日本国語辞典によると「大老」の本来の意味は、賢者として尊敬される老人とか祖父の意味としています。 豊臣秀吉の最晩年に、自分の死後息子秀頼を支える最高決議機関として五大老制を設けたのです。 五大老には徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元の有力五大名が任命されました。 秀吉は独裁から最高幹部の合議制による閣僚制を取り入れました。秀吉が生きている間は秀吉が独裁ですので、五大老制は秀吉が亡くなった後の体制を作ったものでした。 しかし秀吉が亡くなった後合議の閣僚機関とはならず、政務執行は家康の独断専行により、大老制は機能しませんでした。 室町将軍の閣僚は管領(斯波、細川、畠山の3家)です。戦国大名・領主の閣僚は家老とか年寄と呼ばれていました。(通常複数の人) 徳川家康は江戸に幕府を開き老中制を設け、息子の二代将軍秀忠の補佐のための最高議決・執行機関とします。 家康の大名時代の家老は、譜代の石川数正と酒井忠次です。 その後は徳川四天王(酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政)が武将として側近として支え、本多正信は武将と言うよりも文官として補佐します。 幕府を江戸に開き二代将軍秀忠の体制を作っていくために、本多正信を秀忠補佐につけます。 四天王は家康存命中に順次亡くなります。本多正信も家康亡き後すぐに亡くなります。 家康存命中は幕府権限は実質家康にありました。家康は自分の亡き後の体制のために秀忠には若い優秀な人材を側近に宛てました。 この人たちが土井利勝(三河譜代)、酒井忠勝(四天王酒井忠次の孫)、井伊直孝(四天王井伊直政の子)、本多正純(正信の子)等です。 家康亡き後幕府の中枢として二代将軍秀忠を支えた老中たちです。 秀忠も息子の三代将軍家光の体制を固めるために秀忠存命中に家光の側近の重臣を決めます。井伊直孝(秀忠重臣をそのまま)が筆頭の後見役です。 家光も息子の次期四代家綱のために家綱の側近の重臣を決めます。引き続き井伊直孝、そして保科正之が後見役です。正之は家光の異母弟です。井伊直孝は秀忠、家光、家綱の三代にわたり幕府の中枢を担います。家綱の時代の もちろんこの外に三代、四代将軍の幕閣には土井利勝、酒井忠明、松平信綱、阿部忠秋、堀田正盛、酒井忠清等の優秀な大老、老中がいましたが、上記の人たちが将軍四代の最重要重臣と言えます。 幕府で将軍を補佐する最高の執行役は老中です。二代目秀忠以降はこの老中が政治も軍事も仕切ります。 老中の決定には御三家(尾張、紀伊、水戸)も異議を唱えることは出来ません。将軍も尊重します。 老中になれるのは譜代の実質5万石以上の大名です。御三家や外様の大大名(加賀前田、仙台伊達、薩摩島津等)でもなれません。幕府政治の中枢は譜代大名から選ばれた老中によってなされます。 よって江戸時代の徳川幕府は老中政治と言われます。 幕府機構の最高決議機関は将軍―(大老)―老中・若年寄となります。(最近の言葉で幕閣と言っています。) 老中は3~5人がおり、合議制です。会議の進行は老中首座(古参老中)が進めます。決定権が老中首座にあるわけではありません。すべての案件を老中全員の合議で決めます。 老中に個々で役所(奉行等)担当しません。老中全体で所轄します。しかし財務担当の老中が1680年に出来ました。(勝手掛老中) 主要でない案件はその月を担当する老中一人が採決します。(月番老中) 下部組織の奉行等から上がって来る政策案件や訴訟案件は評議所で審議されます。評議所の出席メンバーは寺社奉行、勘定奉行、江戸町奉行の三奉行、大目付とそれに老中と若年寄です。担当奉行は案件によって出席します。目付はオブザーバーとして出席します。 主要案件はこの評議所の審議を経て老中で決定されます。 決定された案件は側用人を通じて将軍にあげ、採決となります。 将軍は個別に大老、老中、若年寄、大目付、寺社奉行、勘定奉行、江戸町奉行を呼ぶこともあります。 決定事項は大目付から大名に、目付を通じて旗本に通達されます。幕府での執行は各奉行(所)等の機関によってなされます。 さてここで大老という役職はなんであろうかと言うことです。上記で(大老)を老中の先に記しました。 大老は老中より格が高い役職ですが常置の役職ではありません。 幕府開設の時はこの役職はありませんでした。 老中と同じく大政に参与しますが、老中の責務であります月番担当、評定所出座、奉書連判、執行組織である奉行所への指揮、監督の業務は免除されます。 重要事項は評定所で審議され、老中は評定所に出席の義務があります。奉書連判とは、老中から上げ、将軍によって決済された事項を、老中が将軍の意向を受けて大名や旗本に出す書状です。老中が全員が連署します。これ等を大老は免除です。 要するに大政に意見を言うが決定後の執行責任はない役職となります。 現在で言う総理大臣ではありません。幕閣(老中)を総理をする権限はありません。 しかし例外があります。幕末の井伊直弼(なおすけ)です。この人は総理大臣のごとく全権力をもって幕閣を総理しました。これについては後述します。 この常置でない大老はどんな時に起用されたのかです。 大老は徳川幕府264年間で、延べえ56年年間、5家10人が就任されたとされています。 大老就任者は実質大老(格)を入れますもっと多くなるのですが、通説では下記の通りです。 前職 在職 将軍 土井利勝 老中 1638~1644 三代家光 酒井忠勝 老中 1638~1656 三代家光・四代家綱 酒井忠清 老中 1666~1680 四代家綱 堀田正俊 老中 1681~1684 五代綱吉 井伊直該 1697~1700 五代綱吉 井伊直該(二度目) 1711~1714 六代家宣・七代家継 井伊直幸 1784~1787 十代家治・十一代家斉 井伊直亮 1835~1841 十一代家斉・十二代家慶 井伊直弼 1858~1860 十三代家定・十四代家茂 酒井直績 1865~1865 十四代家茂 土井利勝は秀忠、家光二代の側近です。酒井忠勝、酒井忠清、堀田正俊も 長年老中を勤め、その功労として名誉ある大老に推挙された人と言えるでしょう。 井伊家は老中を勤めません。幕閣に入る時は直ぐに大老です。この理由ははっきりしませんが、直孝の頃譜代筆頭と言われるようになり、老中執務を免除される特権が与えられたのでしょう。 井伊直孝は家康からも信頼を得、秀忠の側近、家光、家綱三代の後見人の役割でしたが、大老とは言われませんでした。又家光の異母弟の保科正之は兄の家光より絶大なる信頼を得、井伊直孝の亡き後四代家綱の後見人でありましたが、大老とは言われませんでした。 大老制度がない時代でした。大老より格上の将軍後見人と言えるでしょう。 井伊家の子孫は大老家となりますが、保科家(会津松平)の子孫は大老にはなりません。保科(会津松平)は親藩(将軍家の親類)ですので大政には関与しない方針が徹底されたのでしょう。 幕末に、井伊直弼はこれまでの大老と違って老中を総理する大老に就任します。時代が合議でなく一人の最高責任者の就任を求めたのです。 井伊直弼大老は朝廷、御三家、御一門、有力大名の意見を無視、逆らうものは厳罰に処しました。これが安政の大獄です。 大変無謀な政治手法と思われるかもしれませんが、19世紀の初めまで幕府での老中政治の運営は厳格で、御三家、一門、譜代大名と言わず、公家から一般人に至るまで政治に意見を言うものは老中批判として厳罰に処せられたのです。 それが幕末になり幕府の力に衰えを見せるようになって来て、御三家の水戸藩主の徳川斉昭、親藩の福井藩主松平春岳、更に外様の大名から陪臣、学者までみんな平気で意見を言うようになります。これに老中も意見を聞くようになった結果収拾がつかなくなったのです(開国問題、14代将軍推戴問題)。 要するに井伊直弼大老は以前の老中政治に戻そうとしたのです。そして安政の大獄を引き起こしたのです。 以上 2018年11月12日 梅 一声
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