蘇我氏の時代 |
今回は歴史好きでもあまりなじみのない、しかし古代で勇名を馳せた蘇我氏のことを取り上げてみたいと思います。 中大兄皇子(後の天智天皇)によって討滅された蘇我入鹿の一族です。蘇我氏は未だ古墳時代だった5世紀末に頭角を現し、6世紀半ばに大臣になった稲目からが歴史に登場します。 稲目の曾孫の入鹿の時に滅亡します。皇極女帝の時で皇極の息子中大兄皇子とその一派によって討滅されます(645年)。入鹿が権力の絶頂期の時でした。 それでは蘇我氏がどのようにして朝廷で最大権力を得、突然討滅されてしまったのかを追って見ましょう。 蘇我氏は大和国(奈良県)の大和盆地の南部の西側に拠点をもつ地元の豪族です。5世紀末に葛城氏が衰退した後、葛城氏の後裔と称して力を持つようになりました。 葛城氏が支配していた渡来人の技術集団を引き継いで大和王朝に貢献したのが隆盛のきっかけと言われています。 5~6世紀に大和王朝で最大勢力であった葛城氏と大友氏が衰退し、6世紀中頃には物部氏と蘇我氏が二大勢力となり、更に6世紀終わりごろには物部氏も衰退し、蘇我稲目が最大の実力者になります。 時の大王欽明天皇も蘇我氏との関係を重視します。当時は大和王朝は豪族たちとの連合王朝と言われていた時代で、政権の維持には有力豪族との提携は大事でした。 蘇我稲目は自分の娘の2人を欽明天皇の妃に入れて大王(当時の天皇を呼び名)との関係を深くし、王朝での基盤を築いて行きました。 稲目は欽明時代に没し、後は息子の馬子が大臣を引き継ぎ最大勢力を維持します。 翌年欽明天皇が亡くなり(570年)、息子が大王位につきます。敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇と3兄弟が継ぎます。 3人とも稲目の娘と欽明天皇の息子です。 敏達と用明は短命で崇峻が大王位につきましが、崇峻は馬子に殺されます(592)。 大王(天皇)が家臣に殺されたのです。天皇が家臣に殺されたのははっきりしている史実ではこれだけです。 馬子は崇峻から大臣を外される気配をさとって殺してしまったと言われています。 さて後の大王ですが、日本で初めての女性天皇推古女帝の登極です。推古女帝は先の敏達天皇の妃です。そして敏達とは腹違いの兄妹の関係です。二人の母親は稲目の娘の姉、妹の関係です。異母兄妹です。 崇峻は11月に殺され、1か月後に推古女帝が登極で政治体制は推古女帝、蘇我馬子大臣、厩戸皇子(聖徳太子)になりました。 初めて女帝の登極、余りにもスムースな新体制の移行に、崇峻天皇殺害に推古女帝と聖徳太子の関与説があります。 日本史ではここから飛鳥時代といっています。 天皇(大王)の宮殿が飛鳥地方(奈良盆地の南)にあったことからです。 政治的な特徴は、大規模な古墳築造時代が終わりました。 欽明天皇の時に取り入れました仏教の振興政策です。 隋、唐との積極外交政策です(遣隋使、遣唐使)。 地方分権の大和連合王朝から大和王朝専権の中央集権政治への移行です。 飛鳥時代は藤原京から元明女帝による奈良平城京への遷都までとされています。(710年) さて上記三人体制でスタートしました飛鳥の大和王朝は最初は馬子がリードしていましたが、推古女帝と聖徳太子が馬子の専権に危惧し、聖徳太子を馬子の対抗勢力とします。 聖徳太子に斑鳩に宮殿を建てさせ法隆寺を建立させます。 これは蘇我氏の飛鳥寺に対して大王家の公の建立の寺との位置づけです。 実際は、仏教を天皇家の直属にする意図があります。 更に斑鳩の位置は、飛鳥の北東にあり、難波(大阪)と飛鳥とを結ぶ水運である大和川の飛鳥側の出入り口で、飛鳥の外港としての重要拠点なのです。 ここを大王家が直接抑える意味があったのです。 それでも三者は協調路線で進んでいましたが、聖徳太子が没し(622年)、馬子が没した(626年)後に馬子の息子蝦夷(毛人)が大臣になります。 そして推古女帝も亡くなります(628年)。 推古女帝の後継は蝦夷が主導で決めます。生きていれば聖徳太子でしょうが亡くなっています。候補として聖徳太子の息子の山背大兄王(用明天皇の孫)と敏達天皇の孫の田村皇子(舒明天皇)が上がりましたが、蝦夷は舒明天皇を推戴して決まりました。 ところが舒明天皇は在位12年で亡くなります。 蝦夷は次の天皇に舒明の妃だった皇極を女帝に推戴します。皇極女帝は舒明の息子の古人大兄皇子が長じるまでの中継ぎだったのです(641年)。 ここでも山背大兄王は外されました・ ところがその頃、蝦夷に代わって実権を持っていました息子の入鹿が山背大兄王を斑鳩に襲って殺してしまったのです(643年)。 何故ここまでして聖徳太子の一家を排除したいのかです。 聖徳太子が亡くなってからも一家は上宮家として朝廷で力を持っていました。この上宮家(山背大兄王)を潰さない限り、皇極女帝の後に古人大兄皇子を持ってこれないし、蘇我家の権力基盤が維持できないと考えたのです。 蘇我氏の権力は絶対と思われたこの時期に密かに蘇我氏打倒を計画していた一派がいたのです。 それが有名な中大兄皇子(後の天智天皇)と腹心の部下の中臣鎌足(藤原鎌足)です。 中大兄皇子は皇極女帝の息子です。 新羅、高句麗の使者が大極殿で皇極女帝との謁見の場で、入鹿を襲い切り殺しました。親の蝦夷も甘樫丘の自邸で自尽しました。クーデターです(乙巳の変 645年)。 これで蘇我氏は滅亡か、そうではありません。 実は蘇我氏一族も一枚岩ではありませんでした。馬子の子で蝦夷の弟の雄当の筋に倉山田石川麻呂などがおり、予て蝦夷、入鹿の本宗家に内々不満を持っていました。(本宗家独占に対し) この倉山田石川麻呂の勢力がクーデターに加担したのです。 ですから蝦夷、入鹿の蘇我本宗家が滅亡後も蘇我氏一族の勢力は一定存続します。 蝦夷、入鹿滅亡後は、皇極女帝は退位(史上初めて)し、弟の孝徳天皇に譲位します。 大王(天皇)の生前譲位は初めてのことです。それまでの大王は死ぬまで大王位にあります。 皇極女帝の息子中大兄皇子は21歳で若く未だ天皇の即位の年齢達していませんでした(当時は40歳位が適齢と考えられていました) しかし中大兄皇子は大化の改新事業を行い、天皇による中央集権国家をめざします。 その後皇極の重祚(二度目の即位)の後に中大兄皇子は天皇となります。 その後の蘇我氏です。 本宗家を引き継いだ石川麻呂は孝徳天皇時代に謀反の疑いで失脚し、その外の筋は平安時代を通して石川氏を称し、中流貴族止まりでした。 以上 2020年8月22日 梅 一声
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