| 明智光秀の謀叛の動機- 怨恨説を否定 |
歴史上の人物で人気のある人。人気のない人、好きな人、嫌いな人がいます。それは人によってそれぞれです。 しかし織田信長に謀叛を起こし殺害した明智光秀を好きだと言う人は少ないでしょう。 この明智光秀はもちろん織田信長の家来でありますが、信長からもっともひいきにされた重臣でした。 信長の重臣は信長が殺害される直前は、一に明智光秀(近畿圏司令官)、二に豊臣秀吉(中国地方司令官)、三に柴田勝家(北陸地方司令官)、四に滝川一益(関東方面司令官)となります。 徳川家康は同盟関係にあり東海地方をまかされ、信長の長男の信忠は尾張、美濃地方をまかされていました。 二人は同盟者、息子ですので別格として純粋の家来としての一番出世は明智光秀で信長から最もひいきにされていました。 それでは何故明智光秀は、主君の織田信長を討ったのでしょう。 これについては江戸時代より今日まで色々の説が出ているのですが、みな推測、類推で中には面白く読ませるための奇抜な説もあります。 それでは先ず光秀が主君信長を討った粗筋です。 信長から安土で徳川家康の饗応役から役目を変えられ、備中(岡山県)で 毛利と戦っている羽柴秀吉を救援に行くように命ぜられます。 光秀が急遽出陣の用意をし、居城の丹波の亀山(京の西約30KM)から備中に向かうことになります。 ところが光秀は途中から備中に向わず、軍の方向を反対の京都本能寺に向かわせ泊まっていた信長を攻撃し、主君信長を討ちます。これが天正10年(1582)6月2日の事件で、本能寺の変と呼ばれています。 光秀はその後6月13日に豊臣秀吉に天王山(京都の西)の戦いで敗れ、逃げる途中で土民に殺されます。(俗に三日天下と言われますが。実際は十一日天下です) さて、ここで問題です。 光秀はなぜ信長に謀叛をおこし、天下を狙ったのでしょうか。皆さんもお考えをお持ちでしょう。 江戸時代から今日まで言われてきた謀叛の動機は、光秀が信長にうらみごとあって謀叛にいたったとの(A)「怨恨説」が大方の見方でしたが、昭和20年代に光秀がただ天下を取りたかっただけとの「野望説」が浮上し、現在専門家の間ではこの(B)「野望説」が通説になっています。又最近の研究者の間で、光秀の信長の政策への不満による(C)「政策上の不満説」が注目されています。 それでは今回は、現在何故「怨恨説」が減り、野望説が通説になって来たかについてお話しすることに致します。最近注目されてきた「政策上の不満説」やその他説については後日の機会に触れることにします。 光秀の信長に対する怨みの内容は「怨恨説」を主張する人によって違います。代表的な「怨恨説」、三つご紹介します。 @徳川家康の接待係の折、不調法があり信長に叱責され、秀吉援軍の司令官 の命令が下る。 天正10年(1582)5月15日に徳川家康が加封(武田氏討滅の功に よる)御礼のため穴山梅雪(元武田氏重臣で信長に寝返る)を伴い安土城 に信長を表敬訪問しました。 「その折の家康と梅雪への接待役を光秀に命じられたが、光秀接待に不調法があり、それを信長が強く叱責し、接待役をはずされた。(生魚から異臭が放たれていた) その直後光秀は中国の備中で毛利と戦っている豊臣秀吉への救援軍の先発の司令官に任命された。 光秀は接待役をはずされ、司令官に任命されたことを怨み5月の末に信長 に反逆を決意。6月2日の本能寺に宿泊中の信長を討った。」との説。 これは江戸時代に作られた物語「川角太閤記」にあるもので、この説を 信じている人が多いと思います。 しかしこの説は、もうほとんどの研究者によって否定されています。 それは先ず、「接待不調法で信長に叱られ、接待役を解任された」との記述 はその当時の文書や記録(一級史料とされている信長公記や多門院日記等) には記述されていません。事実とは認定できません。 更に、秀吉救援は信長が総大将として赴くもので、その司令官として光秀 は彼の組下の大将達である細川忠興、池田常興、中川清秀等を引き連れての 先陣を信長より承ったものです。 光秀は充分処遇された職分であると言えます。 主君信長を怨む理由はありません。 A八上城攻めに際して、信長より人質の母親見殺しの指令 「天正7年(1579)光秀が八上城(兵庫県多紀郡)に波多野秀治兄弟 を攻め囲んだ折、母親を人質にして兄弟を投降させ同兄弟を安土に赴む かせ信長の許しを得ようとしたが、信長はこれを許さず兄弟を張り付けに した。 そこで八上城側でも光秀の母親を張り付けにした。」との説 これも現在の研究者によって事実でなないとされています。この話も江戸時代に作られた総見記から取ってきた話で、一級史料の信長公記等では光秀は八上城を囲み干しあげて飢えさせて兄弟を召し取って安土に送り、そこで張り付けにされたとあります。光秀の母親の張り付けの話は創作です。 B光秀の驕り発言 「甲斐の武田勝頼を討って甲斐を平定(天正10年 本能寺の変の年の3月)した後諏訪で信長とその部将たちが集まった時に、光秀の発言{かような目出度いことはない。われらも(自分、光秀のこと)年頃骨折ったかいがあった・・・・} この発言に対し、信長が激怒し{お前がどこで骨を折って武功を立てたか} と言って光秀の頭を欄干に押し付け打擲した。」との説 この話も江戸時代の作の祖父物語から取った話で、物語に信憑性がなくまったくの創作とされています。 光秀は優れた武将であると共に能吏で信長には決して驕らないで従順をよそおっていましたので、このような軽率な発言をするはずがありません。 外にも怨恨説のもとになった話はありますが、もとになった話が事実とし て確認できません。 更に光秀は、本能寺の変の直後に最も仲が良かった細川藤孝(幽斎 江戸時代の肥後藩主)に味方になって欲しい旨書状を送っていますが、その中で信長に対しての非難の言葉はなく「自分が思いがけないこと発意したのは、細川忠興(藤孝の息子)や自分の息子を取り立てるためである。味方になって欲しい。」と述べています。 信長に怨みがあるなら、藤孝にたいして、こうこう こうゆう恨みがあって立ち上がった。味方になって欲しいと記述するはずです。 親しい細川藤孝に対し、「信長に怨みがある」とのうそなどつけません。 上記のように怨恨説の元の事実が創作であって、事件直後の細川藤孝への書状内容よりして、光秀は信長に怨みなどなかったのです。やはり「光秀の謀叛の動機は単に天下を取りたかっただけである。」と帰結されたのです。 この説が現在の主流の考え方の「野望説」です。 この年、信長は武田氏を滅ぼし、残るは中国地方の毛利と、四国の長宗我 部と越後の上杉です。 毛利はもう秀吉軍だけでも勝てますが、戦後の毛利の領地を極力小さく るために信長自ら出征することにしていたのです。長宗我部は直ぐに降参す の腹だったでしょう。上杉も謙信は亡くなっていますし、時間の問題です。 島津九州の大名も信長に従う旨上申し出ています。信長はほぼ天下を掌中に収 めたと言って良い時です。 しかし毛利への進軍に当たって、信長は数少ない親衛隊と京の本能寺で宿 泊しました。長男の信忠も信長に従軍するため京の妙覚寺に宿泊していました。 光秀は京から約30KM西の居城亀山城で信長の先方として軍勢(1万5千) を整え信長親子より先に出発の予定でした。 信長軍の当時の方面軍の配置は、近畿地方は明智光秀が大将、中国地方は 羽柴秀吉が大将、東海地方は徳川家康が大将、関東地方は滝川一益が大将、 北陸は柴田勝家が大将、そして四国(長宗我部)に対しては三男の信孝を大将 として摂津住吉(現大阪府)で四国渡航の準備をさせていました。 京の信長と長男信忠の手勢は5千位でしょう。その外の上記の通り信長の 方面軍は光秀以外は遠くに離れています。 信長を亀山から急襲して殺し、先ず京都をそして近畿、近江、美濃、尾張 を支配する。信長の方面軍は敵を抱えており、直ぐに戻ってこれない。 この間に近畿、摂津。大和、近江、美濃等の武将に呼びかけ味方とし、毛 利、長宗我部を味方にし、羽柴秀吉や柴田勝家等の信長の司令官とは武力と 外交で天下を自分のものにするとの計画です。 ご存知の通り信長謀殺の後、この光秀の思惑ははずれました。秀吉は毛利と 講和して大軍を連れていち早く京に戻って来ました。更にあてにしていた細川 忠興や筒井順慶等が味方になってくれません。 その後の天王山の戦いでは光秀は完敗し、敗死となります。 光秀が何故このような冒険に出たのか、江戸時代に入って知識人たちも皆 疑問でした。そこで江戸時代の作家たちは怨恨説をねつ造創作したのです。 野望説を唱える人たちの光秀の謀叛の理由は次の通りです。 「光秀は65才(最近はこれまでの55才説でなく65才説が主流です)で年齢的に後がない。上述のように手薄な信長の本能寺、信長軍勢がそばにいない。すぐに戻れない。この千載一遇のチャンスをものにして天下を取りたかった。」 「怨恨説に根拠がないなか野望説しかない。」 さて皆さんはやはり怨恨説を捨てられませんか。 なんせこの事件はミステリアスです。光秀が謀反を起こさなければ秀吉や家康 の出番はまずなかったでしょう。 以上 2015年8月13日 梅 一声
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