木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉、関白殿下、太閤殿下と名乗り、戦国時代に織田信長の後に政権を奪取したあの仁です。 貧農の出の秀吉が、織田信長に仕えてからは日本史上他の追随を許さぬ出世で天下を取りました。 現在でも今太閤と呼ばれる人は低い身分から高位の社会的身分に一代で成り上がった人を言いますね。 それでは本家本元の太閤秀吉の氏素性、出自はどうだったのかを語ってみたいと思います。 まあ一般的には次のように思われているのではないでしょうか。 申年(さるどし)正月元旦の生まれで、幼名を日吉丸、尾張中村(愛知県)の出身、貧乏な百姓の出身。 歴史好きでさらに詳しく知る人は、お母さんの名は「なか」(後の大政所)、 実父の名は木下弥右衛門、養父(母親「なか」の再婚相手)の名は竹阿弥(ちくあみ)を思い出されることでしょう。 実は成人して織田信長に仕えてから秀吉、木下秀吉を名乗りましたがそれ以前の素生がはっきりしないことが多いのです。 それでは先ず現在の歴史学者の間で通説となっている事項を記しましょう。 @ 生年月日は天文6年(未年)(1537年)2月6日 A 没年は慶長3年(1598年)8月18日 62歳 B 出身は尾張国中村(愛知県名古屋市)で貧しい百姓 C 母親の名は「なか」(後に大政所と呼ぶ) D 実父の名は「弥右衛門」、養父の名は「竹阿弥」(ちくあみ) E 名前については幼名は不明 長じて織田信長に仕えて木下藤吉郎、木下秀吉、羽柴秀吉、天下を取ってから豊臣秀吉(関白、太閤は官職で、自らも称しました) 百姓故もともとは苗字はなく、信長に仕えて侍になってから木下を名乗る F 容貌はさえない風貌 G 兄弟・姉妹は、姉「瑞龍院日秀」、弟「秀長(小一郎)」、妹「朝日姫(駿河御前)」 それではこの通説について少々解説いたします。 先ず@生年月日ですが、従来申(さる)年の1月1日生まれと言われ、申年天文5年説がこれまで通説でした。しかし今日ではこれが否定され、天文6年2月6日生まれが通説です。 吉川英治の「新書太閤記」(1945年擱筆)は大変なベストセラーですが、天文5年申年生まれ説をとっています。 この天文5年申年生まれ説は、もともとは江戸時代の初めに出された「甫庵太閤記」*1、初出でその後の「太閤素生記」*2、そして更にその後に出版された江戸時代のベストセラー「絵本太閤記」*3も申年生まれとなっており、以降この説が近年まで通説でした。 しかし一方、秀吉が指示して書き上げられた秀吉一代記「天正事記(秀吉事記)」*4には天文6年2月6日と記述されています。秀吉が指示して書き上げた記録は秀吉も読んで了解しているはずですので、天文6年2月6日生まれが正しいとの見解が今日の通説となっています。 Aの没年は多くの記録にありますから確定です。天文6年生まれで62歳です。(申年生まれだと63歳になります) B出身は尾張国中村又中中村で貧乏百姓の出の説が一般で、「甫庵太閤記」 *1、「太閤素生記」*2、に記述されおり、これが今日までの通説の元です。昭和に著された太閤記は吉川英治の「新書太閤記」も司馬遼太郎の「新史太閤記」もこれに基づいています。 C、Dの母親と父親ですが、母親は「なか」、実父は弥右衛門。弥右衛門はもと織田信秀(信長の父)の足軽で負傷して中村に戻り、百姓となり、「なか」と結婚して秀吉をもうけます。弥右衛門病没の後に「なか」は竹阿弥(ちくあみ)と再婚すします。 これが通説で、「太閤素生記」*2が元です。 「天正事記」*4では母親「なか」が宮中に勤めていた時に子が誕生、秀吉は正親町天皇の御落胤としています。これは作者の大村由己が秀吉に書かされたものと言われています。こんなことは全くあり得ません。 「甫庵太閤記」*1では実父は竹阿弥としています。 E秀吉の幼名です。 今日まで一般には「日吉」、「日吉丸」、「猿」でしょう。 「太閤素生記」*2では母親「なか」が日輪が懐中に入る夢を見て、秀吉を生んだので「日吉丸」と名付けたとのこと。 「絵本太閤記」*3では「なか」が日吉権現で男子出生を祈り、無事男子出生し、日吉神社(ひえじんじゃ)にちなみ「日吉丸」。 又、申年生まれで、サルは日吉神社の使いであるから「日吉丸」と名付けたと。申年生まれではありませんし、すべてこじつけでしょう。 苗字ですが、父親の弥右衛門は木下であったとなっていますが、当時百姓、足軽に苗字はないので、木下は秀吉が武士になってから付けたとの説が有力です。因みに秀吉の正妻「ねね(又はね、ねい)」の実家の苗字が木下です。(杉原から改名) F容貌についてですが、サルのようであったと言う人もあったのですが、 信長は秀吉正妻「ねね」への手紙では秀吉のことを「はげねずみ」と言っています。秀吉夫妻との親しみから出たあだ名でしょう。 いずれにしても本人も認めているように貧相な顔立ちだったようです。 と妹朝日姫の実父は竹阿弥ですが、四人とも弥右衛門とかもしくは竹阿弥であるとかの説もあります。 その外に次のことも伝っています。 「豊鏡」*5では“中村のあやしの民の子である。父母の名もたれかしらむ”とあり、賤民の出身で父親も母親も分からないとしています。 一方、秀吉は少年期の事を語らなかった事や、母親「なか」を大切にしましたが、幼年期、少年期に亡くなった父親の二人(実父の弥右衛門、養父の竹阿弥)については墓も建てていません。そして自分が関白になれば、この時代ふつう亡き父親には朝廷から追贈で位階(従一位とか正二位とか)をもらうものです。彼はこの手続きをしていません。 これらから秀吉は自分の本当の父親が分からなかったのだと言われます。 そこで秀吉は父親がはっきりしない私生児説が出てきます。 しかし姉の瑞龍院日秀が父親の弥右衛門ついては寺で祀っていたとの記録もありますので、秀吉は私生児ではなかったでしょう。 さらにもう一つ、秀吉には右手の指が六本あったとの説があります。 キリスト教の宣教師ルイス フロイスが記録(日本史)に残しています。 フロイスは秀吉には会っていますが、手をはっきり見たわけではありません。当時そんな噂があったのでしょう。 いずれも真偽は分かりません。 *1 「甫庵太閤記」 戦国期から江戸時代初期にかけての作家、他の太閤記と区別する意味で 「甫庵太閤記」と言っている。 寛永2年(1625)の作で、秀吉を知る人からの聞き取りによる制作。事実と異なることの記述も多い。 *2 「太閤素生記」 土屋知貞の作、江戸時代の人(1622〜1676年)で、お父さんは 秀吉の御伽衆(話し相手)、 「甫庵太閤記」を元に秀吉を知る人からの聞きとりによる制作。秀吉の 素生について、その後の太閤記物語への影響は大きい。 *3 「絵本太閤記」 筆者は不明。寛政年間の作。絵入りのひらがなの入った普通分で、読み やすく、江戸時代のベストセラー。上記*12を元におもしろく脚色。 *4 「天正事記」 「秀吉事記」とも言われ、秀吉が御伽衆の大村由己に書かせた伝記。 天正8年(1580)から天正19年(1591)頃までの内容。 幼少の頃や実家のことの記述はないが、生年月日などの記述はある。 *5 「豊鏡」 江戸時代に入った寛永8年(1631年)に書かれたもの。 作者の竹中重門は秀吉の軍師竹中半兵衛重治の子で、後秀吉、家康に仕 えました。知人からも聞き出し江戸時代に入って著したものです。 以上 2016年6月29日 梅 一声
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