清水次郎長伝を語ります(前編)


 この人清水次郎(じろ)(ちょう)が全国区で有名になりましたのは浪花節(浪曲)で二代目広沢虎造が、語りました「清水次郎長伝」からであります。

 清水次郎長については浪花節より先に明治の終わりごろに講談で語られました。当時人気の三代目神田伯山が読みました。まあまあの人気の出し物でした。

 伯山は天田愚庵作「東海遊侠伝 一名次郎長物語」をもとに台本を書きました。

 浪曲師二代目広沢虎造は伯山の「清水次郎長伝」を浪花節に書き換えて語りました。これがロングランで大ヒットし、大正時代から戦後の昭和30年代初めまで、「次郎長伝」と言えば虎造の浪花節がもっとも人気を博しました。

 

 あの有名な語りを思い出してください。

 ここではほんの有名な所だけを抜き出してみましょう。

 先ず声節(うなって歌う部分)です。

「春の旅 花はたちばな 駿河(するが)()行けば 富士のお山は春がすみ 風はそ よ風 茶の香が匂う 歌がきこえる 茶摘唄 赤い(たすき)に 姐さんかぶり 娘二人の あで姿 富士と並んで その名も高い 清水次郎長 街道一よ 命一つを 長脇差(ながわきざし)に かけて一筋 仁義に生きる 噂に残る 伊達男」

 

 次に啖呵(セリフで語る部分)です。

 子分の石松が次郎長の代参で金毘羅詣でをした帰り、大阪から伏見に向かって舟に乗ります。その船中で一人の客が石松がいることを知らないで、みんなに次郎長親分の偉さを話しています。

 うれしくなった石松はその人に話しけます。

石松:次郎長てぇのはそんなに偉ぇのか

   江戸っ子だってねぇ。

 江戸っ子(客):神田の生まれよ。

 石松:飲みねぇ 鮨食いねぇ 飲みねぇ ・・・・・

 

 この後次郎長の子分の話になりますが、大政、小政等が出てきてもなかなか石松が出てこない。やっと思い出して子分の中で石松ほど強い奴はいないと言われて大喜び。

 しかしその江戸っ子が子守唄と称してうたいます。(声節でうなるところ)

 江戸っ子:

 「お茶の香りの東海道 清水一家の名物男 遠州森の石松は しらふの時は 良いけれど お酒飲んだら乱暴者よ 喧嘩早いが玉に瑕 馬鹿は死ななきゃ なおらない

 この“馬鹿は死ななきゃなおらない”は今もつかう人がありますね。

 

 この二代目広沢虎造の「清水次郎長伝」は講談の物語をアレンジしたものですが、浪花節が人気を博しただけでなく、虎造が作ったストーリーも人気を呼び、これを元にして芝居に、映画に、又戦後はテレビドラマで人気を博しました。

 虎造の次郎長は、全体はコミカルに出来上がっており、講談話に落語の要素を入れたものと言われています。もちろん石松が殺されるところ等、浪花節特有のお涙頂戴の箇所は充分あります。

 

 虎造の浪花節のCD(13巻)は出ていますが、今日浪花節を聞く人が少なくました。浪花節の次郎長の全盛は昭和30年代の初めまででしょうか。

 

 この清水次郎長は幕末から明治にかけての実在の人ですが、その素顔はどうであったのかを語ってみたいと思います。

 その前に当時のヤクザとはどんな人たちであったのかを語りましょう。

 ヤクザは博徒(ばくと)博打(ばくち)うちと言われ、中で評判の良い人は任侠、侠客(きょうかく)とか遊客(ゆきかく)とか言われています。本業は私営の賭博に係る仕事が稼業です。もちろん当時も賭博を開く者も賭けるものも御法度(ごはっと)です。この私営賭博を運営する人を親分、貸元と言われ、親分には子分がつく組織が出来ます。一家です。次郎長は清水一家の親分です。

 基本的に親分(胴元)は賭けません。現在の公営賭博の競馬、競輪の主催者と同じく口銭(寺銭)を取るだけです。口銭で稼ぐのです。

 

 博打に参加して賭けをするのは素人の一般のお客さんです。

 博徒(親分、子分のヤクザ)は本来は主催者側ですが、胴元と関係のない博徒は自ら博打に打って出る者もいます。 

 親分は一回の賭場で何百両と寺銭を稼ぐこともあったようです。

 賭博は主に丁半博打です。二個のさいころの目の合計が偶数(丁)か奇数(半)をあてるのです。

 

 当時も賭博は御法度でしたが、お目こぼしもありました。特にお祭りの時はほぼ公認状態でした。

 賭場を開く権利は力づくです。勢力が強い親分一家が縄張りと称して宿場や

大きな町の近くで、又神社や寺で賭場を張ります。

 この縄張りをめぐって親分一家どうしのヤクザが抗争します。ヤクザの一家は賭場を開く時の人手もいりますが、縄張りの拡大と自衛のために子分を養う必要がありました。

 

 ヤクザといえば喧嘩です。博打の次の仕事は喧嘩と言われています。主な原因は縄張り争いにあります。

 なかには賭場がインチキだとして喧嘩になる場合や私的なうらみ、つらみからの喧嘩もあります。

喧嘩で死傷者が出た場合、お上(代官等役人)は当事者が管轄外から出て行けば見逃していました。ヤクザどうしの喧嘩には無関心をよそおっていました。

 ただし喧嘩には仲裁に入ることがありました。別のお親分が入るのですが、仲裁が成功すると仲裁した親分の名が上がりました。次郎長も仲裁で男を上げています。

 

 ヤクザの親分は十手持ちになることもありました。治安警察の補助の役です。

これを二足の草鞋を履くと言っていました。

 江戸時代は封建国家です、領地(領主)ごとに半国家です。警察権は当該領地を原則とします。

 罪を犯しても当該領地から逃げて他の領地に逃げれば逮捕されません。特に

ヤクザどうしの殺傷事は取り締まりがゆるく、数年で地元に戻って来てもお咎めがないことが多かったようです。

 更に警察力が弱いと言うことがあります。関八州を中心に幕府直轄領は代官が治めますが、代官所の役人が少ないのです。よってヤクザの親分に警察官の補助をもさせました。又一般の領地であっても大名ではなく、小領主の領地が混在しており、それぞれ小さい故に警察力が極めて弱いのです。

 幕府直轄領と小領地群の混在する駿河、遠江、三河、伊勢はまさにこのような地域でした、次郎長の活動範囲です。

もちろん極端にお上に盾つく国定忠治のような重罪犯は逮捕され処刑されます。

本題の次郎長を語る前に、

 “ちょうど時間となりました また口演つかまつる”

 別稿の後編をお聞きください。

以上

2017年11月20日

 

 梅 一声