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関白豊臣秀次は太閤秀吉の甥です。秀吉は自分の跡継ぎを秀次に決め、関白の職を譲りましたが、譲った3年半年後に秀次が謀反の企てをしたとして本人(28歳)はもとより近習家来、それに妻妾子供30余人を抹殺した事件です。
これまで、秀次は本当に秀吉に謀反を企てたのか、それとも冤罪なのか文禄4年(1595)の事件以来、当時の人々から現在人まで詮索してきました。
これまでの主な説を整理しますと、①秀次は実際に謀反を企てた ②石田三成が秀次謀反をでっち上げた(讒言) ③秀吉が実子秀頼が誕生して、秀次が邪魔になった
更に近年新説が登場して戦国史学会や日本史マニアの間で話題となっていますのでご紹介したいと思います。
新説に入る前に事件の概要と従来説の復習です。
秀吉は、天正19年(1591)8月に実子鶴松が3歳で病死したため、後継を決めることにし、実姉の長男秀次を養子に決め、関白職を譲りました(秀吉57歳の時、この後は太閤と称します)。
ところが文禄2年(1593)8月に秀頼が誕生しました(母親は鶴松と同じ淀)。
そして文禄4年(1595)7月に秀次謀反の企て事件が発生します。そして上記の通り、秀吉によって秀次(28歳)はもとより家族家来は処罰されます。
秀吉没の直後(事件の3年後)に書かれた大田牛一作の「たいこうさまくんきのうち」(太閤様軍記のうち)では秀次は実際に謀反を企てたとしてその参謀を木村常陸介としています。
江戸時代に入ってすぐに書かれた川角三郎衛門作「川角太閤記」(かわすみたいこうき)では謀反の企てなかったと、冤罪説をとっています。
又同時期に書かれた小瀬甫庵作の「太閤記」でも秀吉側近の石田三成と増田長盛の讒言(ざんげん)説をとって謀反の企てはなかったとしていますが、秀次は殺生関白と言われ、その悪行から処罰は天罰だとしています。
この本が基本になって江戸時代以降今日までその真相をみんなで類推、想像してきました。
今日の通説は「秀次の謀反の企てはなかった。しかし秀次が秀吉から謀反を疑われる行動をしてしまった。例えば鹿狩りの時に近習が具足(鎧、兜)を付けていた(戦闘準備)。朝廷に秀吉の承認を得ず、勝手に朝廷に多額の献金をした等です。」更に「我が子鶴松の生末を危ぶんで殺すことにした」を付け加える人もあるでしょう。
それでは新説です。
2012年に矢部健太郎氏(国学院大学教授)が打ち出した説です。
「秀吉は秀次の*非行から失脚を求めたのであり、謀反による切腹を求めたのではない。高野山へ出奔後に秀次は謀反を疑われたと思い、身の潔白のため勝手に切腹してしまった。秀吉はこの意図せぬ秀次の行動により政権に与える動揺を抑えるため、秀次謀反と決め、秀次を秀吉の切腹命令による切腹と公表した。そして側近さらに妻妾、子供を抹殺した」
*後陽成天皇が病気のため医師曲直瀬玄朔(まなせげんさく)が診たてていた期間に、秀次も具合が悪くなり、玄朔を出張中の伏見に往診させた。これは天皇に対する非礼であるとするとして秀吉が怒る(天脈拝診怠業事件)。
事件を時系列的に見ます。
○6月15・17・19日:医師曲直瀬玄朔は後陽成天皇を診たてる。
○6月20日: 医師玄朔は御所の使いに薬を渡して、伏見の秀次へ
往診する。
○7月3日: 秀吉の側近の前田玄以、富田一白、増田長盛、石田三成
が京都の聚楽第の秀次のもとに遣わせられる。
(謀反の詮議か上記玄朔を呼び寄せたこと等の非行へ
の糾弾かはっきりしないが矢部氏は謀反の詮索ではな く、非行の糾弾としている。これまでの説は謀反の詮議の説が多い。)
○7月8日: 秀次は秀吉のいる伏見城へ向かう。
秀吉の側近の木下吉隆の伏見の宿舎に入った後高野山
に向かう。
(伏見に連行された後、高野山へ追放されたのか、弁明のための秀吉との面談が許されないので、自ら高野山へ出奔したのかはっきりしない。矢部氏は自らの出奔説をとっているが、これまでの説は伏見へ連行された後、高野山へ追放説が多い)
○7月10日: 8日の晩は玉造、9日は奈良興福寺に泊り、10日に高野山の清巌寺(現金剛峯寺)に入る。高名な木食上人(もくじきしょうにん)が迎える。
○7月11・12日: 秀吉は、諸大名や朝廷に秀次に不行き届きがあったので高野山へ遣わしたと説明する。
○7月13日: 高野山の木食上人へ秀次切腹命令の書状が出された。
木食上人は僧侶たちと会議を開いて受けざるを得ない
と判断した。
(甫庵太閤記に書状の内容を載せている)。
○7月14日: 秀吉の使者として福島正則、池田伊予守、福島直堯が
高野山へ到着
(従来説は秀吉の切腹命令を持参説。矢部氏はしば
らく高野山で住むようにとの命令書持参説を打ち
出した。)
○7月15日: 午前10時ごろ秀次は近習の5名と切腹。
(上記の通り、矢部氏は秀吉から切腹命令は出て
おらず、秀次が身の潔白のために勝手に切腹してし
まったとの新説)
○8月2日 三条河原で秀次の妻子、子ら30余名が公開処刑される。
矢部氏の説と従来説の説明を上記時系列の整理の中(カッコ内)で述べまし
た。
更に矢部氏の説を補足します。
矢部氏は当時宮中の女官が記した「御湯殿上日記」(おゆどのうえのにっき)
から傍証されています。
7月16日の条(秀次切腹の翌日)に「くわんはくとのきのふ一五日のよつ時
に御はらきらせられ候よし申、むしちゆへかくの事候のよし申なり」
当時女の人はかな文字ですので、漢字を当てはめますと“関白殿(秀次)昨
日15日の四つ時(午前10時)御腹を切らせられ由申し、無実故かくの事候の
由申なり”となります。
これを矢部氏はつぎのように解釈しています・
{腹を切らせられは、自刃を強制された使役の「せられ」でなく関白秀次へ
の敬語の「せられ」であるので、秀次は切腹させられたのではなく自ら切腹を
したのである。}
としています。
この新説に対して学会ではまだ反対説があがっていないようです。
2016年の放映のNHK大河ドラマ「真田丸」でもこの新説を取り入れています。
それでは筆者の思いです。
秀次謀反はないでしょう。秀次は若い時から秀吉に可愛がられ、大した能力もないのに大将にさせられ、戦での失敗を怒られ、許されそして大人になって鶴松病死で、秀吉の後継者にしてもらったのです。秀吉に謀反を起こす能力も度胸もあるとは考えられません。
ただ政治的は配慮が欠ける人、政治家としての資質に欠ける人だったのでしょう。朝廷への献金問題(秀吉に承認なく)を起こし、天皇を診察中の医師玄朔を呼び寄せる。又狩りの時に家来に戦闘服を着せる等問題を起こします。
秀吉はこれまで明智光秀の謀反や数々の謀反劇を見てきています。当然疑わしくは罰するのです。秀次には甘えがありました。
秀吉が秀次謀反と信じて処罰(切腹)に踏み切ったと思います。
矢部氏の新説に反するようですが、福島正則は秀吉の切腹命令をもって行ったと思います。
それは、秀次が高野山に追放になったその日(7月8日)すぐに妻妾らは拘束され、秀次切腹の2日前(7月13日)には家老クラスは先に切腹させられています。謀反でなければこんな行動はとらないでしょう(妻妾らは後日処刑)。
更に甫庵太閤記によると切腹させる旨の書状が石田三成等の五奉行から高野山の木食上人に7月13日付で出状されています(7月15日切腹)。
秀次謀反は秀吉の間違いでしょうが、切腹は秀吉が命じたものでしょう。
秀次が平素の非行(殺生関白とあだ名される)が問題になりますがこのことでは秀吉が切腹を命じることはないでしょう。注意すれば言いことですから。
以上
2025年5月13日
梅 一声
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