予定されていなかった関ケ原の戦い


関ケ原の戦いは何故起こったのかその根本の理由を探って見たいと思います。

家康はこの戦い後、豊臣政権を一人でしきり、3年後に征夷大将軍となって幕府を開き徳川政権を樹立します。

 

 戦いに至った根本理由は第一に秀吉が幼い跡取り残して死んだことです(1598年)

 秀吉は一旦後継者に決めた甥の秀次を殺してしまいました。謀反の罪です。これは後継を秀次に決めた後に実子秀頼が生まれ、この子を後継者にしたか

ったからです。

 

 秀吉は病床で6歳の秀頼に政権を継がせるために自分の死後の体制づくりをします。幼い秀頼が天下国家を仕切ることは無理です。秀頼が15歳になるまで、徳川家康を政治の責任者に、前田利家を養育の担当(守役)に決め、大大名の権力の抑制するために五大老、五奉行制の導入を決めました。

 

 幼い秀頼が政権を担い豊臣家を存続させるには並大抵のことではないと秀吉は承知していたでしょう。

 織田信長と嫡男の信忠が本能寺の変で倒れ、信忠の嫡男三法師が織田本家を継ぎました。

 しかし三法師は3歳と幼く、織田家の政権存続は出来ず、政権は秀吉本人が奪ったのです(三法師は秀信と名を改め、秀吉傘下の大名になりましたが、関ケ原で石田三成に味方し、織田宗家は滅亡します)。

 

家康の支援無くしては豊臣政権が成り立たないこと分かっていました。秀頼に

は家康の嫡男秀忠の娘と婚約もさせていました。

新設する五大老、五奉行には互いに秀頼に忠誠を尽くす誓紙を何度も提出させました。

 

 五大老は大大名です。重要政策の決定は5人で決めるように言われます。

徳川家康:(56歳、関東で256万石)、前田利家:(62歳、加賀で83

万石)、毛利輝元:(46歳、中国地方で112万石)、上杉景勝:(49歳、会津で120万石)、宇喜多秀家:(27歳、備前岡山で57万石)。

 

 五奉行は秀吉近臣の官僚型の中・小の大名です。家康及び五大老が決めた政策を執行する奉行です。

 浅野長政:(52歳、21,5万石)、増田(ました)長盛:(54歳、20万石)、

石田三成:(39歳、19万石+代官として17万石)、長束(ながつか)正家:(37歳、12万石)、前田玄以:(60歳、5万石)。

  

 秀吉は1598年8月、62歳でついに亡くなります。

 

 戦に至った根本理由の二番目は家康の野望が見えて来たことです。

 秀吉が考えた上記五大老・五奉行制では政治は執政出来ませんでした。

 自分が大老の筆頭で秀吉に任されたとして家康がすべてを仕切ろうとします。

 前田利家が1599年、秀吉没後8カ月後に死没します。利家の後を継いだ利長を入れて4人の大老では家康に物申す勢力になりません。家康は秀吉の下でも規模が別格の大きさでした。

 三成は4大老をもって対家康への勢力結集を図ろうとしました。

 

 他の4大老も五奉行の5人も家康の野望を感づいていました。

 それでも家康に代わり単独で政権をリードできる力ある者はいません。

 前田利家の嫡男の利長は父親の没後家康の軍門に下ります。利長は秀頼の守役も下りたのです。領国に帰ります。

 毛利輝元、宇喜多秀家も領国に帰えります。五大老の職務を放棄したのです。

二人は家康に服することを約束したのです。

 唯一家康に服さない上杉景勝も領国に帰りました。

大老の4人は領国に帰ってしまいます。利家も死んでいます。家康の独り舞台です。

 

 更に第三の理由です。反三成派の武将たちが家康に味方します。

三成は家康が政権を豊臣家から奪おうとしていると、確信していたのです。

 三成は秀吉によって取り立てられ側近の奉行として寵愛され、大名にもしてもらいました。軍功はさしてありません。秀吉執政の能吏でした。この時代戦場での功績でなく中堅大名になる人はいません。

 三成は人に倍して秀吉に深く恩義を感じていました。

 三成は反家康を明確にします。

 更に豊臣家のために家康の暗殺も考えました。

 ここですでに秀吉の豊臣政権の存続に暗雲が立ち込めます。

 

 家康の勢力を封じようとした石田三成には敵対勢力の有力武将の大名がいました。

 三成と同じく秀吉子飼いの武将大名加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長そして織田信長から秀吉の家来になった筋の武将大名黒田長政、細川忠興、池田輝政、蜂須賀一茂、藤堂高虎達です。

 この武将達が三成憎しから家康側につきました。

 

 何故反三成派が出来上がったかです。

 それは秀吉が起こした朝鮮征伐の文禄・慶長の役のおり、彼らの軍事行動が秀吉の命令違反行為があるとして目付の立場にあった三成が秀吉に中傷しました。彼らは秀吉からお咎めを受けました。

 彼らは秀吉亡き後も無実を訴えました。これを家康は有罪を翻し無罪としました。秀吉の側近として戦いに出ず、秀吉に中傷した三成への彼らの恨みは消えませんでした。

 そして反三成、親家康になって行ったのです。

 

 この大名達が大坂で三成を襲撃したのです。

 本来、三成とこの武将達は亡き秀吉の恩顧に答えるため秀頼を守り、豊臣政権の存続に協力していかねばならないはずです。

 両者の仲たがいは決定的です。

 三成は大坂から伏見の自邸に逃げます。反家康を鮮明にしていたにもかかわらず、家康に助けを求めたのは余ほど窮していたのでしょう。 

 家康は三成を反三成の大名達に引き渡す方法もあったでしょうが、そうはせず、三成に奉行を引退して、領国の佐和山城(琵琶湖の東側)に帰るように勧めます。

 家康は反三成の大名から命を守ってやり、佐和山逃がしてやりました。

 

 第四の理由は三成の対家康への蜂起です。

 家康は4人の五大老の内上杉景勝だけが自分に服しません。

 豊臣家への反逆の罪ありとして会津の上杉征伐のため伏見から会津へ向かいます。反三成の諸将も家康に従い遠征軍に入ります。

 

 この家康と反三成の武将達が会津へ向かい、大坂、伏見を留守にしたことと、毛利輝元が総大将になってくれたことが三成蜂起、関ケ原の戦にいたった理由です。

佐和山に引退していた三成が奮起して打倒家康を打ち上げます。いわゆる家康へのクーデターです。

 三成はこの時、即ち家康の大坂、伏見の不在中を待っていての蜂起です。

 しかし中型の大名の三成が大将では武将が集まりません。やはり大大名の毛利輝元をかつがないと家康とその一派には対抗できません。

 三成は予て昵懇の輝元の軍師安国寺恵瓊(えけい)を味方につけ、恵瓊は主君の輝元を説得しました。恵瓊は僧侶ですが輝元の軍師です。輝元は計画に乗ってしまします。家康に単独ではとてもかないませんが、三成が構築する反家康陣営計画が思ったより大きいと感じたのでしょう。

 三成は計画の立ち上げに成功しました。このクーデターは何と言っても毛利輝元を総大将に頂かないと大名が集まりません。

 近畿と九州の大名の多くが味方を名乗り出ました。大坂に妻子を人質に取られたこともあります。

 

 第五の理由は家康が会津遠征の途中から大坂に向かって西上して来たことです。

 それでは三成の思惑です。

 家康は伏見、大坂に戻って来れないと踏みました。上杉との戦いで戦力を西に回せないと。

そこで京、伏見、大坂やその近郊を抑え、政権の主導権が取れる。

 西軍に入った武将達もそう思たでしょう。

 三成も輝元も当初は関ケ原の戦いを想定していませんでした。

 

 ところがです。

 家康は上杉攻めを伊達、最上氏と共同戦線をはり、家康自身が西上すると言明します(大坂を目指し三成と戦う)。

 上杉征伐軍に参戦していた反三成の武将は、にっくき三成打倒のためと家康と共に西上を約します。

 東軍の結成です。

 この家康の西上が三成、輝元、西軍諸将の思惑が外れました。

 

 第五の理由は東軍の西上が早く直ぐに岐阜城を落とされ、関ケ原での合戦への誘導に乗ってしまったことです。

 東軍の西上が早かったと言うより、西軍の岐阜への集結が遅かったと言えるでしょう。

 西軍は大垣城を拠点にして東軍とにらみ合い、ここで戦うことにしていました。

ところが、家康の佐和山城(三成居城)への進軍のうわさで、それを遮るために、大垣城を出て軍を西に移動させて関ケ原で戦わざるを得なくなったのです。

 毛利輝元は大坂城から出陣しません。

 この流れの中で三成は関ケ原で戦う決断せざるを得なかったのです。

 

 三成は蜂起の時は決戦はないと思ったのです。一方家康は戦場で大勝し、一気に政権奪取の道を進みたかったのです。

 

関ケ原での戦いでの勝敗の理由については別稿でしたためます。ホームページ「石田三成はなぜ負けたのか」をご覧ください(2021年7月予定)

 以上

2021年6月12日

梅 一声