徳川将軍家における家来の階級


 

江戸時代武士(含む家族)が全人口に占める割合は7%位で85%は百姓(農業)です。商工業者や僧侶等が占める割合は8%位と言われています。もう少し百姓が多く90%位占めたとの説もあります。

 官僚、兵員や一般役人として働くいわゆる公務員としての武士は全人口の1%位であったと言われています。

 江戸時代の日本の人口を3000万人として、1%の30万人で官僚、兵員や一般役人の仕事を武士全体でこなしていたことになります。

 現在の中央・地方の公務員の数は340万人で人口に占める割合は 2.7%です。

 江戸時代、結構武士の役人は効率的に働いていたのですかね。それとも住民サービスが充分でなかったのでしょうか。又町や村の管理は庄屋(名主)や寺にさせていたこともあるでしょう。

 さて江戸時代は士農工商と階級がありましたが、武士の中にも更には階級があり、家格がはっきりしていました。

 それでは徳川将軍家の家来の武士の階級について見てみたいと思います。

 

1、将軍

   将軍は徳川家家臣の主君ですが天皇の家臣です。

   徳川家宗家の家督を継いだ男子が就任します。朝廷は反対出来ません。正式名称は征夷大将軍。

   家康が何故に征夷大将軍を望んで就任したかですが、源頼朝(鎌倉幕府)や足利尊氏(室町幕府)の武家政権の伝統を意識したことと共に、豊臣秀頼(秀吉の子)の豊臣旧政権へ対抗して、徳川政権の確立を意識してのことでしょう。秀吉は将軍職につかず関白に就任して天下を治めました。

尚、平素は家臣や一般人は将軍のことを公方様と言いました。家康は上様と呼ばれましたが、二代秀忠より将軍は公方様と呼ばれました。足利将軍より将軍は公方(様)と上下の人々から呼ばれていました。

 

  名前の由来:

    平安時代の初期に坂上田村麻呂が奥羽の蝦夷(えぞ)平定で朝廷からもらった職位で有名です。その後源頼朝が征夷大将軍に就任し鎌倉幕府を開きました。征夷は“蝦夷(えぞ・えみし)を征伐する”意味のことですから頼朝が幕府を開くにあたっては関係ない職位なのですが頼朝は関東、奥羽を制覇したことを強調したかったのかもしれません。

しかしこれ以降武家政権は足利家もそして徳川家も征夷大将軍に就任しました。

 

2、大名  

  資格は知行1万石以上。江戸時代の初期に一万石以上5万石未満を小名と言ったこともありますが、使われなくなり1万石以上は全て大名と言われました。二百数十家ありました。

  徳川幕府は下記のように大名家をいくつもの種類の家格に当てはめ大名を制御していました。

 

 大名の家格(1):

  ○親藩;家康の子供の筋の御三家(尾張家・紀伊家・水戸家)、八代将軍吉宗の子供の筋の御三卿(田安家・一橋家・清水家)、その他の親類として家門(会津松平家、越前松平家)

  

  ○譜代:本来は徳川家出身の三河以来の家臣(安祥譜代、岡崎譜代等)を言いましが、関ヶ原合戦後に家臣になって譜代大名になった者もいます。(柳沢吉保、田沼意次)

      この家格の大名から老中、若年寄、大坂城代等の幕府の中枢の役に起用されます。

 

  ○外様;関ヶ原合戦で家康に味方、又戦後家康に服属した戦国大名(織田信長や豊臣秀吉の家臣達)です。原則老中等の幕府の要職には就けません。

 

 大名の家格(2):

   親藩、譜代、外様の枠のしばり持ちながら併せ知行石高の大きさによって官位が決まります。従二位權大納言(尾張と紀伊の両徳川)を筆頭に多くの大名は従五位下が多かったのです。

 

   一国以上領有する大名を国持ち大名又な国主(加賀の前田家、薩摩の島津家等)、城を構えることを許され大名を城持ち大名、その他は無城に分けられる。

   家格によって江戸城に登城した時の詰所の部屋に差別があります。

大廊下は御三家、溜間(たまりのま)は家門と一部特別の譜代、大広間は国持大名等外様の大大名、帝鑑間は家門の一部と譜代大名、柳間は外様大名の十万石未満の大名、雁間は五〜十五万石の譜代大名、菊間は三万石未満の大名

 

  名前の由来:鎌倉時代に、大きな名田(荘園、領地)を所領として持っ

ていた侍を大名と呼称しました。官職や役職名ではありま

せん。

        室町時代に入り、幕府は守護制度(地方の国の統治責任者)を作りましたが、この守護を守護大名と呼びました。

        戦国時代になりますと広域を支配する武将を大名と称し、戦国大名と称されるようになりました。

        豊臣、徳川時代には1万石以上の領主を大名と言いました。

 

 3、旗本  

   資格は知行1万石未満100石前後までの直参(徳川宗家である将軍

の家臣)で、将軍に御目見以上(直接会える家臣)の家来で、5200

人位いたと言われます。

    本来は三河以来の主要な家臣(安城譜代、岡崎譜代)を言ったのですが、関ヶ原の戦い以降に家臣になった者も、才能や、名家の出身によって旗本になりました。

    旗本は江戸町奉行や勘定奉行等々の要職につけます。

    旗本から大名への昇進は稀にあります。大名になれば老中への道はあ

    りました。

 

   名前の由来:

     戦場の本陣において大将(主君)は近辺に家紋に入った幡を林立させます。この旗の下(本)にあって主君を護衛する役(親衛隊)を旗本と言いました。そこから平時においてもこの親衛隊のことを旗本と称され、さらに譜代の家臣を旗本と言い、そして上記の通り一定規模以上の家臣を旗本と言うようになりました。

 

3、御家人

   知行100石前後以下もしくは蔵米取りの家来。(領地から年貢を得る家来ではなく、年俸(給料)として将軍から手当(米)をもらう家来。)で

1万7千人位いたといわれています。

 

   幕府の上級職には就けませんが中級職以下に就けます。戦争がない江戸時代はほとんどが職に就けませんでした。(無役)

   例えば江戸町奉行所に配置された与力も御家人クラスです。御目見以下の家来で騎士ではありませんが、例外的に江戸御府内では乗馬が許されました。犯人逮捕で急を要する事態に備えてでしょう。

 

  名前の由来:

    先ず“御”が付かない「家人」です。古代奈良時代以前は良民(普通

の人民)より一級低い人々を言いましたが、平安時代以降は、貴族や武士の従者の意味に使われるようになりました。

源頼朝は自分の家来に限って御を付けて“御家人”と呼ばせました。よって御家人は家人即ち家来のことです。

 

4、徒士

   徒士(かち・かちざむらい)は身分でなく職名です。百人組や徒士組があり、江戸城の警護や将軍が外出時に警護の役につきます。  

御家人の多くが徒士です。

  東京に現在も御徒町(おかちまち)と言うところがありますが、この地

域に集団居住していました。

  

  名前の由来:

   中世から馬に乗らない、乗れる身分ではない、徒士で戦う一般の兵士を

指しました。

 

5、足軽

幕府では正式名称としては使われないが、御家人の最下級の地位の者の

呼称です。

 

  名前の由来:

   室町時代に最下級の臨時の兵士である歩兵を足軽と称しました。応仁の乱ではあぶれ者出身の足軽が大将の言うことを聞かずに乱暴狼藉を民衆に働き、世の不評を買ましたが、その後戦国大名が領国から百姓を兵士、小者として徴兵して、その中から足軽に仕立て、常備兵としていきました。

 

6、中間(ちゅげん)、小者(こもの)

武士(侍身分)ではありません。苗字はもてません。刀はさしません。木刀一本をさします。中間は足軽と小者の間の身分の意味で、中間も足軽ともに仕事は戦場や平時においての雑用担当です。

 

大名家にもその家来たちに階級(家格)あり、徳川将軍家の家来と同じような呼び名の階級がありますが、更に武士でありながら、一般武士より階級が低い郷士階級があり、それぞれ大名家によっていくらか異なります。今回は徳川将軍家の家来に止めます。

                                  以上

 

2014年10月3日

 

                                  梅 一声