清水次郎長伝を語ります(後編) |
前編では浪花節の次郎長伝とヤクザの説明に終わってしまいました。 さて次郎長その人についてです。 高校で習う日本史に出てくる人物ではありません。史料が少ないので確かなことが分かりません。清水市史(郷土史)にもわずかしか触れられていません。特に幕末までのヤクザ時代のことは確かなことは言えません。 次郎長の素顔を知るには天田愚庵作の次郎長の伝記「東海遊侠伝一名次郎長物語」に頼ることになります。 本名は山本長五郎。駿河国宇渡郡清水町(現静岡市清水区)出身。通称 清水次郎長と呼ばれました。(ここでは次郎長で通します) 実父は高木(雲不見)三右衛門と言いは回船業者で船持ちの船頭(船長)でした。次郎長は次男ですが、幼少のころに叔父さんの家の山本家(甲田屋)に養子にいきました。それで山本長五郎です。 養家の叔父さんの家の家業は米穀商で栄えていました。 生家も養家もいわゆる清水の旦那衆ですが、次郎長は幼い時より悪ガキで勉強もせず近所の子供と喧嘩ばかりしていました。 家業も熱心にやらなかったのですが、それでも養父が亡くなり跡を継ぎました。4~5千両を相続したそうです。(今の4~5億円でしょうか) ところが喧嘩して人を殺したため店を姉夫婦に譲って清水を逃げ、遠江(静岡県の西)や三河(愛知県の東)を流浪したのです。 彼らの言葉でいえば渡世の草鞋をはいたのです。 しかし実は喧嘩で殺したと思っていた相手は生きていたのです。 そんなこともあって数年後清水に戻りヤクザの一家を構えました。 名前を上げたのは甲州津向の文吉と地元駿州和田島太右衛門との喧嘩の仲裁に成功したことです。 しかしその関連で清水を追われ、武州、遠州、三河と流れた後ほとぼりが冷めたころ清水に帰り、お蝶と結婚します。(弘化4年、1849年) この頃次郎長は、清水と三河の寺津を拠点にして、駿河、遠江、三河、伊勢、 尾張の東海道筋で博打、喧嘩、出入りの仲裁で勢力を広げていきました。 その後甥の法印大五郎の親の仇の手助けをして、又長の草鞋をはきます。この時は女房のお蝶を伴いますが、お蝶が旅先で病没します。 尾張の保下田の大親分久六に次郎長兄弟分の深見の親分長兵衛を殺され、清水より大政、小政、大瀬半五郎、法印大五郎等名だたる子分を呼び、久六を討ちます。 次郎長と子分たちは分かれて旅をして、ほとぼりをさました2、3年後にみんな清水に戻ります。 次郎長は清水に定着します。名声がヤクザの間であがります。 浪花節のところで述べました森の石松の金毘羅さんへの次郎長代参のことがあります。石松は遠州森の石松と言われ、遠江(静岡県の西)の森と言う所の出身です、 石松は無事代参をすませた帰りに知り合いの都鳥一家に立ち寄り、そこで次郎長の兄弟分から預かったお蝶の香典をだまし取られ、取り戻そうとして殺されます。 次郎長はもちろん仇をうちます。 ここの部分は広沢虎造の浪花節「次郎長伝」の真骨頂です。 そのころ慶応2年(1866)には子分150人と言われたそうです。 この外吉良仁吉がらみでの甲州(甲斐、山梨県)の黒駒の勝蔵一家との戦いが有名です。 ここまでは次郎長の話を天田愚庵が筆記したもので、証明できる他の史料があまりありません。 しかしとにもかくにもこの時期(幕末)、次郎長は、駿河、遠江、三河、伊勢、尾張にかけての東海一の大親分であったことは間違いありません。 幕末から明治維新にかけての次郎長です。ここからは史実と言えます。まあ政治家、実業家、学者として名をなした人ではありませんので、教科書には出てきませんが、歴史秘話としてお聞きください。 現在。地元清水の方はもちろん大事にしています。清水には次郎長の菩提寺の「梅蔭寺」があり、生家、船宿「末広」等旧跡もあります。 大政奉還、官軍勝利で倒幕成功の慶応4年、幕府直轄領と小藩領であった静岡は新政府の管轄となり、浜松藩の家老伏谷如水が町奉行に就任しました。 幕府時代と同じく治安警察力が不足の中で、奉行の如水は清水地区の警察の仕事(道中探索方、清水港警備役)を嫌がる次郎長に申しつけます。 次郎長は仕方なく受けましたが。如水の要望にそって役向きに従事し信頼を得ます・ 次郎長は役人になったのです。 次に静岡は徳川宗家の支配になりました。宗家跡目の家達と謹慎していた慶喜が駿府に入りました。引き続き次郎長は道中探索方で清水地区の治安警察担当です。 ここで清水港で咸臨丸事件が起こります。 徳川慶喜は降伏して恭順し、16代家達は駿府に70万石の大名として駿府に着任しましたが、維新政府に対決を続ける榎本武揚は旧幕府軍艦数隻を引き連れて函館に向かいました。 その内の1隻が暴風雨のため破船して清水に寄港します。官軍の艦船が追いかけてきて清水港で激戦となり、咸臨丸の将兵の多くが討ち取られます。その死体が清水港に放置されたままです。駿府の徳川家も一般人も官軍の意向を忖度して死体はそのままです。 その時、清水次郎長は死んでしまえばみな仏と、港に浮かんでいた死体を片付け供養しました。 これには徳川家の家臣で駿府城にいた山岡鉄舟がいたく感激して、以後次郎長と親交を深めました。 この山岡鉄舟と言う人は勝海舟、高橋泥舟と並んで幕末の三舟と言われ、 共に慶喜に従った恭順派の幕臣です。 海舟は西郷隆盛と談判し江戸城無血開城で政権を明治政府に渡しました。鉄舟は海舟と隆盛との会談をお膳立てした人です。 駿府城まで進軍していた官軍参謀西郷隆盛に海舟の意向を伝えに行った人です。 次郎長は、江戸からの駿府城に向かう途中の鉄舟を静岡の薩埵峠から護衛して駿府城に送り届けたのです。これが次郎長と鉄舟の最初の出会いであったという説もあります。 徳川家の支配の後は、明治7年より明治政府の支配となります。 次郎長は明治に入りヤクザ稼業から足を洗いました。 富士南山麓の開墾事業に乗り出しました。博徒集団に開墾をやらせました。7町(2万1千坪)開墾で終わってしまいました。 これからは英語だと、英語塾を経営しました。本人は平仮名ぐらいしか読み書きできなかったようです。 地元の人たちからも、旦那衆からも受けが良く事業家に転身したように見えたその時です。 明治17年、博徒大刈込み令で時の静岡県令(知事)奈良原繁に逮捕されてしまいます。 この令は次郎長だけでなく全国の博徒の多くが逮捕されたのです。 次郎長は足を洗っていたつもりでしたが、過去のことや刀や鉄砲が家にあったことから逮捕され、懲役7年、過料400円(今の2千万円位)の刑が言い渡され、監獄に入れられました。 これには本人も次郎長ひいきの関係者は驚きました。 嘆願運動が東京で山岡鉄舟、榎本武揚等によってなされています。 その一環で天田愚庵が清水次郎長の伝記を書いて、博打ちの親分時代から明治に入って足を洗って明治政府に如何に貢献したかを世に知らしめました。これが「東海遊侠伝一名次郎長物語」です。 この本の出版もあったのか次郎長は明治18年に1年半ぐらいの監獄生活で出所しました。異例の刑期縮小でした。 この天田愚庵と言う人は陸奥国磐城平藩の藩士でしたが、明治に入り不遇でした。鉄舟が次郎長に紹介し、次郎長は面倒を見、互いに意気投合して、ついには次郎長の養子になり次郎長の参謀格となりました。(後年養子円満解消し、坊主になる) その後鉄舟と次郎長は静岡の名刹久能寺が没落しているのを再建しました。再建できた時にはすでに鉄舟は亡くなっていました(鉄舟は明治21年没)。寺の名は鉄舟寺と改められました。 次郎長は晩年は船宿(末広)を経営して海軍の若手士官に慕われていました。 明治26年に74歳で没しました。 鉄舟はすでに亡くなっていましたので、墓碑銘は榎本武揚が揮毫しました。 それから次郎長の奥さんです。ヤクザの世界では姐さんと言います。姐さんの名はお蝶と言います。 姐さんは三人いました。三人ともお蝶です。初代は前述しましたように旅先で病没しました。子分や厄介者の旅がらすの面倒をよく見て、評判の良い人でした。金がない時は自分の着物を売って面倒を見たそうです。 亡くなった時は次郎長も面倒を見たヤクザも羽振りが良くなっており、香典が千両(現在の1億円)集まったそうです。 その後再婚した二代目の姐さんもお蝶を名乗りました。この人は明治の初めに次郎長に恨みを持つ元浪士に自宅で殺されました。次郎長もおもだった子分も留守でした。直ぐに大政、小政等の子分が戻り、寺に逃げていたその浪士を切り殺しました。 三代目の姐さんもお蝶を名乗りました。次郎長が監獄で刑に服していた時にも養子の天田愚庵と共に一家を支えました。 二十八人衆と言われる大政、小政等の主要な子分の語りもありますが、 ちょうど時間となりました。また口演いたします。 以上 2017年11月20日 梅 一声
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