戦国時代とは何か


  足利将軍家(室町幕府)は応仁の乱後崩壊しそうでしません(応仁の乱は
1467年から1477年)。

 地方は守護に代わり戦国大名が支配します。戦国大名には守護からもありますが、多くは守護代から、守護被官から下剋上で主君の守護を追放してなります。下剋上の世です。

 守護代も守護被官も守護(足利将軍が任命)の家来です。

    

 守護からは武田氏、今川氏、守護代からは上杉氏、織田氏、被官からは毛利氏、北条氏が戦国大名として有名です。

 

 畿内に細川家(管領(かんれい)・守護)や多くの武士勢力がありましたが、一勢力が一つ又は数カ所の拠点を制圧しても一国を面で制圧出来ない戦乱期が続くのです。  

 戦国時代末期に三好長慶(ながよし)が最初の戦国大名になりました。(1560年あるいは少し前あたり)

 長慶は畿内の数か国を制圧しました。畿内政権と言って良いでしょう。

 長慶の制圧以前の畿内は大雑把に言って細川氏の政権と言ってよいのですが、この政権が脆弱な政権なのです。

 細川氏の中でもお家騒動で、一つにまとまりません。野州家と言われ、伊予宅間郡の守護家出身の高国系と阿波国守護出身の澄元系が争います。そこに加えて細川氏被官が自立し、主君の細川氏にかならずしも従がいません(安富、上原、波多野、薬師寺、香西、三好等)。更に中国の大内氏、近江の佐々木氏、播磨の赤松氏が敵味方となって騒乱に参画し、争乱は収まりません。

 

細川氏は足利将軍家が存在しないと自分の政権はなりたたないとの考えです。政権の実権は管領家(細川本家)の細川氏が持ち、将軍は傀儡にしようとしま

すが、将軍は反発します。

 管領は足利幕府では後の家老のような存在で、本来は将軍に次ぐNO.2の地位にあります。

 これらが絡み合い互いに敵になったり味方になったりで毎年紛争が絶えまなく起こります。

だれも畿内を一国も制圧できない不安定な細川政権が続きます(細川本家は政元、高国、澄元、晴元と代わります)。

 

 そしてついに三好長慶(ながよし)が主君の細川晴元を追放(隠居)し、足利(よし)(てる)13代将軍と直接結びつき、臣下の形をもって畿内を制圧します。

 長慶死後は、長慶の家臣の松永久秀と三好三人衆(一族)が将軍義輝を殺害します。義輝が地方の大名を自分の下に呼び寄せようとしたからです。

しかし義輝将軍殺害後彼等は義輝の従弟の(よし)(ひで)を将軍に擁立します。

 管領としての又守護としての細川家の人々も、細川家の被官である三好氏も、

将軍を殺した三好一族と三好被官の松永久秀も政権を確保するために足利将軍家の存在の必要性を認めています。

 

 地方の戦国大名も足利将軍家の存在を必要としています。

 将軍―管領―守護体制が整っていた応仁の乱以前はともかく、自立して領地を確保しなければならない戦国大名や一般領主は将軍家をどのように考えていたのでしょう。

 そもそも足利将軍家が武士の支配の日本で絶対必要であることは南北朝の騒乱の時に決定しました。武士たちのほとんどは後醍醐天皇ではなく足利尊氏につき、尊氏の武士の政権(室町幕府)を樹立させました。足利将軍家の創立です。

 足利将軍が任命した守護が地方を治めました。地方の武士(国人・国衆)は守護の被官となり安定した小領主におさまることが出来ました。

 守護は京で将軍を補佐して足利政権(幕府)を支えました。将軍家は一国の直轄地も持たず、直轄地は各地に分散し合計でも一国にも満たない規模です。軍事力も直臣(奉公衆)は千から2千人ほどです。

 源頼朝は関東の半分を、鎌倉北条氏は全国の半分を北条一族で、豊臣秀吉も全国の金銀鉱山と共に200万石以上の直轄地を、徳川家康も直轄地700万石支配していました。

 足利将軍家は軍事力で武士たちを統制してきたのではないのです。

 守護(管領)や一般武士に押されて将軍の座にあるのです。武士たちには足利家は他が代われない武士の棟梁の家なのです。

 武士たちにとって自分の領地を公領地としてオーソライズしてくれる上部機関が必要なのです。それを天皇・朝廷でなく足利将軍(幕府)を選びました。

 

 応仁の乱は東軍、西軍の勝ち負けより重大事は、将軍の権威を落としました。守護の権威も落としました。地方の武士は守護からの自立がはじまり、守護家の中で大きな勢力を持つようになりました。

 そしてついには守護を追放して将軍の任命ではなく自力で戦国大名になって行きました。

 守護制が機能しなくなった戦国時代でも戦国大名や有力な武士団は、足利将軍の存在は必要と感じていました。特に近畿の勢力は政権の獲得ためには絶対必要と思っていました。

 

 将軍と戦ったり、ついには謀殺しても足利将軍家の退場はありません。上に足利将軍を頂いての政権を目論みます。

 将軍の権力はほとんど無くなっていました。畿内僧侶の任命権ぐらいです。領地紛争の仲裁もほとんど力はありません。

 それでは何故足利将軍家は織田信長の十五代将軍義昭の京追放まで存続したかです。

 それは幕府創建の時の武士たちが、自分の領地を支配するための確証(オーソライズ)を源氏の名門足利家に求めたからです。足利家は源頼朝家がなくなった後、源氏一番の名門です。最も武家の棟梁にふさわしいと思いました。

 この考えは幕府の中で将軍と管領・守護との間で政権の主導権争いが起きようと、応仁の乱が起きようと更に戦国時代に突入しようと武士たちは一つの信仰のように持ち続けます。

 武士の統治、支配の根本は足利将軍家であると。

 

 武士が日本を統治する棟梁は源頼朝、次に北条氏、室町時代は足利氏です。これは武士たちが選んだのです(合戦で味方につく)

棟梁と武士のとの間は、最初は協力者、同盟者から君主と家来の関係になり、

室町時代も進むにつれて武士の棟梁は足利氏が絶対との観念が固定してしまいします。

これは鎌倉の北条政権もそうですし、江戸幕府の徳川政権もそうです。時代が下るにつれ政権の固定化の観念(どんなに揉めても政権のお家は代えない)が出てきます。たいして権限を持っていないのに足利家を外す、なくす政治体制など考えられなくなります。

別に不思議ではありません。

現在の我々も、長い歴史を背景に政治的に何も権限を持たない天皇を頂点に頂いており、ほとんどの日本人が普通のことと思っています。

 

天皇ほど歴史はありませんが、この足利家を追放して自ら政権を取るとの考えは当時普通ではありません。

この思想を打ち破ったのが織田信長なのです。これはもう当時革命的な行動です。

織田信長は足利義昭将軍を追放した後、将軍家に代わって天皇の保護を行います。足利将軍家の時代が終わったのです。室町幕府の崩壊です。足利家が武士の棟梁の地位を下ろされたのです。

信長が足利家に代わったのです。

武士の支配は形だけでも足利将軍家が必要との思いはいっぺんに消えました。

 

信長の後は豊臣秀吉、徳川家康と続きます。足利家の出番は全く考えられません。

武士の支配は足利家を頂く必要があるとの信仰は消えました。

そして室町時代と戦国の世は終わったのです。

 

鎌倉北条氏を滅亡させた後醍醐天皇と足利尊氏、足利政権を終わらせた織田信長、徳川政権を滅亡させた西郷隆盛や桂小五郎。

いずれも前政権は未だ権力とあるいは伝統ある権威を確保しており、当時の人々はまさかの出来事でした。

倒れる時はあっと言うまでした。そういう意味では革命です。

戦国時代足利将軍の権力は衰えていましたが、それでも大名たちは形の上で将軍家を上に頂くことが必要と思っていました。それがその当時の常識だったのです。

織田信長はそれまでの常識を打ち破った革命家と言えます。

 室町時代は終わりました(1573年)。一般的にはここで戦国時代は終わったと言います(豊臣政権の樹立時更に徳川幕府の成立まで戦国時代と言う人もいます)。

 足利氏とともに細川本家、三好氏、松永氏は滅亡しました。戦国時代の顛末です。

 江戸時代に熊本藩主になった細川氏は細川氏の庶流です。管領家や守護家の細川氏ではなく将軍の奉公衆(直臣)から信長、秀吉そして家康に仕えました。細川護熙元総理のお家です。 以上

2018年12月8日

梅 一声