大和王朝が仏教を取り入れた理由


 

日本には固有の神様「神道」がありながら何故古代の大和王朝は異国の神である仏、即ち仏教(仏法)を取り入れたのでしょうか。

 確かに仏教の教えは、死んだ後のこと(あの世)の説明が明確ですし、この世の道徳、倫理の教えがあり、神道との違いはあります。

 しかしその理由だけで大和王朝は神道(神様)の上に仏教(仏様)を置いて仏教振興をされたのでしょうか。

 この解明を今回したいと思います・

 

日本の神様は大きく分けて天つ(あまつ)(かみ)(くに)(かみ)とがありました。天つ神は 古事記・日本書紀に記述がある神々で、天照大神を皇祖神とする天皇家の祖霊神の神々です。一方国つ神は大和の豪族、地方の豪族たちのそれぞれの祖霊神と村々の村民が祭る鎮守の神たちや産土神(うぶすながみ)です。

 天皇家の祖霊神と豪族の祖霊神・村の鎮守の神とは全く対象の神様たちが違

います。(後世は天照の下に併合されます)

 

 大和の豪族連合の長である大和王朝(飛鳥時代)が日本国を統治するため

天皇が自分は天照大神の子孫であると表明しても、豪族たちや一般人は自分た

ちの神とは違いますので、天皇の統治権の確立や権威につながりません。

 

 大和王朝(飛鳥時代)は統治権の確立のため、中央集権を即ち中国に見習い

律令国家を目指していました。

 

 その頃仏教が日本に伝来しました。(欽明天皇時代 538年)この仏教の教

えが尊いことは去ることながら、この仏教を大和王朝の統治の確立のために使

えると判断した人々がおりました。それはその後の天皇家の人達で、特に推古

天皇(554〜628年)とその摂政である聖徳太子(574〜622年)で

す。

 

 天皇を皇祖神の天つ神の子孫であるとして絶対的権威を打ち立てるには

難しさがあります。それは各豪族はそれぞれの祖霊神を持っているからです。

 仏教は仏(釈迦)は全ての人への絶対神です。天皇家を含めて各々の豪族た

ちの持っている多くの祖霊神とは違います。

 推古天皇はこの異国の神である仏を頂上に頂いて、天皇はもとより、すべて

の豪族や庶民が共通の神として敬い、天皇が仏の次の地位を確立して日本国を

統治することを考えました。

 

 この考え方は中国(隋、唐)でも朝鮮の百済でも取り入れ王権の統治に役立

ていました。

 欽明天皇以降の各天皇家は仏教の取り入れを考えました。しかし皇祖神との

関係がありますし、豪族たちが自分たちの祖霊神をたてて仏教に対し抵抗勢力

となり仏教の振興は容易ではありません・

 

 中央集権国家樹立には豪族の多くは反対です。天皇に対する自分たちの権力

の維持を求めます。

 祖霊神を立てて豪族権力の向上維持を求める代表は物部(ものべ)です。一方天皇家

の興隆と言うより中央集権の強い朝廷(政府)の建設を目論み、朝廷の中で

天皇を上回る実権を求めていた蘇我氏は仏教振興に賛成です。

 

政治権力の実権を握るために、仏教振興派天皇家及び同じく蘇我氏と仏教反対

派の物部氏が対立の構図となります。

 そして天皇家(聖徳太子)と蘇我馬子との連合は物部氏を滅ぼします。

(587年)中央集権国家を目指す天皇家と蘇我氏の勝利です。

 蘇我氏は法興寺(飛鳥寺)(588〜96年)を建てて飛鳥地方に仏教の地盤

を作ります。

一方天皇家(聖徳太子)は難波に四天王寺(593年)、斑鳩(いかるが)に宮(法隆寺)

(607年)を建てて仏教の地盤作りを行います。

 

この後は天皇家と蘇我氏とが朝廷で実権争奪の対立関係になります。聖徳太子が没した(622年)後、蘇我氏は朝廷で盤石の権力を持つことになりました。

しかし蘇我入鹿は絶頂期に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)と中堅貴族である

中臣(なかとみ)鎌足(かまたり)に暗殺され、蘇我氏は滅亡します。(645年)

大和王朝の実権は天皇家に戻り、補佐は藤原家(中臣改め)の体制なりました。

 

 その後天智天皇は朝鮮で百済・唐連合軍と戦うべく中央集権国家を目指しま

す。この戦い(白村江の戦いー663年)は敗れますが、敗戦後も律令国家を

目指します。そのために仏教による鎮護国家をうたい、全国民共通の神である

仏の下に天皇があり、その下に臣下、百姓と位置づけました。

    

仏、天皇、臣下、百姓を位置づけるために国民全体に仏教の布教を図りました。

 

 奈良時代に入り平城京に東大寺(752年)各地に国分寺を建設して仏教の

偉大さを知らしめ、又国民に仏教を慣れ親しみさせました。

 

 一方天皇家の宗教による統治は神道の利用も行います。上述のように天皇家

も豪族たちもそれぞれの神々を持つ中で、神道を如何にして天王家の皇祖神で

ある天照大神の下で一本化するかです。

 大昔から天皇家は地元神(豪族の神)を大事にされます。

伊勢神宮がいつ創建されたかはっきりしませんが、天皇家の祖霊神(皇祖神

である天照大神)はもともと大和飛鳥の皇居の中で祭られていたのです。ある時大和で疫病がはやり多くの人が亡くなり無くなりました。これは天照大神との地元の神である三輪神社(大神神社)とが仲が良くないせいだということになりました。

そこで地元神の方をそのままにして天照の方を動座してもらうことになりました。

場所が伊勢になったのは神武天皇の東征のルートに関係あるかもしれません。

大和の占領軍である天皇家が、被占領の三輪族の三輪神社をそのままにして

自分の祖霊神を移されたのです。

天皇家は地元神を大和だけでなく全国全ての神々を大事にされました。そうしなければ豪族たちが従いません。

 (やま)(しろ)(京都)の賀茂神社は鴨族の神社ですが、平安京になっても地元神として大事にされました。秦氏の伏見稲荷も同じです。

 

 大事にされる一方で、朝廷は律令制度(大宝律令701年)のもとで神々の

管理を始めました。大和王朝の日本完全統治のために必定です。

官社(式内社)を定め、幣帛制度(神に貢物を奉献する。各地の神社は都の朝廷にもらいに来る)を定めます。そして神階制度(正一

位、従一位・・・・・)を定め神をランクづけしました。

今でもありますね。正一位天照大神、正一位稲荷大社とかです。

国司は着任すると管轄の神社に参拝(総社・一宮等)して地方の神社を国としての尊崇を表明すると同時に国司(朝廷)の管轄下にあることを認めさせるのです。

こうして豪族・地方の神社を朝廷の統制下に置こうとする神祇制度は出来たのですが、地方の神社はこの制度ではなかなか従いません。うまく軌道に乗りませんでした。

 

 そこで出て来たのが平安時代から出て来た神仏習合の政策です。これは神道を仏教の中に習合してしまおうという政策です。

 神社の中にはお寺を、お寺の中には神社を併存させます。お寺の近くに神社

を配置しました。本地垂迹で仏や菩薩が姿を変えて神となり衆世を救済すると

の論法をとります。天照大神すら大日如来が姿を変えたものとされました。

 現在でもお寺の境内に神社が見うけられますね。神様が仏様を守るのが役割

です。

 この政策は大成功でした。日本は神道と仏教を一本化させたのです。

この政策は平安時代更に武士の政権の鎌倉時代、室町時代、戦国時代 そして江戸時代まで続きます。

 以後公家も武家も日本の各政権は神仏習合で神と仏を整理し、政権の管理下に置いたのです。仏の方が上位です。

 神様の地位向上を主張した国学の学者が江戸時代に現れました。 

明治に入りで神仏分離令(廃仏希釈)によって神と仏は分離されますが、古代大和王朝の取り入れた神仏習合政策は幕末まで続きます。

以上

 

2014年11月22日

 

梅 一声