します。現在ヘルメット言われているものです。当時は鉄製です。銃の直撃弾へは防御できませんが、流れ弾や流れ飛んで来る破片には防御出来るからです。
{まとめ}
それでは古代から江戸時代までの日本の戦場での戦法と武芸についての特色をまとめます。
キイワードは、騎馬戦と歩兵戦、弓、槍、刀、馬、組打ち鉄砲です。
1、騎馬戦と歩兵戦・
古代古くは歩兵戦で平安時代から平安時代中頃は一騎打ちの騎馬戦、平安末から一騎打ちの騎馬戦と歩兵戦の混合、室町時代から戦国時代は歩兵戦と変わります。
弓矢は騎乗の武士と騎乗の武士間での撃ち合いに使われましたが、歩兵戦になると歩兵の主力武器となります。
2、弓
日本の弓とヨーロパの弓に違いがあります、日本の弓は大きく遠くに、強く、矢の威力を主眼としました。(鎧を打ち抜く威力)ヨーロッパや中国は日本に比べ弓は小型ですが、スピーディーに次の矢を射れることを得意にしています。
戦国時代に導入される鉄砲が現れるまで離間がある場合の主力武器でし
た。
侍も歩兵の兵士(徒士、足軽)も平素から訓練しました。
騎馬上での弓矢の一騎打ち戦が見られたのは鎌倉時代初めまででしょう。
3、槍
武器の特徴は、槍の使用が世界に比べて遅く、13世紀後半の鎌倉時代からです
槍を敵に投げる法は日本に現れませんでした。ヨーロッパでは持って突く法と共やり投げは古代、中世にはありました。
槍の柄は歩兵は長いものを、騎乗の武士は短めの物を使用しました。(日本もヨーロッパも同じです。)
手に持って戦う場合、ヨーロッパでは左手に楯を持ち右手に槍を持ちます。日本では楯は持ちません。
4、刀
接近戦では槍が第一になりますが刀の重要な位置は変わりません。刀は身のふるまいが敏速にでき、至近距離に入れば他の武器より有利です。
江戸時代の剣法、剣術の古流武術が現在まで残っています。今日も大家がおられます。
古代から戦国時代まで戦場で甲冑を身に着けた武者(武士)や兵卒にとって剣術のどのような技が有効であったかを大家よりのまた聞きをお話します。
戦場での刀法は、足を左右に広げ、腰をかがめ、右手に刀を持って身構えます。そして相手のて脛を払う(脛の防備は難しい)や刀を両手に持って袈裟懸け(相手の左肩に向かって右上段から左下に打ち込む。斬れなく ても衝撃は大きく相手は倒れる)が有効であったとの説があります。そうです時代劇で見るやくざ剣法です。
現在の剣道では認められない技です。(剣道の技は面、銅、小手、と突きだけです。)
5、馬
日本では西洋や中国の紀元前に使われた戦車の使用はありませんでした。馬に台付きの二輪の車を引かせて戦士が台に乗って槍で戦いました。
ヨーロッパや中国では古代には直に馬の背に乗る法はありませんでした。馬の利用は車(戦車や荷車)を馬に引かせたのです。
馬は本来直に乗られるのを嫌がります。馬は神経質で何かの変化で大暴れします。乗馬しての馬は騒乱の戦場では役に立たなかったのです。
乗馬して馬を御すには技術が必要です。馬の背にまたがってうまく御す法
(乗馬術)を会得したのは遊牧民族と言われています。
遊牧民の乗り方の乗馬は古代ローマ等のヨーロッパでは偵察や伝令で使
うか又は後方支援の道具でした。
鐙が発明され、乗馬技術が向上し、騎馬戦が行われるようになってきま
すのは5世紀以降でしょう。中国も同じころでしょう。
日本では戦車方式の馬の利用の時期はありません。騎馬用の馬として、馬は乗るものとして大陸から入って来ました。
中世ではヨーロッパや中国、モンゴルでは一騎打ちや騎馬集団での戦闘が重要な働きをしました。
日本では古代一騎打ちの騎馬戦が主要な戦闘になった後中世には歩兵戦にもどり、そして騎馬集団での戦いは戦国時代の一部(武田の騎馬兵)でしかありませでした。馬に乗って歩兵と戦うのは歩兵の長い槍に弱く戦力になりませんし鉄砲や弓矢の標的になりやすいからです。歩兵同士の集団戦の方が有利に展開できたのです。
戦国時代は、馬は上級武士の戦場までのあるいは戦場間での移動や伝令に使用されるのが主になりました。
しかし平時において騎馬武士(騎乗が許される武士)は徒士侍(騎乗が許されない武士)の格上であり、正式の武士として処遇されました。
それからヨーロパの馬はオスは去勢して使いました、オス馬は繁殖期には怒りたち暴れて御しにくいのです。特に戦場では。幕末来日したヨーロッパ人は日本で去勢されずに使われている馬を見て驚いたそうです。
それと日本では鉄製の蹄がなかったのです。これらの技術は幕末導入されたのです。
6、組打ち(柔術、相撲)
組打ちは大事です。相手を組み伏せて動けなくして首級を取る必要があります、甲冑を着けていますので襟や袖をもって投げるのはほとんど不可能でしょう。
腕をつかんで足払い、肘や肩への関節技や足運びで押し倒す。又すくい投げ等が有効でなかったかと思います。(柔術や相撲の技)
投げ放しは駄目です。相手を倒して組み伏せて、上乗りになって(仰向けでも、下向けでも)相手を動けないようにしてから小刀で刺して首を取って個人戦は終わりです。
動けないようにして縛る法もあったのですが、あまり多くはないでしょう。
これは江戸時代捕縛術として進化します。(犯罪者の捕縛)
戦法も武芸も概説です。戦国時代までの鎧兜や具足を着けた侍、兵士が実際にどのようにして相手を仕留めたのか、その技の詳細をご存知の方もいらっしゃると思います。
本稿は一般歴史書から得た断片的知識の集積と著者がいささか武術をたしなみましたこと、そして武術の師匠より聞きました話をからまとめました。
よって参考資料をご提示しません。
本稿はここまでにしたいと思います。
以上
2017年1月31日
梅 一声
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