集団から国の成り立ちへ




 国、国家とはいつからどのようにして出来たのだろうか。生まれた時から日本人は日本国の国民であって自分では選んでなったわけではありません。

 国家とは何かこれはマルクスもそして今日まで偉い学者が説いていますが、あまりにも難しい論理展開で理解が難しいところです。

 今回は著者なりにまとめてみました。

 

日本国語大辞典の「国家」から抜粋しますと、

 「近代においては、一定の領土を有し、そこに居住する人々で構成され、一つの統治組織をもつ団体。基本条件として国民、領土、統治権の三大要素を必要とする。」となります。

 

 この近代の国家は現在にも当てはまりますが、石器時代から国家があったわけではありません。どのようにして国家が出来て来たのかを見てみたいと思います。

 

 そもそもの人間の生活は家族単位だけでした。一家族は10人位でしょうか

親子とその家族(兄弟の家族も入ります)。

 一定のそう離れていない所に一つの家族から分かれた家族がいます。婚姻関係もあり、付き合いはあります。

 旧石器時代、縄文時代です。

 この頃の生業は狩猟、漁労、採集です。この労働には基本的に10名位の集団で良いのです。狩猟、漁労は成人男子が2人もおれば間に合います。

 日本列島全体の人数が5万人位ですから、十分土地があり縄張り争いも起こりません。

 ただ穀類の栽培をしませんので、冬場の主食として保存できるのはクリ、どんぐり、クルミの類で多くはありません。

 食料は必要な家族分でゆとりがありません。人口は増えません。よってこれからも縄張り争いの喧嘩はありません。

 一家のリーダーは父親か年かさの者でしょう。

 

 

 旧石器時代、新石器時代(日本は縄文時代)には世界で国家はありません。

 石器時代の次の時代から人間の暮らしは変わります。青銅器、鉄器時代と言われます。

 一つは穀物の栽培を覚えた集団。一つは遊牧(家畜と共に移動生活)を覚えた集団。もう一つはそのまま狩猟、漁労と採集のみの生活です。(穀物栽培を覚えた集団もかたわらに狩猟、漁労、それに放牧(羊など家畜を放し飼い)も行います。

 

 穀物は実りが大きく、長期保存に便利です。多くの人々を養うことができます。

 穀物栽培は麦が中心ですが、中国の中・南部では水田稲作の栽培です。

 ここで人々の集団活動が大きく変わります。

 穀物栽培のためには森林を刈り取り畠にし、水田稲作のためには更に水路を築き、河川の工事が必要です。

 多くの集団の労働力が必要で更に田畑の維持や種まき、刈り入れ時にも多くの人手が必要です。

 集団は数百人の規模になって行きます。

田畠の開拓、隣接の地域の集団との水利の調整、集団内耕作地の調整には強力なリーダーが必要で、出現します。

強力になったリーダーは新規開拓地の割り振りを自分有利に決めます。隣接地集団とのもめごとを武力で解決したり、隣接地に武力侵入して追い出したり、自分の集団に吸収します。集団は数千人規模になって行きます。

土地の強奪もあります。

リーダーに集団での支配権力が出来上がっていきます。土地と人々の支配です。人々の耕作私有地を他人からの強奪から守ります。見返りを要求します。税、兵役です。

そして支配の土地を領として世襲の領主になります。領主が統治権をもちます。

多くの領主が出現します。ここでは小国ですが、国が形成され国王の誕生と言って良いでしょう。

 

その後領主間での田畑拡大、強奪の地域闘争が起こり、彼らは戦争と話し合いで同盟、連合を組んで他者に当たります。

 連合王国が設立され、選抜された王が連合王国の王となりますが、この王が

専制権を持ち、連合王国を一国に統一してしまいます。

 地域の王は領主として王の家臣となり、もしくは王の官僚となります。

 

 穀物の栽培を覚え穀物を主食とした集団が国を興し、大規模文明を起こします。

紀元前3千の年メソポタミア文明、エジプト文明、紀元前千年のギリシャ文明、紀元前7百年のローマ文明、紀元前2千年の中国文明が起こります。

 みな王の世襲の王国を形成しますが、ギリシャの場合都市国家、古代ローマの場合は共和制国家と言われていますが、まあ地主(小領主)の連合体国家と言って良いでしょう。ローマはその後帝政になります。

 

日本では水田稲作の栽培が始まったのが弥生時代で紀元前500年位です。

 その農耕のために大型の集団が生まれます。

 中国の漢書によりますと紀元1世紀には倭(日本)には百余国の国があった
とされています。

 紀元2〜3世紀には邪馬台国の卑弥呼を女王とする連合王国が出来ていたことが分かっています。

 日本は穀物の栽培が中国、ヨーロッパに比べ遅れたのは縄文時代に大陸と閉ざされていたことによります。

 

 連合王国は王の専制王国になって行く場合と、家臣の領主(貴族)の力が王に対抗する位置になる王国になる場合とが出来ます。

 

 中世ヨーロッパでは貴族の地位が強く、これを封建制と言っています。中国では古代から秦を除いて漢、隋。唐、宋、明、清の王政は封建国家ではなく中央集権国家(専制王国)です。

 

 日本は古代、大和連合王国から中国にならって律令制の中央集権国家に変ええます。7世紀中頃の天智天皇の時代からと言って良いでしょう。

 しかし武士の勃興で、武士の政権のもとで領主制がしかれ、封建制となり、明治を迎えます。

 江戸時代の徳川政権は大名に対し専制権力に近い権力を持ていましたが、基本的には大名に地方自治権を委ねる封建制です。

 

 ヨーロッパの近世では、封建制から貴族の力を抑える専制絶対王政がフランスのルイ14世の下で施行されます。

 しかし18世紀の末ルイ16世の時代にフランス革命が起こり、王政が中止され、国政の主権が王より市民に移ります。いわゆる共和制の国家です。

 この影響でヨーロッパ各国は王の権力が抑えられ、市民の参政への力を強め、もしくは共和制に移行します。

 フランスは一旦帝政に戻りますが、最終的には共和制となり今日にいたります。

 

 フランス革命の後、王制がなくなって行く中で、国民は民族意識が芽ばえます。

 王族、貴族たちは地域や民族がどこであろうと領地が在るところが領域であって国家です。

 ところが一般民衆は古代より同じ地域の人々だけのアイデンティティーに結ばれて来ました。

 これが民族意識です。彼らはこれを主張して一民族一国家の設立を求め、独立していきます。

 これが今日のヨーロパ各国です。

 

 アメリカ合衆国はイギリス植民地から18世紀に独立します。

 移民団たちの相互で国づくりを協定します。

 王や領主はいません。州ごとに市民(奴隷は除く)の参政による州国家です。この州国家から選ばれた大統領や国会議員による中央政府の権限が州国家より大幅に移行し、独立国家となり、今日のアメリカ合衆国があります。共和国です。

 

 日本では明治維新を迎え、封建制の国家から脱却して国民国家の形成を目指します。

 しかし当時、日本人一般は日本国民意識がありません。日本国として一丸となって富国強兵に打って出る必要を倒幕の志士たちは持っていました。

 明治新政府は天皇を絶対王にしたてて日本国を作りました。

 

 ところで穀物栽培をやらずに主食を穀物に頼らずに、狩猟、漁労、採集で生活を続けてきた縄文人等は田畑の開拓や協働の農作業は必要としませんので大集団を必要しません。土地の奪い合いのための専制的な世襲のリーダー(王)は出現しません。土地を私有、領有する考えがありません。

 国は出来ません。

 結局、農耕民族に吸収されてしまいます。

 

 日本にはありませんが、石器時代から農耕民族にならず、遊牧民族になった

人々があります。

 有名なモンゴルの人々です。この人たちも土地を私有、領有する意識はあまりなかったのですが、中国が次々に草原を田畑に開墾してしまうことから領界

意識が出來、ついには国家意識が出來、世界を制覇する勢いになりました。

 一時期のことでその後は今日まで伝統の草原での悠々と遊牧生活を続けています。

 外に都市の発展で都市国家が中世に生まれましたが、周辺に耕作地可能な領地を持っての貿易立国です。次第に大領地を持つ大国に吸収されます。現在シンガポールやモナコなどが残っています。

 国家は家族―小地域集団―大地域集団―小国―連合王国―専制王国(中央集権国家)・封建国家―共和制国家(主権在民)―民族国家・国民国家・契約国家

と続いています。

 国家と言う大集団の構成になる元は人類が主食になる穀物の麦、米の栽培を覚えたことです。

以上

 

2020年8月17日

 

梅 一声