ヨーロッパ史と日本史の違いを見ます(その3)


その3の編で述べますのは「宗教改革」、「ルネサンス」、「産業革命」、「フランス革命」でして日本史とは対応しにくいのですが、関連ある部分を語ります。

 そして一応この編でおしまいとします。

 

 それでは「宗教改革」です。

 西ヨーロッパの中世、近世のキリスト教界ではローマ教皇の権力が王たちの

権力を上回る事態になります。これに不満を持つ王や貴族がある中で、ルター

やカルビンが宗教改革を訴えます(16世紀初め)。カルビンやルターは純粋に

キリスト教の教義の上からローマキリスト教界に反発しますが、この運動が予

てローマ教会(ローマ教皇)に反発していた王や貴族たちと組んで大騒動にな

ったのです。   

 結局、キリスト教はローマカトリック(旧教)とプロテスタント(新教)に分

かれます。そして今日にいたります。

  

 だいたいどこの国も宗教機構を支配するのは王が普通です。キリスト教も

東ローマ帝国のキリスト教(後のギリシャ正教、ロシア正教会)も皇帝(王)は教会を統治していました。

ローマ教会は西ローマ帝国が消滅しましたので、保護される政権がなくなったため、自立せざるを得なくなりました。その後フランク王国や神聖ローマ帝国との間でローマの皇帝に代わって王位や皇帝位を認証する役を担ったことが王や皇帝より上位の観念となり、統治権の一部(課税権の一部等)も持つようになりました。

 

この宗教戦争は、神聖ローマ帝国のハプスブルグ家、フランス、スペインがカトリックに残り、ドイツ、北欧諸国やイギリスがプロテスタントとしてローマ教会から離脱し決着を見ました。

 

実はこの宗教改革のあおりで当時の戦国時代に日本にキリスト教(耶蘇教)の布教が行われました。

宗教改革はカトリック(旧教―ローマ教会))に対するプロテスタント(新教)の改革要求です。

 ローマ教会は改革の要求を飲みませんが、カトリックの中でも腐敗した教会

の是正に乗り出した人々がいます。この人たちはローマ教会(カトリック)の

中で改革していこうとする人々で、反宗教改革の運動と言います。

 この人々の団体にイエズス会があり、ヨーロッパ以外の国々への布教を熱心

に行っていました。日本に来たフランシスコザビエルはここから派遣されて来

たのです。(1549年)

  

 次いで「ルネサンス」です。

 中世後半に起こったギリシャ、ローマの古典の復興、文芸復興としてとらえ

ることが多いですが、実はヨーロッパの科学技術の革新的発達が重要です。

 それは航海に関する技術の飛躍的な発展です。

 羅針盤の改革、帆船の発展(竜骨船建造で頑丈な船体、三角帆の発見で向かい風でも前に進める)です。

 これまで手漕ぎ船で沿海を走っていた船は、改良された帆船で荒海の外洋を

風の方向に関係なく走れるようになりました。

 これらの技術の発展でコロンブスは大西洋をアメリカへ航海することが出来

(1492年)、ポルトガル、スペインがアメリカを制覇し、インド、東南アジ

アへ進出が出来たのです。もちろんその後イギリスもオランダもその他のヨー

ロッパの国も世界の海に進出します。大航海時代です(15世紀後半から17

世紀前半)。

 

 日本へポルトガル人が戦国時代にやって来たのも(1543年)、世界進出の

一環です。

 当時日本もこの科学技術(船舶建造術、航海術、鉄砲)は伝授されました。

 しかし徳川幕府は、鎖国をして日本だけの平和を求めました。外航用の大型

船(西洋式帆船)の建造を認めませんし(一枚帆の和船)、鉄砲の製造も制限しましたので、技術の発展はありませんでした。

 

 「産業革命」です。日本でこの恩恵を受けたのは幕末から明治にかけてで、

ヨーロッパより約100年遅れました。

 18世紀後半にイギリスで起こった産業革命は、中世末に起こったルネサン

スによる科学技術の発展を更に画期的に飛躍させました。

 これにより西ヨーロッパは重工業の興隆、資本主義社会、植民地政策から帝

国主義国家へと世界で明確に優位の地位につきました。

 この西ヨーロッパに遅れてアメリカ合衆国、ロシア、日本が重工業に注力し、

植民地政策から帝国主義に参入します。

 経済力でアメリカ合衆国がトップを走っていたイギリスを追い抜くのは20

世紀初めでしょう。

日本が科学技術、工業力はヨーロッパや合衆国に近づいていったとは言え、第

2次大戦前においては未だ差は大分はありました。

特に、精密な機械の大量生産が出来ません。精密な箇所は手作業になります。

技術力が劣るのです。兵器産業では致命的です。

 ヨーロッパは産業革命後も今日まで科学技術は著しい進歩を続けます。

 

最後に「フランス革命です。

 1789年に始まり、王のルイ16世まで処刑したこの革命は、その後も混

乱が続き、共和制からナポレオンの出現で王政に戻り、そして1870年に再

び共和制となり、この共和政は今日まで続きます。

  

 この間ヨーロッパ諸国民はこの革命に影響され、王国を封建制から主権在

民、国民国家に変革させます。

ヨーロッパの王主権の封建制の終焉です。王制が続く国もありますが、王

権は大きく制限され、議会制内閣となって行きます。

 

 フランス革命騒動は18世紀終わりから19世紀にかけてです。

 フランス革命があった頃以降日本はロシアの艦船の蝦夷地寄港で、北海道、

樺太の調査が開始され、北方領土確保の機運が高まってきた時期です。

 19世紀になるとイギリス船やアメリカ船が浦賀等にやってきて開港を求めますが、幕府は応じません。

 しかし1853年にアメリカのペリーが浦賀にやってきて、翌年に和親条約が結ばれ日本の幕末は始まりました。

 産業革命に乗り遅れ、科学技術の遅れは徐々に分かって来たでしょうが、フランス革命がヨーロッパ全体に及ぼした影響、即ち国民国家、民族国家、主権在民の思想は幕末も末の頃から明治に入って来てからでしょう。

 日本では討幕がなり、明治維新となります(1868年)。

プロシャの王制に似せての天皇制ではありますが、ヨーロッパの議会制度が取り入れられ、選挙権は高額納税者から1919年には成人男子には選挙権が与えられました。

全てフランス革命後のヨーロッパの政治体制の影響を受けています。

以上

 

 2016年5月15日

梅一声