ヨーロッパ史と日本史の違いを見ます(その1)


日本人にとって、日本史についてはどうしても馴染みがあります。奈良時代や平安時代など今日の日本人の社会とは別次元のようにも思えますが、それでもなんとなく納得感があります。戦国時代や江戸時代になりますと、もっと身近になり、政治、社会で活躍した人々を尊敬の対象とします。

 ヨーロッパとは、戦国時代までまったくと言って言いほど日本とは隔絶されていました。

 江戸時代は一般の日本人はほとんどヨーロッパでの政治的、社会的、経済的、文化的な様子を知りません。

 ヨーロッパの歴史を日本人が知ったのはごく一部の人を除いて明治に入ってからです。

 今日、ヨーロッパ史は学校の必須科目です。しかしヨーロッパ史はやはり日本史に比べて難解です。

 ここで西洋の歴史の主要な事柄を我々の日本の歴史と比較することで、ヨーロッパの歴史と日本の歴史違いを見たいと思います。

 

今回のテーマは「民族の多様性と王朝国家」です。

ヨーロッパはアジアを入れてのユーラシア大陸の西側に位置します。大陸の

地続きです。この大陸には紀元前の古代から大ざっぱに言って西側には白人、

東側と中央には黄人が居住します。さらにそれぞれ多くの民族、部族に分か

れています。当初、部族は同じ地域に住む5万人位が単位であったと言われ

ています。

 

ヨーロッパのほとんどの地域は白人のインドヨーロッパ語族が居住してき

ました。

インドヨーロッパ語族はアーリア人とも言われますが、同じような言葉を

話す人々をひとくくりにしたに過ぎません。

 それはさて置きこのインドヨーロッパ語族は大きく分けてギリシャ・ロー

マ人(ラテン人)、ゲルマン人、スラブ人、ケルト人となりますが、ゲルマン人はさらに50以上の部族に分かれます。良く知られていますのがフランス人の元でフランク人、イングランド人のもとのアングロサクソン人等々です。

 

ギリシャ人やローマ人のように古代からその地を動かない民族もいますが、白人でもゲルマン人は他の部族に追われて古代末から中世初期にかけて激しく移動する部族もいます。

この移動の理由は有力(武力)部族に追われた部族が難民状態で次から次へと押し出し移動するのです。

中世初期に一応移動は落ち着きます。しかし居住した地域の隣りとの縄張り争いは続きます

同じ言葉を話す者たちが集まって部族長(王になる)を決めて戦い合います。王権は子孫へ継承され王家となり、部族の有力者は貴族になり、勢力範囲の住民を領民として支配・統治します。王朝国家が形成されます。

 

こうしてヨーロッパ各地に王朝が発生します。しかしヨーロッパ全体を支配する王国、王朝は簡単に出現しません。

ヨーロッパ全体を支配した王国(帝国)は古代はローマ帝国です。

このローマ帝国もゲルマン民族の移動で東と西に分かれ、やがて西ヨーロ

パを支配していた西ローマ帝国は5世紀半ばに消滅します。

 

 その後にこの西ヨーロッパを西ローマ帝国に変って統治したのが、フランク

族からなるフランク王国です。

 フランク王国は南はイベリア半島の北からエルベ川(現ドイツ)の南まで

と範囲と勢力を伸ばし、イタリアをも勢力下におきました。

 

しかしこのフランク王国も9世紀半ばに西(フランス)と東(ドイツ地方)に分かれ、更にその後フランス以外は小国(小王朝)が分立したままで今日に至っていると言ってよいでしょう。近代のフランスのナポレオンが、又ドイツのヒトラーがヨーロッパを支配しましたが、それはほんの一時期で、ヨーロッパ全体を支配したと言える人物、民族、国は10世紀以降今日までありません。

 

 中世、近世のヨーロッパは多く王家や貴族の分立です。いわゆる封建時代です。

王朝国家間の領地の取り決めは戦争や話し合いで決まります。話し合いだけの取り決めでは不安定ですので王族間で婚姻関係を結びます。

ここでは民族が違うから婚姻しないなど王族たちは言いません。ギリシャ 人、ローマ人、ゲルマン人のフランク人、ドイツ人、スラブ人はどことも相互に婚姻します。政略結婚です。ヨーロッパは一つです。王家どうし、貴族どうしには民族、部族の意識はありません。ただ自分の支配領域を確保するだけです。

 

一方一般の領民たちは遠くの地域の人との付き合いは少なく、ヨーロッパ内の遠方との婚姻関係はありません。言葉の通じる範囲での付き合いです。

 

ヨーロッパの人々に民族意識が出て来るのはフランス革命の影響で王朝国家がら国民国家(主権在民)に代わった以降です。ですから19世紀の半ば頃からです。

国民国家形成の思想は次に民族国家となり、一民族一国家の思想になって行きます。

一般国民からこの声が上がります。一方政権側も王朝国家や多民族で構成される帝国より民族国家の方が国民の国への帰属意識(愛国心)が強く、兵士は民族国家の方が強いことが分かって来ました。

政権と一般国民はあげて国民・民族国家へ走ります。近代、走り過ぎて国家主義、軍国主義に向かう国が出てきます。

 

中国はどうかと言いますと。中国5千年の歴史と言いますが、ほとんどが中央集権国家の単独王朝時代が長いのです。

秦、漢、隋、唐、宋、元、明、清の王朝はいずれも中国(現在の中国よりは狭い)を単独で支配してきました。封建制でなく王の中央集権型統治です。

ただ、春秋戦国時代(紀元前8〜3世紀)や紀元3〜6世紀の時代は王朝が分立していました。それ以外の時代は単独王朝の支配です。

ヨーロッパのように分裂のままの時期は少ないですね。

中国の民族で最大の民族が漢民族です。しかし漢民族がいつの時代も支配していたわけではありません。漢民族の王朝は漢、隋、唐、南宋、明で、中国最初の統一王朝と言われる秦その後の金、元、北宋、清は西方または北方の異民族の王朝です。

 

さて日本での民族ですが、古代では九州の隼人族(はやとぞく)、山陰の出雲族が有名ですが、大和朝廷が早い時期に大和民族に吸収してしまいます。独立運動は続きません。東北の蝦夷も平安時代末期には大和民族に吸収されます。 

今も自分は隼人族だ、出雲族だ、蝦夷だと名乗り、先住民としての待遇を求めたり、独立を叫ぶ人はいません。ただ北海道のアイヌの日本人への同化は明治以降で先住民としての処遇が言われています。ただ江戸時代もアイヌ民族の人口は少なく2〜3万人と推定されています。

この人達も北海道の各地域に分散して居住しており、歴史の中で大和民族への反乱、抵抗もありましたが、アイヌ民族すべてでの団結はありませんでした。又全体での王朝国家の形成はありませんでした。

沖縄も明治に入って日本国に吸収されました。特に民族問題は起こっていません。

 

日本の大和王朝(大王―天皇)は5世紀ごろに出来、中央集権国家を形成し

ます。以降この王朝(天皇)を倒そうとする者は現れませんでした。

これがヨーロッパ史でも中国史でもない所で何故かと問われれば返答に難

しい所です。

 

 但し、平安末期から武士が政権をとり、大和朝廷の中央集権政治を崩し、封

建制度となります。平清盛、源頼朝から徳川幕府の江戸時代までです。

それでも大和王朝(天皇家)を倒しません。そのまま尊崇の権威として残し

ます。そしてその権威を利用して天下を治めようとします。

平安時代にも摂関家の藤原氏が実権を持ち天皇を上回る権力を持ちますが

天皇になろうとはしません。徳川氏はこれまでの武家政権の中でも最高の権力を持ちますが、天皇家を自分の上に頂きます。

この理由はいくつか説がありますが、ここでは一つだけあげます。

「実権も形もトップに立つと必ず政権を打倒としようとする者が必ず現れる。伝統の権威(天皇)を形の上でトップにし、自分はその下にしておいて実質日本の最高権力者となってふるまう。これにより権威(天皇)に守られる政体として権力の持続を計った」

 

今回はヨーロッパ史と日本史の違いの中で民族と王朝国家の仕組みの違いに

ついて述べました。

 更にいくつかの主要な違いについては続編で述べたいと思います。

 

 2016年2月21日

 

梅 一声