忘れられた儒教の話 |
儒教と言えば論語です。その論語の第一編第一章は次の文章から始まります。「子曰く、学びて時に之を習う、
この章の全文は上記の通りで意味は次の通りです(漢文は略します)
「先生(孔子)はおっしゃる、詩経や書経などを学んで然るべき時におさらえすれば体得できる。それこそ人生の喜びではないか、こうして勉強していると学問について志を同じくする友達が、遠い所からやって来て学問について話し合う、それこそ愉快なことではないか、自分の勉強が人から認められるとは限らない、人に認められなくとも腹をたてない、それこそ紳士ではないか」
(中国文学の権威吉川幸次郎氏の解説を要約)
“友あり遠方より来る又楽しからずや”なんて久しぶりの友達に会った時にしゃれて使うことがありますね。
しかしこの節で重要なのは、その後の文言“人知らずして怒らず”です。「勉強して、努力しているのに認められなくても怒ってはいけない」との教えです。我々も努力もし、実績も上がっているのに上司に認められなくてやけになるこがあります。これへの戒めです。
論語は全編(二十編492章)、孔子が弟子に対して語った紳士教育のための教訓や道徳です。
しかしその後一般人への道徳教育にも使われました。
儒教は今日では人気科目ではなくなりましたが、古代から江戸時代までは
公家、武家の必須科目であり。そして明治から太平洋戦争まで即ち敗戦以前は
国民の道徳としてその一部を学校で教えられました。
儒教は中国の春秋時代に孔子(紀元前551〜479)が教えを説いたこと
を元にします。
その後100年後に孔子の教え「儒教」を孟子が広め、教えの中味を確立し
て行きました。当時諸子百家と言われ、道家、墨家、法家等の多くの思想家が
出ましたが、孟子よって儒教の位置は確立されました。その後紀元前213年、
秦の始皇帝の焚書坑儒(儒教を攻撃して関係の書を焼いた事件)で一時儒教は
後退しましたが秦滅亡後は道教、仏教と共に中国の主要思想、宗教となって行
きました。
孟子の後は戦国期末(紀元前3世紀)に荀子が、宋から南宋時代にかけて
朱子(朱熹)が、そして明時代には王陽明が現れ、儒教が興隆して行きました。
儒教とはそもそもどんな教えなのか。一言で語れない難しい事なのですが、
別に専門家でありませんので、あえて語ってしまいます。
孔子の教えとされている有名な「論語」は孔子が書き著した書物ではありま
せん。キリスト教の新約聖書がそうであるように孔子没後弟子たちが、孔子が
存命中に語った教えを持ち寄って編集した書物です。
孔子自身は当時既にあった古典の五経(詩経・書経・礼記・易経・春秋)
をもとに弟子たちに講義しました。
五経の中味を一言で言えば、詩経は詩作、書経は政治学、礼記は礼儀、易経は吉凶の占い、春秋は孔子の地元の魯の国の歴史です。
孔子の教えのエッセンスは仁・義・礼・知・(信)につきますが、この中身を
一言で言うのは暴論ですがあえて言いますと、「仁」は愛、人への慈しみ。
「義」は正義。「礼」は礼儀。「知」学問をして知識を得る。「信」は入れないこ
ともあるのですが、信頼のことです。
孝(親に孝行)や忠(君主への忠臣)の教えもありますが、これ等は後世に
強調された教えです。
孔子は君主(王侯)や君子(為政者、紳士)の道徳、心構えを説いたので
す。後世は一般人の道徳、教養の教えにもなりました。
宗教色は薄く孔子は神については語っていませんが、孔子自身は鬼神(祖霊・
天)については信仰していました。
論語のイメージを見て頂くために、何百とある論語の章の中からいくつかを、
そしてその章の中から皆さんがご存知だと思われる一句を抜き出してその文言
を紹介します。
・故(ふるき)をたずねて新しきを知る(温故知新)
・義を見てなさらずは勇無き也
・過ぎたるはなお及ばざるがごとし
・にわとりを割くにいずくんぞ牛刀を用いん
いずれの句も前後に言葉があるのですが、ここでは論語の雰囲気だけを見る
ことにして割愛します。
儒教は孔子の道徳の体現者としての孟子(紀元前4世紀の人)によって発展
し、孟子の流れをくむ朱子などによって儒教の解釈論が盛んになります。
孟子は性善説を唱えました。
「人の本性が善におもむくのは水が低い方に流れるのと同じだ。しかし水をはね飛ばしたり、せき上げたりすると高い方に向かう。これは水の本性ではなく、外圧のせいである。人間に不善の行為をさせようとするのは本性でなく外力のせいである。」(中国文学の権威貝塚茂樹氏の解説を要約)
紀元前3世紀に現れた儒学者荀子は性悪説を述べました。荀子の論はその後
引き継いだ人が少ないのです。
性善説とと性悪説をこのように説明する人もいます。
性善説は減点主義、最初は持ち点100で、努力しないと持ち点が減ってゆ
く評価の仕組み、これに対して性悪説は加点主義で努力した者点数がどんどん
増えていく評価の仕組みである。
孔子は性善説や生悪説についてはふれていません。
朱子(朱熹)は宋と南宋時代にかけて活躍した儒学者です。
朱子は四書を選定しました。即ち五経よりも大学、中庸、論語、孟子の
四書を読めば儒教は学べるとの説です。これを朱子学と言っています。
大学は礼記の一部を朱子が、中庸は同じく礼記の一部を子思(孔子の孫)
編集したもので、論語は孔子の教えを弟子がまとめたもので、孟子は孟子の
教えです。
そして朱子は孔子の教えにはない理気説(理気二元論)を打ち立てます。大変難しい哲学で解釈が多くあります。
「気は万物(物質的素材)の元で、理は気のあり方を規定する。それは仁・
義・礼・知である」
観念的な思想と言われています。又「人間は努力して学問をすれば仁とな
り大臣になれる」、と言っております。
朱子が生存中、朱子学は認められませんでしたが、次代の元、明時代に注目
され、明時代以降の科挙の試験では、儒教の科目は朱子学で解答しなければ
なりませんでした。明時代は朱子学が官学となり種々学派は興隆しました。
次の清時代も朱子学が盛んでしたが、明時代の後期に出て来た古学派も活躍
しました。
古学派は、朱子学に反対で、四書(大学・中庸・論語・孟子)より五経(易
経・書経・詩経・礼記・春秋)を大事にします。後世の人が孔子の考えだと述
べている四書ではなく、孔子が使った教科書である五経をもとに儒教を解釈し
なければならないとの説です。
中国では近代に入り共産党政権が出来るまで思想の元は儒教、仏教、道教
(三教)でした。仏教と道教は宗教ですが、道徳や倫理の面は儒教思想が負う
ところが多かったのです。
日本でも太平洋戦争での敗戦以前まで儒教思想の影響は大きかったのですが
最近ではすっかり馴染みが薄くなりました。
これは別稿「日本の儒教」でお話します。
以上
2014年12月28日
梅 一声
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