真説大久保彦左衛門物語


 

 

 “天下のご意見番”とは「政界や会社等で上下関係のへだたりを越えてそのトップに平気で正論を吐き、苦言を呈することが出来る人」と言うことになりますでしょうか。

 この“天下のご意見番”とは講談の世界では江戸時代より「大久保彦左衛門」のことになっています。大久保彦左衛門について、明治以降時代小説や子供の読み本では人気の物語で、又何度も映画にもなりましたので知らない人はいないと思います。

 物語は常に彦左衛門の屋敷に出入りする魚屋一心太助と共に語られます。彦左衛門は一心太助や若手の旗本等から様々な世の不都合や矛盾を聞き、徳川三代将軍家光や時の老中に直接苦言を呈し、御政道をただす痛快物語です。

 物語は架空のことですが、彦左衛門は実在の人物です。一心太助は架空の人物です。

 それではこの彦左衛門とは実際はどのような人だったのでしょうか。

大久保彦左衛門は、正式には旗本大久保彦左衛門(ただ)(たか)、永禄3年(1560年)生まれで、寛永16年(1639年)80歳で没、晩年は知行二千石、

旗奉行でした。家康、秀忠、家光の三代に仕えました。大久保家は徳川家譜代の家筋の名門家です。

 彦左衛門は五代大久保忠員(ただかず)の八男です。江戸時代に既に講談にもなりましたから、江戸時代初期に当時名士として一般に知られていたのでありましょうが、明治時代に入り、彼が著した「三河物語」が世に出て、大久保家はもとより徳川家の祖先ことがはっきりしてきました。

 これより語りますことはこの「三河物語」から多く引用します。尚、三河物語は彦左衛門が、自分の子孫に対し主家徳川家と大久保家について記したもので、門外不出としていたものが明治になり、公開されました。

 

 徳川家は家康で九代、初代は、徳阿弥と言い、時宗の坊主(遊行僧)で三河(愛知県東部)の松平郷に流れて来て、豪族松平氏に奇遇してその娘と良い仲になり、やむを得ず松平氏は徳阿弥を婿としました。15世紀半ばの頃です。

 徳阿弥及びその子孫はなかなかに能力を発揮して松平家は三河国で大豪族となり、やがて戦国大名となり、ついに九代家康で天下を取ったのです。元は出所もはっきりしない雲水でありました。

 さて大久保家ですが初代大久保(やす)(まさ)と言う人は徳川家三代信光に仕えたのが初めです。徳川では関ヶ原の戦い以前からの家臣を譜代の家筋と言いますが、中で徳川家が三河を領国にした戦国大名時代からの家臣三河譜代と名乗ります。更に以前の徳川家が三河の一豪族のころの家臣を古い順で安禅寺譜代・山名譜代・岡崎譜代と家筋を更に誇ります。そして大久保家はそれよりもっと古い岩津(城)譜代を名乗りその家臣としての家筋の高さと徳川家の忠節を常に誇っていました。

 家康時代もこの大久保家は家康につくしました。当主である忠世(彦左衛門の長兄)は三河の一向一揆で家臣まで一揆につく中で家康を守りましたし、兄弟三人も戦死し、たえず家康の下で忠誠に励みました。小田原城攻め等で勲功があり、長男忠世は小田原城主(4万5千石)に二男忠佐は沼津城主(2万石)の大名となりました。家康は譜代には高禄を与えないのでこれで高い評価がされているのです。

 彦左衛門は、大久保家の八男であり、長男の忠世の配下そして忠世死没の後はその嫡男である小田原城主忠隣(ただちか)(甥)に属して活躍しました。(千石の身分)

 彦左衛門は、大久保本家の家臣の身分でした。家康も直臣でないことを気にしていたのでしょう 慶長18年(1613年)大久保家二男忠佐(沼津2万石)の息子が夭折したので、家康は忠佐の跡目を彦左衛門にすることしました。

 しかしこれを彦左衛門はこれを受けません。「勲功にあらざる領地は継げない」(戦功に基づかない給与は受け取れない)と辞退してしまいます。 

この時代主人から給与を増やしてやる、大名にしてやると言われて辞退する侍などいません。皆そのために命をかけて励んでいるのですから。

家康は、こいつは変わった強情者と思ったでしょう。

ところが翌年に、本家で甥である忠隣(ただちか)大久保長安事件に連座して謹慎、領地没収なってしまいます。大久保長安は甲斐の人で、甲斐の武田氏滅亡後家康に仕え、財務官僚として、佐渡、石見、伊豆の鉱山開発に力量を発揮し、高い処遇を得ていましたが、長安死没後生前中の汚職が発覚し、大久保長安家は息子死罪となり没落しました。名門大久保家とは一族ではありませんが忠隣は長安の力量を高く評価して、大久保の名字を与えて親しく交際していました。長安の汚職に忠隣が係ってはいなかったのですが、両者の親密さから連座で責任を取らされたのです 

これで名門大久保家では大名家はなくなりました。

 彦左衛門はこれにより属していた本家が無くなってしまいましたが、家康は直臣、旗本として引き取りました。

 

 それから時は流れ、慶長19年(1614年)・元和元年(1615年)の

大坂の陣(徳川と豊臣の戦いで豊臣の滅亡)となり、ここで彦左衛門の登場です。そして最終戦の大坂夏の陣(1615年)で彼は(やり)奉行を仰せつかりました。鑓奉行は家康の側近が受け持つ家康親衛隊の隊長の一人です。名誉な職です。しかし同じ親衛隊に旗奉行と言う職があり、この職は家康の本陣にあって徳川家の旗を林立させて総大将家康を囲んで警衛する役で、この奉行は鑓奉行より格上となります。

この時、旗奉行には甲斐武田氏の元家来で、武田氏滅亡後仕官した某氏が勤めることになりました。彦左衛門は徳川三代信光以来の家臣、名門中の名門、岩津城以来の譜代である自分が旗奉行と思っていましたので面白くありません。

 

 さて大坂の陣は史実の通り徳川軍圧勝で終わりました。ところがこの戦いの中で総大将家康本陣の(徳川家の)旗が崩れたのです。家康本陣(本部)が混乱状態になってしまったのです。誤って同士討ちが起こったせいとの説が有力です。戦争は圧倒的な兵力で勝利に向かっていましたが途中で思わぬトラブルが起こったのです。

 

 その時、家康をもっとも近くで家康と旗を守らねばならない旗奉行(親衛隊長)がそばにおらず、旗が倒れてしまいました。これは重大事件です。旗が崩れることは本陣がやられたと敵も味方もそう思います。

余談ですが、この時代総大将は戦場が見渡せる所、即ち味方軍の後方で高めの位置に本陣を置き、指令を各部隊に送り、増援隊を送ります。一方前線で接近戦をしている各部隊長は、自分の働きを後方の本陣の総大将が見てくれており、後日褒賞をもらえることを期待して戦います。しかし本陣が崩れることは総大将が戦死したか、逃げたかです。こうなれば味方軍は敗戦と思い、総退却となります。本陣の旗奉行は旗を崩してはいけないことが鉄則です。

 

閑話休題、トラブルは一時のことで立ち直りましたが、戦後家康は許しません。詮議を開始します。家康以下諸将は旗が崩れたと証言します。旗奉行は認めません。それでは旗奉行に最も近い位置(旗奉行の親衛隊の前方の位置)いた彦左衛門に聞こうということになり、喚問となりました。

 彦左衛門は自分がやりたかった旗奉行です。さらに戦場でこの某旗奉行とは仲が悪かったことは知られています。旗奉行の落ち度は明白です。みんな旗は崩れたと証言しています。

 しかし、彦左衛門は「旗は崩れなかった」と証言しました。家康は怒りました。彦左衛門にこんな証言をされては裁決の上で困ります。何とか撤回させようとしましたが、彦左衛門は家康や重臣の言うことを聞きません。

 

実は彦左衛門も旗が崩れたことは見たのです。

彦左衛門の言い分が伝わっています。「御前(家康の本陣)が崩れたるとは心外なり。三方が原(武田信玄との戦い)にて一度だけ旗が崩れたが、この後先崩れたことはない。上様は70歳なられて最後の戦いであろう。この戦いで崩れたとは後世の上様の恥となる。命にかけても御旗は崩れなかった。われら譜代は当座の勘気(とがめ)で腹を切っても構わない」

 

 家康は、大久保家で主たるものは彼しかいないし、もうこれ以上忠臣大久保家を罰するわけにいかない。困った存在と思ったでしょう。

 彦左衛門は徳川家も家康も大好きでしたが、家康が晩年譜代に冷たいことなどから幾ばくかの恨みがあります。もちろん徳川家への忠節の念は他に負けません。その忠節の念から主君へ平気で発言するのです。

 

 大名にもなれた人ですし、旗崩れの一件で自分を主張して家康に退かなかったことは世間に知られていましたので、周囲から一目置かれていたようです。

 ここら辺が後世講談で取り上げられる所以になったのではないでしょうか。

 尚、彦左衛門は家康没後2千石となり、出陣はありませんでしたが念願の旗奉行になり、80歳で没しました。

以上

2013年8月27日

 

梅 一声