家康 天下もちを食うために
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戦国時代はご存じのように最終的には徳川家康が天下をとり江戸時代(徳川幕府)となります。
家康は織田信長、豊臣秀吉に続く天下人です。
江戸時代に入って当時次のように歌った人がいます。
「おだがつき 羽柴がこねし 天下もち すわりしままに 食うは家康」
(信長) (秀吉)
家康はそう簡単には天下もちを食えませんでした。そうとう苦労してやっと
の思いで天下を掌中にしました。死ぬ1年前でした。75歳で没しました。
豊臣秀吉は、織田信長を謀殺した明智光秀を1582年(天正10)京山崎で討ち、翌年には信長の筆頭家老の柴田勝家を賤ケ岳で破り、徳川家康とは小牧長久手の戦い(1584年)では講和して天下への地固めをします。
その2年後の1586年(天正12)に家康を臣従させます。
前年には関白に就任しています。
1585・1586年あたりから天下人になったと言えます。
秀吉が病床に伏した時、一人息子秀頼は6歳です。
幼い秀頼と豊臣家が心配です。
家康には秀頼が成人までは政務代行を、利家には秀頼の守り役を頼みます。
二人への信頼は高いものでした。
秀吉は特に二人に「は頼む、頼む」と言いながら死んでいったそうです
(1598年8月)。
前田利家は同年に病没します。
その後前田家は家康の傘下に入り臣従します。
執政は家康の一人舞台です。
天下を乗っ取られる危惧を持った秀吉の側近で奉行の石田三成は家康に反発
します。
家康が上杉征伐中の留守に石田三成が大阪で大老の毛利輝元や宇喜多秀家を引き込み反家康連合を組み、戦いの狼煙をあげます。
反石田の秀吉子飼いの大名の多くは家康につき、これが関ケ原の戦いとな
ます。
ご存じの通り、徳川方の完勝です。
豊臣家の直轄領200万石より70万石に減封です。
石田に乗せられて味方した秀頼の生母の淀は責任を取らされたのです。
しかし家康は豊臣体制での中で秀頼への中継ぎ政権であること間違いありませません。
家康は1601年、1602年、1603年の正月の挨拶は大坂城に出向
き臣下の礼をとります。
1603年に家康は征夷大将軍に任官します。
当時の通念では天下人は関白で将軍ではありませんが、関白候補の秀頼の
対抗馬の位置にはなります。
1604年以降家康の秀頼への挨拶はなくなります。
臣従の礼を取りません。
諸大名にも家康に遠慮して秀頼に挨拶に行かなくなります。
家康は将軍職を秀忠に譲ります。1605年です。
将軍職は徳川家の家職とする意味です。
秀頼に将軍任官の祝いのため京に赴くように秀吉の正妻ねねを通じて淀に
申し入れます。
淀は激怒し、断固拒否します。
淀は秀頼が京で家康に殺されるとは思わなかったでしょうが、秀頼が徳川に
臣下の礼を取ることになり、主従逆転は許されることではなかったのでしょう。
これ以降家康は全国大名に徳川への臣従させる行動を起こします。
江戸城普請(秀忠居城)、駿河城普請(家康居城)、名古屋城普請(九男義直
居城)を天下普請として全国大名に工事、費用を負担させます。1607
年から1610年の間です。
天下普請と言っても徳川家の城の新増築です。
伏見城(豊臣)の財宝を駿府に移します。
江戸へ大名とその家族を人質にとります。徐々に進めますが、1609年
には九州、中国、四国、北国の大名には強要します。
次は豊臣秀頼の徳川への服属対応です。
秀吉の腹心の豊臣大名、加藤清正、福島正則、浅野長政、浅野幸長、加藤嘉
明、池田輝政、黒田長政等はほとんどが既に家康に服属しています。
家康は後陽成天皇が後水尾天皇に譲位されるお祝いに秀頼に上洛を勧め、
その折二条城で面談しようと持ちかけました。
これは口実で秀頼に家康に挨拶させる(徳川上位の上下関係をはっきりさせ
る)ことであり、淀も、秀頼も、周囲の関係者も分かっています。
淀は抵抗します。
上記豊臣大名が淀を説得し、秀吉の股肱の腹心加藤清正、浅野幸長、池田輝
政、藤堂高虎が自分たちがお供するので家康と面談(挨拶)するようにと淀に説き、秀頼上洛が決まりました。
当日は家康が二条城の庭まで出迎え、座敷に迎え入れました。
秀頼は家康に上座を譲りました。豊臣川からはねね(秀吉正妻の高台院)が
同席しました。
これで家康の天下は決定です(1611年)。
しかし家康は自分の死後も徳川政権を確実にする仕事が残っています。
この年二条城での二人の会見後加藤清正、浅野長政、翌々年には浅野幸長が
没します。
更に大名に徳川幕府の発する法令の遵守等の三ケ条誓詞を出させます。
大名の徳川服従を確認させます。
秀頼は含まれていません。
秀頼は未だ家康の臣下ではないことが分かります。大名の中で別格なので
す。
家康は豊臣家を徳川家の家臣化したいのです。一般の大名にしたいのです。
家康は京都の方広寺(秀吉が創建、豊臣家氏寺、地震火災で焼失)の再建を
秀頼に呼びかけ、大仏殿、大仏は1612年に完工し、梵鐘が1614年に完成し、落慶法要が営まれることになっていました。
この建造は家康が豊臣家の財産を消費させるためと言われています。
ところが梵鐘に刻んだ鐘名に「国家安康」の文字があり、徳川側僧侶、学者
よりこれは国と安とで家康を切断する意図であると因縁をつけ、家康に具申し
ます。
家康は豊臣方に厳重抗議します(1614年7月)。
豊臣方から家老の片桐且元が駿府の家康のもとに言い訳と詫びに行きます
が、家康は許しません。
且元は淀と秀頼に対し家康に許してもらうには、
「淀か秀頼が江戸に向かう(人質)。
又は大坂城から出て、大和か伊勢の領主となる。」
としかないと進言しました。
大阪城ではこれは且元が家康方に寝返ったと決め、且元暗殺を図ろうとし
す。且元は大坂城から退去します。
且元は豊臣家の家老ですが、家康が承認していた家老でもあったのです。
これを聞いて家康は豊臣討伐の理由にします。
大坂方は牢人を雇って大坂城での対戦の準備します。
家康は牢人を解雇しないと大坂城を攻めると言います。
大坂方は解雇しません。
大坂冬の陣が1614年11月19日開戦され、12月20日に和議となり
ます。約1カ月の期間です。
豊臣方は真田丸(大坂城南側出城)で真田幸村(信繁)が良く防戦しました
が、城外の北方で何戦か戦って敗戦します。
兵力は徳川方20万人。豊臣方10万人と言われました。
和議により大坂城の濠のすべてを埋め、本丸だけを残して建物はすべて破壊しました。
もう大坂城は城ではありません。
大坂城破壊後家康は次なる要求を突きつけます。
大坂城を出て淀か秀頼の江戸の在住、牢人の解雇です。
これは、秀頼は一般の大名並みになれと言うことです。
淀と秀頼はこれを拒否し再び大坂で戦闘となります。
大坂夏の陣の開戦です。1615年(慶長20年)4月28日開戦で5月7
日落城です。
先の冬の陣では1カ月持ちこたえましたが、10日程の戦いです。
兵力は徳川方15万人、豊臣方5万人と言われました。
豊臣方も奮戦しましたが、城は無いに等しく多勢に無勢で完敗します。
淀と秀頼は命乞いをしますが、許されず、5月8日自刃します。
豊臣家は完全滅亡です。
豊臣方の大名もその他の大名も現役の大名は誰も豊臣方に味方しませんでし
た。
徳川体制の完成です。
秀吉没後17年、関ケ原の戦いより15年を要しました。
家康はやっと天下もちを食えました。
家康は慎重に天下取りを画策した結果でしょうか。
家康は翌年1616年(元和2年)に病没します。
家康は秀吉没後徳川政権(天下)を狙っていたことは間違いないでしょう。しかし主筋ですので当初豊臣家を完全に滅亡させることまでは考えていなか
ったでしょう。
1611年に二条城で秀頼と面談したおり、秀頼が立派に育っていること
恐れを抱いたために、ことを急いだとの説があります(自分が亡き後秀忠では
抑えきれない)。
加藤清正、浅野長政・幸長親子は没し、後は福島正則一人で思いきった手が
打てると判断したとの説もあります。
以上
2025年7月13日
梅 一声
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