聖人君主上杉鷹山


上杉鷹山(ようざん)の名前をそれとなくご存知の方もおられるでしょう。しかし実際にどのような仁であったのかどうして有名なのかはっきりしない方も多いのではないかと思い、今回取り上げることにしました。

 上杉鷹山は戦前の方が日本人によく知られていました。戦後はほとんど忘れられていました。

しかしアメリカ35代大統領ジョン・エフ・ケネディ(1917〜63年(暗殺))が当時日本人記者に尊敬する日本人はいますかと問われ、“上杉鷹山”と答えたと言われ、当時の日本国内でもその名を知られました。

 上杉鷹山の有名な言葉で良く知られていますのが、「成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬ成りけり」があります(上杉鷹山書状から読み下し文)。ことわざとして知られていますね。

 外にも有名な文言を残していますが本文の中で取り上げることに致します。

 

 それではこの仁はどんな人であったのかを語りましょう。

 上杉(うえすぎ)鷹山(ようざん)の鷹山の名は隠居後の号で、(いみな)(はる)(のり)ですが、ここでは鷹山の名で通します。

 米沢藩(現在の山形県米沢市)15万石の藩主(領主)で、生まれは宝暦元年(1751年)で、没年は文政5年(1822年)です。生まれは高鍋藩(現宮崎県地方)藩主の秋月種美の二男で、宝暦10年(1760年)に上杉家に養子にいきました。10歳の時です。

 藩主の上杉重定に男子が生まれず、そのために叔母さん子(従弟)である

鷹山を養子に迎えました。(養子決定後に男子二人が生まれますが、すでに鷹山で幕府に届けずみであったため家督は鷹山で決定したいきさつにあります)

 鷹山は幼少より頭脳明晰であったのですが、上杉家に養子に入った後に、儒教を中心に英才教育がほどこされました。

 一方、藩主重定の米沢藩は当時藩財政が破たん状態で、それはまことに深刻で藩主と家老が相談して藩を幕府に返上しようとの考えも出ていたのですが、何とか踏みとどまって再建に取り組んでいました。

 そもそも米沢藩の上杉はあの上杉謙信の子孫ですが、関ケ原の戦いで西軍に味方して、会津120万石から米沢30万石に減領され、さらに謙信から3代目の網勝が跡取りを決めずに死没したことから、本来はお家断絶の所を何とか助けられ、15万石で存続した経緯にあります。

 しかし度重なる減領にも関わらず家来の数が変わらず人件費が重くなり、家来の知行、給与を削減しましたが、もともと良い地質の農地が少ないため、赤字財政となり、豪商からの借財で藩財政を運営していたのが新規の借財もできず。返済にも行き詰ってしまったのです。

 これまで藩を仕切ってきた権力者の森平右衛門(藩主の側近)がその失政を攻められ、家老の竹俣(たけまた)当綱(まさつな)に謀殺されました。

 政情混乱の中で藩主の重定は竹俣の執政(治政の責任者)に同意しました。せざるを得なかったのでしょう。

  

 話は戻って、鷹山は竹俣の執政の中で、重定から藩主の地位を受け継ぎました。家督を相続したのです。

 明和4年(1767年)17才の時でした。

 鷹山は竹俣と協力して財政再建に打ち込みました。

 米の増産はもちろん殖産にも傾注しましたが、自らも律し、家中に大倹約令を発しました。すなわち支出の削減です。

 藩主就任後6年後に、門閥譜代層の重役の七人が鷹山に対し、竹俣罷免を訴え、罷免なくは幕府に失政を訴えると詰め寄りました。

 鷹山は、前藩主重定と相談するとして何とかその場を脱出し、その後反攻に出て、家来に重役七人を捕えさえ、七人を処罰しました。

 これは重役同士の政治主導の争いと鷹山の大倹約令に反発しての事件です。

江戸時代の前期と違い、後期に入りますと藩の経営権は重役たちが支配します。藩主の多くは実権のないオーナーになっていきます。さもなくば藩主と重臣との間でいざこざが起こります

但し、藩主の地位は血脈で相続されます。封建時代の鉄則です。

藩主鷹山の下で竹俣執政は再び殖産と倹約を号令しました。

 しかし竹中の治政は頓挫しました。竹中は理由があいまいのまま天明2年(1782年)に失脚しました。そして竹俣執政の後に、志賀(すけ)(ちか)(年寄)が起用されました。

 鷹山は竹俣を信頼していましたが、改革が順調に進まず、やむを得ず交代させたのではないかと思われます。

 志賀執政は徹底した倹約令で出費を抑える政策で、御用商人からの借り入れを抑え、殖産には熱心ではありませんでした。

 その中で、天明15年(1785年)、鷹山は隠居するのです。

 理由はいろいろ考えられるのですが、自分に男子が生まれないことから先代藩主重定が生きている間に重定の子(鷹山が養子に入った後に出生)(はる)(ひろ)に家督を継がせることだったと思われます。義理の父へ配慮をしたのでしょう。

(その後鷹山に男子が二人出生します。しかし二人とも若くして亡くなります)

 倹約だけで出費を抑える政策はうまくいきません。

 改革はうまく進まず、寛政3年(1791)志賀は罷免され、竹俣執政で次席であった(のぞき)()(よし)(まさ)が起用されます。

 藩主は先代の重定の実子の治広ですが、莅戸執政で藩の実質オーナーは鷹山で変わりません。むしろ隠居した方がオーナー業に専念できます。

 この莅戸執政は莅戸が亡くなる享和3年(1803)まで続き、その改革政策が見事に成功したのです。

 これをもって米沢藩の再建はなったのです。

 莅戸が何をやったかです。大変項目が多いのでおもだったものだけあげます。

 財政基本計画としては、御用商人からの資金の調達。緊急策として経費節減、

藩士の救済、藩士の二男・三男を百姓にする。

 御用商人への見返りとして米沢藩の米や特産物の特権的買い上げを認め、彼らを武士として知行を与えて、役人に起用する。

 農民保護策として、拝借米銀、年貢未進の取り立て年賦の延期。年貢の徴収については五人組、一村に連帯責任を負わせる。農業用水の開設。

 殖産(産業奨励)として桑、青苧(あおそ…衣料)、うるしの等の生産に力をいれ、その開発費を貸し付ける。(御用商人から安い金利で借り、農民には上乗せして貸し付ける)

 米沢藩からの輸出を奨励し、輸入は極力抑える。

 これらの政策が功を奏し農村が復興し、農民も現金収入が増え、藩財政は文政9年(1826)までに11万両の負債を返済し、さらに5千両の蓄えもできました。

 この成功を聞きながら鷹山は文政4年(1821)3月12日、72歳で亡くなりました。

 

 上杉鷹山は、藩の治政には竹俣(たけまた)当綱(まさつな)、志賀祐親、(のぞき)()(よし)(まさ)執政代えました。莅戸執政で藩の改革が成功したのです。

 鷹山の藩改革の成功は莅戸の力量によることがほとんどです。それでは鷹山が聖人君主と言われたゆえんは何だったのでしょうか。

 もちろん執政官を起用して藩改革を成功させたことが基にあるのですが、その上に君主(オーナー)としての心得すなわち君主道徳を実行し、次代君主を諭したことです。

 先ず伝国の辞と言われるもので、鷹山から家督を治広(義父の息子)に譲る時に与えた辞です。

一、      国家は先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物には之無き候

二、 人民は、国家に属したる人民して、我私すべき物には之無き候

三、 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民には之無き候

 

 現在語訳しますと、「国家は君主(藩主)個人のものではなく公のもので、君主は人民のためにあるのであって、君主のために人民があるのではない。」

 封建領主でありながらここまで言及した仁は古今東西めったにいないのでは

ないでしょうか。

 次に冒頭でご紹介した「成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成さぬは 人の成さぬ成りけり」です。

 現在語訳しますと、「行動を起こせば結実する。行動を起こさなければ結実しない。何事も結実しないのは領主(君主、為政者)が行動しないからである。」

 この外「君主は民の父母」、「奢らざれば危からず」、「恵見て費やさず」等君主の心得を述べています。

 実際に鷹山の生活は質素倹約で、藩主になった時に藩主の年間生活費を前藩主の七分の一の209両に減額し、奥女中を50人から9人しました。

 平素の着物は木綿、食事は朝はかゆ二膳と香の物、昼と夜は一汁一菜と干し魚、あるいはうどんかそばです。

 彼の道徳は、儒教から学んでいます。教学の師匠は横井平洲というその時代の儒教の大家です。

 最後にジョン エフ ケネディ大統領をこの上杉鷹山のことをどこで知ったかです。

 明治の初めに内村鑑三が英文で「代表的な日本人」を上梓し、四人を取り上げた一人に上杉鷹山があり、それを読んだものと思われます。

 上杉鷹山の言行、心構えは、君主を現在の大統領、総理大臣に置き換えても

通用する教訓を秘めていると理解したのでしょう。

以上

 

2017年2月1日

梅 一