武田家滅亡―勝頼の最後


 

武田勝頼は武田信玄の四男です。信玄の亡き後後継となり、そして甲斐武田家を滅亡させてしまった甲斐武田家の最後の当主です。 

 信玄は親の信虎を追い出し甲斐一国を受け継ぎ、これを元に信濃、東上野、駿河と更に美濃、三河、遠江の一部をも支配する勢いとなります。

そして北条と同盟をして東からの安全を確保して、織田信長と対決のために西に遠征しますが、途中陣中で病没します。(天正元年、1573年)

息子勝頼は偉大なる父信玄の支配地を引き継ぎます。

身に余る大役だったのでしょうか、不肖の息子だったのでしょうか、それとも不運な運命だったのでしょうか。

勝頼は信玄より引き継いだ後9年後に、織田信長に敗戦し、支配地も甲斐一国も残らず全滅させられます。この滅亡の仕方が後世語り継がれてきた大変な悲劇でありました。

 

父信玄が西隣の信濃の諏訪家を滅ぼし当主頼重を切腹させます(天文11年

1542年)。頼重の娘(14歳)があまりに美人であったので側室にしました。

生まれたのが勝頼です。

生まれた子供を諏訪の当主にして諏訪家の武士団を武田の中心的な家臣団にしようとしたことは確かです。

 勝頼は長じて諏訪四郎勝頼と名乗り、高遠城の城主として諏訪地方を治めます。

 元々勝頼は武田家の嫡男ではなく武田家の当主となる人ではなかったのです。

 

 武田家の嫡男は正妻三条夫人との間の子義信です。ところがこの義信が親信玄に謀反を起こしたかどで自殺に追い込まれてしまいます。

 父信玄が信濃征服の後、今川領国の駿河を攻めようとする策略に反対であったためと言われています。

 義信の正妻は今川の当主氏真の妹で、氏真の母は信玄の姉で、これまで深い

提携関係にあった今川家を攻め難いとの思いからでしょうか(氏真の父義元は桶狭間の戦いで織田信長によって討死、今川家は弱体の方向の時)。

 謀反の理由はこのように語られていますが、はっきりしません。

義信はその後2年間も幽閉された後に切腹です。(永禄10年 1567年)信玄も義信の無実を信じ迷ったのでしょう。しかし切腹に決めました。

信玄は父信虎に謀反を起こし、追い出し政権を奪取しました。子の謀反騒動にも過敏だったと言うこともあるかもしれません。

 

 諏訪家再興の養子の形になっていた勝頼が呼び戻され武田四郎勝頼となり、信玄の嫡男となります。

 

 ここで思いもかけず、信玄が織田信長との決戦前に陣中で病没してしまいます(天正元年、1573年)。

  

 勝頼が当主となり、甲斐の国を元にして信玄が勝ち取った、信濃、東上野、駿河と美濃、三河、そして遠江の一部をも治めることになります。織田信長に匹敵する領域です。

 後継者として父信玄の戦略をまず引き継ぐことを考えました。それは遠江と三河の徳川領域への侵出です。

 遠江(静岡県の西部)で家康との境界に近い徳川方の高天神城をわが手に落としました。(天正2年)次に三河(愛知県の東部)です。家康との境界にある徳川方の長篠城の攻撃に向かいました。

 この城は徳川方の城主奥平定昌が守り、城兵500人ほどであるにもかかわらずなかなか落ちません。

 そうこうしている間に家康は、信長の出馬があって総勢3万8千の軍勢で長篠へ押し寄せます。武田勝頼軍は1万5千と言われています。

 長篠城の前面の設楽(しだら)(はら)で両軍の決戦が行われました。

 ご存知のように勝頼は信長軍の鉄砲作戦により大敗します。(天正3年、 1575年)

 とにもかくにも勝頼は信玄以来の重臣馬場信春以下真田兄弟や山形昌影等々の歴戦の多くの勇士を戦死させてしまいました。

 身内では叔父(信玄の弟)の川窪信実も戦死です。

信玄の遠江、三河、美濃への侵攻路線の継承は頓挫せざるを得ません。そして武田家の没落への道が始まったのです。

 しかし勝頼は必死に支配領国の守りに入ります。

 内政に力を入れますが、信長、徳川からの攻勢への対抗上、東の北条との提携を強化します。

 北条氏政の妹を正妻に迎えます。(天正5年)

 信長の養女を正妻にしていましたが、嫡子信勝を生んだ後亡くなっていました。

 

話は少し遡って、信玄の駿河今川攻めで甲相駿同盟(甲斐武田。相模北条・駿河今川)がくずれた後、上杉謙信は尚信玄に対し強い敵対意識を持っており、北条氏康も信玄の駿河侵攻を許さず、上杉謙信と北条氏康とは同盟を結びます。そして両者で人質交換をします。北条氏康の子で氏政の弟景虎が謙信の養子として送り込まれます(永禄13年 1570年)。

 

勝頼の時代は三者の関係は北条と武田とは上記の通り提携強化です。北条と上杉も提携強化です。

しかし武田勝頼と上杉謙信の間は信玄以来の敵対関係です。

対信長のことがあり、武田・上杉同盟も成立させて、武田・北条・上杉の三者同盟が望まれたでしょうが、謙信の武田への不信感は強く謙信存命中は難しかったのです。

 

 しかるところに謙信が突如病没します(天正6年3月 1578年)。

 謙信は生涯結婚しない主義でしたので実子がいません。跡取りもはっきり決めていませんでした。

 養子の二人が後継当主の名乗りをあげます。

 一人は謙信の姉の子の景勝(かげかつ)、もう一人は北条からの養子、北条氏政の弟の

(かげ)(とら)です。

 家臣団二分して両者が対戦します。景虎の実家の兄氏政は当然景虎に味方して兵を派遣します。

  北条との同盟関係から景虎に味方が考えられるところですが、勝頼は景勝に味方するのです。

 景虎が後継の当主になったら北条家は関東、越後の広域を支配し、武田は対抗力を失うと考えたのです。

 戦いは景勝が勝ち上杉の新当主となりました。景虎は戦死します(天正7年 1579年)。  

 当然、武田勝頼と北条氏政との同盟関係は断絶します。

 更に北条氏政は武田・上杉連合への対抗上織田信長と提携します。勝頼は西の織田・徳川連合と東の北条の挟撃の位置になります。

 

 一方信長は西に向け毛利領国をも席捲する勢いです。

 情勢不利と見て、天正7年以降何度も、勝頼は信長に和議を申し入れます。信玄時代に人質に取っていた信長の子を返します。しかし信長は降参でない

と受け入れないとの意向です。

 信長はきっと武田家は内部崩壊すると見ていたのでしょう。

 上杉も勝頼と協調して、信長に和議を申し入れます。信長はこれも拒絶します。

 

 信長の想定通り、武田の内部崩壊が起ります。

 武田の滅亡は数ある戦国大名の崩壊の中で最も悲劇的な一つと言われています。

 親類筆頭の穴山梅雪、譜代筆頭家臣の小山田信茂、外様筆頭家臣木曽義昌が裏切って信長につき、信長軍の総攻撃では、領内各地の戦いは数日で完敗。これで家来たちまち離散、逃亡し、一カ月ぐらいで信玄が作った強力軍団は崩壊します。

 信長軍の陣頭指揮の総大将は嫡男の信忠で、信長が甲斐へ到着前に武田全領域を制圧していました。

 

最後は逃げる途中に追い詰められて、勝頼と息子信勝、側近の家臣41名が斬り死に、切腹、正妻北条氏と上臈たち40数名が共に自殺して、武田家は終焉となります。

勝頼37歳、夫人19歳、息子信勝16歳(前夫人(信長の養女)との子)でした。

 最後に譜代筆頭の小山田信茂に裏切られて甲斐国内を逃げ回るところは余りに悲劇的で私の筆力では語れません。

 この裏切りだけは信長も許さず小山田は信長によって処刑されました。

 

 勝頼はどこがいけなかったか。

 それは信玄を受けつぐ器量がなかったと言えば結論でしょうが。

 それは、一つ目は長篠での信長への大敗、二つ目その後支配地拡大が出来なかったこと、三つ目は信玄以来の重臣と側近の家臣との間に確執を作り出したこと、四つ目は同盟において北条を切り、上杉と結んだこと(最後の戦いで上杉は頼りにならなかった)。

 が上げられますが結局、信玄を継承した勝頼は信長に対抗せざるを得ず、降参は出来ず全滅になってしまったのです。

 

大型の戦国大名の内、負けながらも降参しながらも戦国時代を生き残った毛利、島津、前田、伊達、上杉氏たち。一方敗戦が全滅につながり江戸時代に大名として残れなかった戦国中期の大内、尼子氏等、戦国後期の北条、長曾我部氏等それに武田氏などがあります。

 結局は戦いに負けることは滅亡へつながるのですが、戦う前に同盟、和議、降参家来になる、もしくは戦っても完敗を避けてほどほどで逃げるか和議の道があります。

 しかし領地拡大を狙う、天下をねらう、もしくは名門大名家の誇りを捨てられない、武力に過信する、意地をはると戦国大名は一か八かの大勝負に出ることがあります。完敗すればお家は滅亡です。

 

以上

 

2020年9月13日

 

梅 一声