聖徳太子と(うまや)()皇子(おうじ)


 聖徳太子も(うまや)()皇子(おうじ)も同じ人です。この歴史手的に最も有名なこの方について“本当にいたのかいやいなかったのではないか”との議論が古代史の学者間であります。

 “聖徳太子はいなかった”論についてもご紹介するとしまして、先ず従来の説、即ち学校の教科書の内容にそっての聖徳太子伝をお話ししましょう。

 それでは聖徳太子の在世時の時代背景を少し語ります。

 時は飛鳥(あすか)時代です。飛鳥時代は古墳時代と奈良時代の間に位置します。6世紀の終わりから8世紀の初めごろとなります。

 聖徳太子は飛鳥時代の初めの頃の人です。

 この頃の日本は天皇(大王)・豪族(氏族)政治の時代で、豪族が力を持っており、豪族が領地を支配し、次期天皇の擁立も天皇家の血筋の中から豪族が決める時代でした。

 そのころ中国では後漢が滅亡した後400年やっと統一王朝である随が誕生しました。

 この強力政権は日本にとって脅威です。中国がばらばらであったので豪族間でいがみ合ってもめていても平気でしたが、統一政権の随に対しては日本も天皇を君主とする強力な中央集権国家の形成が必要との考えが出てきました。

 聖徳太子のお爺さんである欽明天皇が仏教を輸入しました。仏教は随や朝鮮の諸国もすでに受け入れています。仏教は教えも尊いのですが統一王朝結成の基本思想があります。仏・君主・臣・民の序列の絶対化です。君は臣に対し絶対的に上位です。

 強力王朝の随との外交も必要です。

 朝鮮半島の新羅との関係が良くありません。この対応も必要です。

 

 それでは通説の聖徳太子伝です。

 先ず名前のことです。

 以前の教科書では「聖徳太子」ですが、最近の教科書では「(うまや)()皇子(おうじ)(聖徳太子)」又は(うまや)()(おう)(聖徳太子)」と記載されます。厩戸は“うまやと”濁らないのが正しいようです。

 日本書紀では「(うまや)()皇子(おうじ)」、「(とよ)(みみ)()聖徳(しょうとく)」、「(うまや)()(とよ)()(みみ)皇子(おうじ)」、「上宮(うまや)()(とよ)()(みみ)太子」等と名付けられており、その外の史料でも独自の命名があり、その数三十以上と言われています。同一人物の名前の数の多さでは日本史で一番です。

 しかし、史料では“聖徳”と“太子”が別に現れ、「聖徳太子」の一語は。聖徳太子没後130年後に編集された「懐風藻」(漢詩集)に初めて記述されたもので、聖徳太子在世中は使われていなかったことが分かり、上記のように教科書の記述が変りました。

 

 次いで誕生です。

 敏達天皇の3年(574)が通説です。亡くなった年から逆算しています。

 お父さんの名は欽明天皇の息子の用命天皇。お母さんの名は、(あな)穂部間人(ほべのはしひと)皇女(こうじょ)これまた欽明天皇の娘で、用明とは兄と妹の結婚となります。(当時は異母の場合兄、妹の結婚は許されていました)

 亡くなりました(薨去(こうきょ))のは、推古天皇の30年(622)の2月22日が通説です。49歳でした。

 ここから誕生年が算出されました。

 

 それでは聖徳太子(今後もここではこのように又は太子と呼びます)の政治活動です。

 日本書紀には推古天皇(女帝)の皇太子とあり、万機を総摂したとありますので、書紀に基づきますと次期天皇で、摂政であったことになります。

 但し、この頃は蘇我氏(馬子)の勢力が強く、天皇(太子も)の外戚でもあり、大臣としての蘇我氏との協同政治と考えられています。

 太子は推古13年(605)に居を飛鳥の上宮(現在の桜井市あたり)から

斑鳩(いかるが)に宮を造って移ります。ここにかの有名な法隆寺も建立されます。

 どうして飛鳥から20キロも離れたこの場所に宮を写したのか諸説ありますが、この地が難波(大阪方面)から飛鳥へ入る大和川の要所であったからと言われています。当時の西日本からの飛鳥への物流(年貢等)は難波から大和川で飛鳥までの水運が主でした。飛鳥の出入り口である(川も陸路も)斑鳩は大和政権の要所でありました。

 この地を推古天皇は太子に拠点化させました。

 太子の政治功績についてです。

 冠位十二階の制定し、世襲でなく優秀な人物を氏族の格を越えて登用しました。

 有名な「和を以って貴しと為し・・・・・」で始まる憲法十七条を制定しました。

 これは群臣間での和を説いたもので百姓や民衆の和を説いたものではありません。その外「三宝(仏教)を敬え」の条もありますが、冠位十二階にしましても、憲法十二条にしても、天皇を主君として臣民、人民の序列を説いているもので、豪族(氏族)政治から脱却し、天皇の絶対をうたう中央集権国家を目指すために制定されたものです。

 遣隋使小野妹子に託した国書「日出ずる処の天子、書を日の没する処の天子に致す。(つつが)無きや」は随との対等外交を目指していると言われています。これに関して太子が関わっていたかははっきりしません。

 

 次いで聖徳太子の仏教への関わりです。

 太子は法隆寺、四天王寺等を建立し、三経義疏(さんきょうぎしょ)と言って(しょう)(まん)(きょう)法華経(ほけきょう)維摩経(ゆいまきょう)の三経の解説書を書き上げました。これは大部です。太子が関わったかもしれませんが、自作ではないのではないかの説もあります。

 宮中でお経の講義も行ったそうです。

 仏教は太子のお爺さんの欽明天皇の時に日本に入りましたが、このように政権の中心の人が自ら勉強してお経の解説、講義をして普及した人は聖徳太子が初めてです。日本仏教の祖とも言われます。

 故に時代を問わず日本の仏教の創始者として、お釈迦様、菩薩と同様に仏教信仰の対象となりました。今でもお太子様信仰がありますね。

 

さて私たちはだいたい上述のように聖徳太子をイメージし、尊敬し、お札にもなりました。

 ところが一方聖徳太子はいなかったと言う学者たちがいるのです。

 “(うまや)()皇子はいたが聖徳太子はいなかった”説そして“聖徳太子も厩戸皇子

 も全くいなかった“説です。

 今回はまったくいなかった説はおいときまして、“厩戸皇子はいたが聖徳太子はいなかった”説についてお話することにします。

 この頃の様子を記述した最も詳しい書は日本書紀です。日本書紀は養老4年(720)に完成した正史です。太子没役100年近く後の編集です。

 書紀における太子関係の記述についての指摘です。

 “太子の法隆寺建立の記述なし。小野妹子の遣隋使派遣や隋からの使節(はい)(せい)(せい)来日の記述の中に皇太子の語がない。書紀記述の憲法十七条の作成推古天皇・太子在世時代ではない。(この時代は国司の語はないのに記述している。当時は氏族制で、十七条にいう君・臣・民の意識がない

 亡くなった日を推古29年(621)2月5日としている。正しくは推古30年である。“

 

 日本書紀はほとんど史実ではないという人に対し、史実の部分も含んでいるという人がいます。現在後者の考え方が主流です。

“厩戸皇子はいたが聖徳太子はいなかった”説の人は日本書紀における太子部分はほとんど潤色されたものとみています。

 聖徳太子が実在したことについての史料は外に法隆寺関係があります。

 法隆寺金堂に安置される釈迦三蔵像光背銘は像の裏面に太子(法皇)の没年等が、同寺の薬師如来像光背銘には太子(東宮聖王)が法隆寺と薬師如来像を建立した由縁が刻されています。

 しかし太子はいなかった派は、

 “この二像は太子在世中に建立されたと言われているが、法隆寺は天智天皇の9年(670)落雷で消失し、7世紀末に再建された。落雷の火災では大型の二像を持ち出すことは無理であり、二像はこの時消失した。二像の再建立は光背銘の文中の言葉(語)の使い方から日本書紀編纂(720年)以降である。

 聖徳徳太子の存在の証明にはならない。

 三経義疏(さんきょうぎしょ)については太子没120年後に法隆寺資材帳によって太子の作と言われるようになっが、その内(しょう)(まん)(きょう)義疏(ぎしょ)敦煌(とんこう)出土の「(しょう)(まん)(きょう)義疏(ぎしょ)本義」と7割同じであって、三経義疏が太子の自作ではない。

 厩戸皇子はいたが、特別の活躍をした人ではなかった、聖徳太子の出現は8世紀に入って意識的に作られたものである。その理由は現天皇在世中に次期天皇を決めておく天皇―皇太子制の確立のためと仏教興隆のためである。(次期天皇決定で争乱を避ける。仏教による政治の統一。)”

 

 以上が“(うまや)()皇子はいたが聖徳太子はいなかった”説の概要ですが、“日本人の多くは聖徳太子実在説を信じています。

 

 奈良時代も平安時代も太子は観音様の化身として、浄土宗も浄土真宗(親鸞)も太子信仰をします。室町時代には太子講も出来ました。明治時代以降の政府は随との対等外交を開いた偉大な政治家として、又日本文化の祖としてその行跡を仰ぎました。戦時中は憲法十七条の「和」は戦争に勝つための日本人全員の和、そして戦後は平和主義の「和」として尊敬されて来ました。

 戦前、戦後何度もお札の肖像になりました。

 

 著者もこんなに日本人が尊崇する御仁がいなかったと今更言えません。

 何分太子が在世中の文書等の史料がありません。史料は太子没後100年以上たってからのものです。

 古代史は当時の史料(文書、日記、記録類)が少なく、史実の証明は考古学に頼るところが多いのですが、やはり文字史料がないと証明が難しいのです。

 古代史は史実の証明が難しいのでしゃべり得、書き得で、研究者以外も参画しやすく楽しくもあるのですが、一般人には何が何だか分からなくなります。

 著者も読者を混乱させましたでしょうか。

以上 

 2017年12月24日 

梅 一声