乳母春日局の物語


 

 

 徳川三代将軍家光の乳母でその名を福(ふく)、後年春日局(かすがのつぼね)と称せられた大奥の実力者について語ります。

 小説で知られNHKの大河ドラマにより有名になりましたのでご存知の方も多いとかと思います。

 又東京にお住いの方は文京区に春日と言う町が、春日通りと言う道があることをご存知の方もおられるかと思います。

 春日局の春日からとったものです。ここに春日局の屋敷がありました。そして春日が建立したお寺(りん)祥院(しょういん)が現在もあります。(お墓があります)

 

 しかし脚色された部分も多いので通説をもって本当のところを語り、異説について後半でお話します。

 先ず福はどのようなお家の生まれで、育ち、結婚歴、子供についてです。

 生年は天正7年(1579)で織田信長が全盛期の時代です。亡くなったのは寛永20年(1643)で徳川家光将軍時代です。享年65歳でした。実父は斎藤利三(としみつ)と言い、明智光秀の家老でした。

 斎藤利三は美濃国(岐阜県)出身で同国の有力豪族である稲葉一鉄の家臣で稲葉家とは親類でしたが、主君を明智光秀に乗り換えました。

 ところがご存知の通り光秀が主君織田信長に謀反し、その後豊臣秀吉に天王山で負け、逃亡中に殺されます。

 光秀も家老の利三も殺されます。

 その時利三の娘の福は母親の実家の筋の美濃国の稲葉一鉄を頼ります。一鉄は福を息子の重通(しげみち)の養女とします。福が4歳の時でした。

 一鉄も息子たちも信長亡き後秀吉側につきましたし、秀吉の敵の家臣の子と言え、福は女ですので許されました。

 福は17歳の時、養父重通がとった養子正成と結婚します。正勝、正定、岩松(夭折)、正利が生まれます。

 

 ここで福に、徳川家嫡男秀忠(後の二代将軍)の次男竹千代の乳母の話がまい込みます(長男は夭折)。竹千代は後に家光、三代将軍です。

 竹千代が生まれたのが慶長9年(1604)で、関ケ原戦いの4年後です。

 正成と福の間に正利が生まれた頃です。

 どうして福が乳母になったのか、小説などでは京都の粟田口の高札を立てて公募したとの話になっていますが、これは現在否定されています。

 稲葉家は斎藤道三の重臣です。当主一鉄は美濃三人衆の一人で美濃国で名の知れた豪族です。稲葉家は道三、信長、秀吉に従い、それぞれ亡き後は家康の家来になり勲功がありました。

 福の夫の正成は関ケ原の戦いで小早川秀秋の家老として秀秋を戦場で家康に寝がえらせた人です。(その後秀秋と喧嘩して浪人)

 家康からも覚えめでたい家です。

 福が乳母に推薦されてもおかしくありません。時代は流れその頃もう信長を討った光秀の家来斎藤利三の娘とのレッテルははがれていました。

 福の乳母決定は家康がなした説が有力です。

 

 さてお福は竹千代(家光)乳母に採用され江戸城に赴任するのですが、夫の

正成と離婚します。

 離婚が乳母に決まった後かそれ以前かはっきりしません。

子の正利が生まれた後と言うことになるのでしょう。

離婚の理由も分かりません。夫の浮気説と妻が出世してそのおかげで正成自身も出世を望まないと正成が離縁したとの説があります。

 福は自分の子の3人は一緒に連れて行ったでしょう。

 夫の正利には前妻や福と離婚した後妻、妾の間に息子3人、娘1人がいることは分かっています。この子たちは美濃にそのままいたでしょう。

 

 竹千代(家光)は二代将軍秀忠と御台所(正妻)江(ごう)の間にできた次男です。長男は夭折しました。江は小督(こごう)ともお江与とも呼ばれます。

 江は、織田信長の妹お市と浅井長政(信長によって敗戦自刃)と間にできた三女です。秀吉に引き取られ、姉の淀は秀吉の側室になり、秀頼を生み、江は何度か結婚させられた後、秀吉によって秀忠の正妻に送り込まれました。

 竹千代は慶長9年(1607)717日に江戸で生まれました。

この時代高貴の家では赤子の乳は乳母を雇って与えることが風習になっていました。

 そこで福が選ばれたのです。

 そして2年後に秀忠と江の間に三男国松が誕生します、

 竹千代はひ弱の子でしょっちゅう病気をします。昔は幼少で亡くなることが多く、すくすく育つ弟国松の存在は頼りになります。

 普通、乳母は離乳後しばらくして職を離れます。4~5歳ぐらいでしょうか。しかし福はそれ以降も傅役(もりやく)として残ります。

 その理由は上記のように竹千代がひ弱であったこと、そして竹千代が本来の傅役の青山忠俊と仲が悪く、竹千代が福になついて離れません。

 本来、教育係の傅役は男の家来ですが女のお福も異例の傅役になりました。

 

 このような中で秀忠も江も弟の国松を世子(後継候補)にと考えるようになったのです。

 この時代、長子が跡取りとは決まっていません。正妻の子が長幼を問わず一番の世子候補ですが、ひ弱な子は武将として無理として避けます。

 福は何とか竹千代を世子にしようと家康に働きかけます。

 そのせいかどうかは分かりませんが、家康は国松ではなく竹千代を秀忠の世子に決めます。小説などでは福の直訴で家康が決めたことになっています。

 その後竹千代は名を家光に改め三代目将軍になることが出来ました。

 

 これで終われば後世福はそれほど名を残さなかったでしょう。

 福は身内の多くを家光に取り立てさせ、旗本に、大名に、更に幕府の中枢の老中にもしました。

 元夫の正成と間の子正勝は老中に、養父重通の実子利貞は大名に、重通の兄の貞通、典通親子も大名に、正成の前妻との間の娘万で、その嫁ぎ先の堀田正吉の子正盛を老中にしました。もちろん夫正成も大名になりました。

 その外実家の斎藤家の兄と弟も秀吉との天王山の合戦で敗れて流浪していましたがこれも旗本に取り立てられました。

 これはもう乳母や傅役(養育が係)が大奥を飛び越えて表の政治に関与していることになります。

 高貴の家で乳母の採用は平安時代中期からと言われていますが、このような乳母が表の政治に関わった事例は過去には、源頼朝の乳母の比企局(ひきのつぼね)とその実家の比企家があります。但し比企家は頼朝が配流中から頼朝を経済的に支えていました。頼朝が天下を取ってから北条氏の対抗勢力なりましたが、結局北条氏に潰されました。

 もう一例として室町時代の足利義政将軍の乳母今参局(いままいりのつぼね)

がいますが、権力を得た所で謀殺されました。

 

 稲葉家や斎藤家は幕末まで大名、旗本として続きます。

 何故福にはこのような政治的な器量があったのかです。

 一つは家康からの信頼を得たからです。福はそのために家康のもっとも信頼している側室の一位の局や英勝院から信頼を得ました。

 そして家光が幼少の時も成人後も身を挺して養育、看護にあたってくれたこと、更に家康に世子は竹千代と直訴してくれたことへの家光の恩義です。

 福は自分の身内を家光(竹千代)の小姓、近習とし、成長ともに大名、老中になる道をつけたのです。

 福は表舞台では後水尾天皇の譲位問題に関与し、同天皇にも対面して「春日」という名を与えられました。

 家光から絶大な温情を受けた生涯で、寛永20年(1643)薬を断って

91465歳で亡くなりました。家光が疱瘡にかかった時に病気平癒を祈願して、薬断ちをして家光は快癒、その後死に臨んでも薬を飲みませんでした。

 

 これがまあ通説なのですが、実は竹千代(家光)は福と秀忠の間の子だとの説が以前からあります。最近偉い歴史学者も言っているようですので少しだけご紹介をします。

 福田千鶴子氏の「春日局」によりますと、

 福が夫の正成と離縁したのは慶長6年(1601)以前である。福には乳飲み子(正利)がいない慶長8年に江戸城大奥に出仕し、御台所の江に仕えた。

 竹千代は江が上洛中に秀忠が福に手を出して産ませた子である。

 江が実子の国松を世子にしようとしたのは、竹千代は自分の実子ではないからである。

 この事は、紅葉文庫(幕府の図書館)に収蔵の「松のさかえ」や臼杵稲葉家(一徹の長男の家筋)の「御家景典」に記述されている。

 

 更に、春日局の辞世の句

 「今日までは 乾くまもなく 恨みわひ 何しに迷ふ あけぼのの空」

 意訳しますと「今日まで 涙が乾く間もなく 恨んだりわびしく過ごしてきたが、死に臨んで何で迷うことがあろうか あけぼの空が見える」(筆者訳)

 竹千代を将軍にし、身内を出世させ、大奥を仕切り、従二位の位階をもらい、現世の栄達を見た春日に、死に際に現世に何に苦しい思いがあったのか。

 これは自分が家光の母親であることを名乗れなかった恨みのことであろうかと推察しています。

  本当のところは筆者にも分かりません。

以上

2019年3月12日

 

梅 一声