豊臣家は何故滅びたのか


 

 秀吉が死後を託した五大老、五奉行制は機能せず、徳川家康の政権奪取の方向へ進みます。

 何故このようになって行ったのかを豊臣側の数々の失敗を取り上げます。

 

先ず秀吉の失敗です。

 甥(姉の子)の秀次を跡取りに決め、関白職を譲ります。そこに秀頼が生ま

れます。

 秀吉は我が子秀頼に後を継がせるために秀次を謀反と言うことで殺してしま

います。

 豊臣家は秀次という大人の後継者いなくなり、秀吉は死んだ後を8歳の秀頼

が成人するまで大老徳川家康と大老前田利家(加賀)二人を後見人とせざるを

得ませんでした。

 しかし利家が直ぐに没した後は家康の独り舞台となります。

 もし秀次が生存していたら秀吉没後の展開は家康独り舞台でなく、いえ豊臣

家の政権が続いた可能性は大きかったと思われます。

秀次を殺さず、秀次の後に秀頼を後継ぎにと考えるべきでしたでしょう。

 元服前(成人前)の君主ではお家存続が危ぶまれるのです。

 織田家も信長の後は長男信忠が決まっていましたが、二人が同時に明智光秀

に殺されたので信忠の嫡男三法師(秀信)家督相続となりました。3歳の三法

師が当主で、織田政権を引き継ぐことになるのです。

 しかしそうはなりません。織田宗家の当主にはなりましたが、秀吉が織田

政権を奪取しました。織田家の面々も後に成人した秀信(三法師)も文句を言

いません。世間も非難しません。

 

 秀吉が8歳の秀頼に豊臣政権を継がせることは容易ではないことは分かって

いたはずです。

 結果的には秀次を殺してしまったことは失敗でした。

   

 更に秀吉の失敗です。

秀頼には乳母をおかず、成人するまで淀に直に養育させました。

 これが淀と秀頼との母子は親離れ、子離れしない相互依存型となり、秀頼と

淀は一対で、秀頼は成人後も自立出来ませんでした。

 本来は正室のねねを養育担当にするべきなのです。

 これが豊臣家存続出来なかった大きな要因です。

 

淀の失敗です。

 関ケ原の戦い(1600年)後数年は家康が政権を豊臣家に戻してくれる思

い、豊臣恩顧の大名も挨拶に大阪城に来てくれるし、家康の律儀を信じて期待

していました。

 

 1605年、秀忠が二代目将軍に就任しました。家康は徳川政権を世襲にす

るための体制強化を打ち出しました。

 その後、家康は大名に徳川体制傘下を強います(江戸城の城普請の割り当て

江戸への参勤等)。

 大名たちはコ川体制に組み込まれていきます。

 誰も大坂城の秀頼に挨拶に行かなくなります。

 

 家康は豊臣家を徳川の家臣にしようとします。

 1611年、6年ぶりに上洛した家康は秀頼(19歳)に京で面談します。

 家康は秀頼を見てその立ち振る舞いが立派なのに驚きました。女の園で軟弱

に育っていると思っていたからです。

 無事面談は終わりました。

 家康は立派に成人した秀頼に脅威を抱き、豊臣家対策を深刻に考え始めました。

 

 1614年7月に家康によって方広寺鐘銘事件がでっち上げられます。

 秀吉ゆかりの方広寺再建の費用は豊臣家で、施主は豊臣と徳川両家です。

もう竣工間近かの時に鋳造された梵鐘の銘の中に「国家安康」の文字があ

り、国と安で家康を分断する意図があると因縁をつけます。徳川の御用学者林羅山が家康に教えました。

 豊臣方のそんな意図がないことは明白で、京都五山の高僧たちもそんな意

図は感じられないとの見解です。  

 豊臣の家老片桐且元が釈明のため駿河の家康を訪ねます。

 徳川からの注文は次の通りです。次の条件から一つ選べと

〇秀頼は大坂城を明け渡して他国に国替え

 〇秀頼が駿府、江戸に参勤する

 〇淀が人質として江戸に詰める

 

 内容的には豊臣家は一般大名並になり、徳川家の家臣になれとの意味です。

 親子は、政権は本来豊臣家であり、徳川は豊臣の家臣であるとの自負が未だ

ありました。

淀・秀頼親子は徳川側の提示条件はすべて飲めないとの返事です

  

 11月に大坂冬の陣に突入することになります。

 

秀頼の失敗です。

秀頼は教養においては又貴族としては立派に育ちました。しかし淀から乳離れ・親離れできていない、自立できていなかった仁だったのです。

徳川政権は盤石になってきており、もう政権が豊臣へ戻ることは無理か、しかし家康が死に秀忠の代になればチャンスはあるかの思いはあったかも知れません。それならば家康からの条件を飲むべきだったです。

 老齢の家康を見て時間稼ぎをするならば淀の江戸への人質の条件を飲むこと

でしょう。

 これを飲めません。  

 豊臣側の最大の弱点はここにありました。

 

更に大坂冬の陣の和議条件選択の失敗です。

 大坂冬の陣は1614年11月18日戦闘開始です(当時は陰暦で10~

12月が冬です)。

軍勢は豊臣方10万人、家康方20万人と言われています。

 最初の戦場は大坂城の南側の河内平野でしたが、多勢に無勢で豊臣方は押されて大坂城に立て籠もって戦うことになります。

 家康からの和議の申し出に乗ります。

 和議は、

 〇大坂城は本丸だけ残し、二の丸、三の丸は破壊する(堀も埋める)

 〇淀殿(茶々)を人質として江戸に取ることはしない

 〇家老大野治長と織田有楽斎の二人からはそれぞれ人質を出す(治長は息子

を出し、有楽斎は本人が人質となります)。

 

 要するに大坂城は裸城となり、城としての機能は無くなりました。

 大坂城を裸城にすることは全面敗戦降服です。

 

今後の戦いはとうてい無理です。

大坂城が丸裸になれば、家康は豊臣側に更なる注文を出せます。

 「秀頼は大坂城を出て大和か伊勢へ転封するか、又は浪人を放逐せよ。」

 

 豊臣側から「応じられないと」と回答。

 

 大坂城が堀もなく裸城で、兵員も半分の5万人になり、戦えば破れかぶれの

戦いになることは明らかです。

 淀や女たちは家康の条件を飲もうと思ったでしょう。

 しかし招集した浪人の有名な武将たちが承知しません。

 もう彼らは勝ち負けではありません。死に花を咲かせて散るだけを思って

いるのです。戦国時代は終わろうとしています。外に主を求める先はありま

せん。

秀頼親子の行く末や豊臣家の存続などは頭にないのです。もともとは、秀吉 

の外様かまたはその家来の筋です。

家康に一泡吹かせたい、それで死んでも構わないとの思いです。

 いつでも主戦派は強いのです。浪人を説得することはもはや出来ないので

す。豊臣一家は反論できずに戦闘準備に入ります。

  

 家康より「秀頼の国替えか、浪人放逐かを選べ」と最後通牒です。

大坂城はないに等しいのです。お家の存続には飲むしか仕方がないのです。

浪人が承知しません。

 

 豊臣方は条件を黙殺して、戦闘開始になります。冬の陣の翌年です。

 大坂夏の陣の開戦です(当時は陰暦で夏は4~6月です)。

短期戦でした。軍勢は豊臣側5万人、徳川側20万人と言われています。

もう大坂城は裸城で防禦の機能はありません。

 1614年4月26日から大坂城の南側の河内平野で戦闘開始で、豊臣側は

真田幸村や後藤又兵衛などの勇将が戦死し、5月7日には本丸を包囲されまし

た。

淀、秀頼外家老の大野治長等近臣は翌日自殺しました。淀47歳、秀頼23

歳でした。

家康は助命嘆願を認めませんでした。

豊臣家は断絶、完全滅亡です。

 

 何とか豊臣家の存続を考え、両者の間に入って調停をした常高院(淀の妹)、

織田有楽斎(淀の叔父)等の努力は実りませんでした。     

以上

 

 2022年11月12日

 

 梅 一声