徳川家将軍家と大名家の御家相続


 

 

江戸時代の武家の家督相続は室町時代、戦国時代の流れをくむものですが、大分整理されてきて規則化がされます。

 

 徳川家についてです。

 家康には兄弟がおらず、嫡男として徳川家を家督相続しました。

 家康の跡目の家督相続は正妻築山殿との子信康に決めていましたが、武田氏への内通の疑いで失脚、自殺に追い込まれます。

 後は側室の子の秀忠に決めます。

 秀忠には兄(側室の子)の秀康がいましたが、豊臣秀吉の猶子(人質)となり、その後結城(ゆうき)家の養子になりましたので、家康の跡目から外されました。

 二男は養子に一旦行ったら生家の嫡男が死没しても、養子から戻って嫡男になって家督相続は出来ない。

 この当時こんなルールもあったのでしょうが、強い制約はなかったでしょう。

 (このルールは後述します11代将軍の選定の理由になって行きます。)

 家康は秀康を御三家からも外しました。徳川を名乗らせません。

 

 結城家は鎌倉時代からの名門家で、室町時代も鎌倉公方(足利氏)の重臣でしたが、鎌倉公方衰退で勢力を落とし、戦国時代に一時盛り返しました。

豊臣秀吉によって養子秀康(家康の次男、実質長子)を押し付けられました。

 結城家は秀康の子が松平(徳川の元の姓)に姓を変えることを認められますので結城家は廃絶となります。

 そんな程度の名門家になっていたのです。

秀康は秀吉没後父親の家康のためによく働きました。しかし何が気に入らないのか、処遇は他の子に比し低いのです。秀吉に感化を受けているとの猜疑心があったとの説もあります。

 御家騒動はありません。家康の力は絶対です。

それはともかく兄秀康をおいて秀忠が家督・二代将軍となりました。

 秀忠の後の家督相続はだれか、秀忠には正妻お江との間に長子家光と次男国松がいました。お江は織田信長の妹お市と浅井長政との間の娘で、豊臣秀頼の母親淀の妹です。秀吉が結婚させました。

 順当ならば長子の家光が嫡男、家督相続となるところですが、秀忠夫婦が次男国松を考えたのでもめそうになりました。

秀忠も兄がいる中で家督相続です。次男の国松で良いと考えたのでしょう。 

しかし家康の裁定で三代目は秀忠長子の家光に決まりました。家康は今度は長子相続を選らんのです。

 

この後徳川家では家督相続でもめることはなかったのですが、直系の親子間での相続が出来ないことが起ります。男子が出生しない、育たない代が何代も出来ます。

徳川15代の間で当主(将軍)に実子なく、直系親子間で家督相続出来なかった代は5代あります。

4代家綱に男子ないまま亡くなり、その後継は弟の綱吉が将軍となりました。すぐ下の弟綱重が本来は後継将軍が順序ですが、すでに死没していました。息子家宣がいましたが、父の綱重が後継将軍とならないまま死没しましたので、優先順位は亡き将軍の弟の綱吉となりました。

5代将軍の綱吉に男子がないままに亡くなり、6代には亡き兄綱重の子の家宣が後継将軍となりますが、51歳年で亡くなり子の家継が幼少で後継将軍となりますが8歳で亡くなります。

幕閣は御三家の紀伊徳川家の吉宗を推戴します。8代吉宗将軍の誕生です。

 

将軍家相続の安定に備えて八代吉宗将軍は御三家の外に御三卿(吉宗の筋)の家を定めて家督相続者候補の確保をします。

 徳川家ではその後八代将軍吉宗の孫で御三卿田安家の定信が10代将軍の後継候補に上がりましたが、その時陸奥白河藩の松平に養子に行っていました。

 養子に行った者は家督相続出来ないとのルールを言い出して定信の将軍は無くなりました。(定信は後に老中に就任)

 家康は次男秀康が養子に行っていたので嫡男、家督にしなかったのかどうか分かりません。しかし後年にはこの論理が使われています。

 老中田沼意次が田安定信の優秀さに恐れ前もって定信を養子に出して将軍候補外しを目論んだとも言われていす。

 

15代将軍慶喜(よしのぶ)は御三家水戸家の生まれで、御三卿一橋家に養子に行き、徳川宗家を相続して、最後の将軍になりました。

 

次に江戸時代の大名家の家督相続についてです。お家相続とも言います。

徳川幕府では将軍の代替わりごとに大名に「(あて)行状(がいじょう)」を発行して改めて所領を安堵します。

一方大名は自分の代替わりの時には、家督相続と所領支配継続を願い出て「仰付(あおせつけ)」をもらい承認を得なければなりません。

大名の相続は当主隠居で実子や養子に家督相続する場合は、隠居願(生前の代替わり)を幕府に出し許可をもらいます。隠居しなくとも嫡男(跡目相続)を決めて亡くなりますと相続が承認され、「仰付」をもらえます。嫡男は将軍にお目見えを願い、家督相続の承認を得ておく必要はありますが、問題はありません。

 

もう一つのケースは当主が隠居しないで後継の家督相続願を出さずに死去した場合です。

これが大名家の相続を難しくし、種々問題を起こします。

その前に大名の家督相続の優先順位についてです。

17世紀以降実子の長子が嫡男(家督相続)となります。実子も正妻の息子

が優先です。

 側室の子(庶子)は後順位となりますが、正妻に子がいない場合(これが多い)は庶子の子の中で長子から順に選ばれます。

 しかし長子でなく次子からも選ばれることがあります。

 これでも幕府は承認します。

 

 徳川御三家の水戸家(28万石)では初代頼房は三男光圀に家督相続を決めました。次男の兄頼重(6歳上で同母兄)がいたのにです。(長男は夭折)

幼い時より光圀は評判の秀才だったからです。

 光圀は当主になってから父の命といえ、兄を差し置いて家督相続したことを不当と思っていましたので、兄の子を水戸家の家督相続にしました。兄も将軍家より讃岐高松藩(12万石)の藩主にしてもらっていました(光圀の子が高松藩を相続)。

 光圀は儒教の教えから長子相続にこだわったものと思われます。日本の慣習でも長子相続が一般的になっていました。

 

 次に実子がいない場合です。養子が認められています。

 養子を誰にするか関係者でもめる所です、江戸時代も半ばをすぎますと幕府もだんだんルールを整備します。

 先ずは当主と同姓が条件の下に、兄弟(長子順)、甥、従弟、甥の子、従弟の子それでもない時は娘に入り婿、最後に無縁の養子が認められます。

 さて当主が生きている間に養子を決めて将軍へのお目見え(家督承認)をすませて置けばよいのですが、当主が家督相続を決めずに死んでしまう場合が多々あるのです。

 当主死後、親戚、家臣たちは直ぐに養子手続きを幕府に申し入れますが、これを末期(まつご)養子と言って江戸時代の初期には幕府は認めずお家断絶になるケースがありました。

 あまりにこのケースが増えましたので、17世紀の中ごろ4代家綱の時に末期養子の規定が緩和されました。

 末期養子は、死んだ当主が17歳以上で50歳未満の条件つきで承認されるようになりました。

 50歳以上が駄目なのは50歳にもなって跡を決めておかないで死ぬのは本人落ち度との判断です。

 17歳以上の理由ははっきりしません。

 ただ、17才未満の子でも養子には取れますが、17才未満の当主だと年齢を問わず養子が取れない規定が幕府にありました。これは実子が相続した場合も同じです。

 大名家にとって当主が17才にならないと後継を決められず。不安が絶えませんでした。

 逃げ道はありました。

 生まれて直ぐに出生届を幕府に届ける必要はなかったので、幕府への出生届を年齢を2~3歳多くして届けました。早く17歳に達するように細工したのです。

 又実子が幼い時は弟を養子にして子を弟の実子にして後を継がせる方法。

 外に仮養子制が認められており、国元に帰る時に身内を仮の養子に立てて置き無事に帰府した時には養子解消するのです。認められていました。

 江戸時代も後半になりますと、いろいろ逃げ道があったようです。

 

 末期養子が認められず、お家が断絶、改易となった場合も旗本として存続したり、減封ですんだ例もあります。

以上

 2020年12月13日

 

梅 一声