戦国時代の時代区分の話


 戦国時代はいつからいつまでなのか。歴史愛好家も一般の人もみんなそれぞれ異なるイメージを持っています。

 そして具体的な区分の差は学界でも大分あるのです。どれ位あるかを具体的に話しましょう。皆さんのイメージとの差を思って下さい。

 

A.戦国時代の始期

 @1439(永享11年) 永享の乱

鎌倉公方足利持氏が足利将軍家足利義教に反抗したが、義教に味方する上杉憲実と幕府軍に敗退し自殺。

しかしその後、義教将軍が有力守護の赤松満祐に誘殺されたこともあり、関東は幕府の指令がだんだん及ばなくなっていき混乱状態が続いていくことになる。

 

 A1467年(応仁元年) 応仁の乱

八代義政将軍の時、幕府は将軍の()政、管領家の細川勝元、有力守護の山名宗全の実権争いの三つ巴の中で、ついに細川勝元・足利義政と山名宗全が激突し内乱となった。内乱は10年に及び、細川と義政の勝利の形で終戦となったが、以後幕府は求心力を無くし全国各地で内乱状態が続くことになる。

*銀閣寺で有名な将軍です。足利家将軍は一五代まで続きます。

 

 B1493年(明応2年) 明応の政変 

管領家の細川政元が十代将軍足利義材(よしき)を廃止、足利政知(堀越公方)の息子清晃(後に義高・義澄と改名)を擁立。

家臣の政元が主君の将軍を代えてしまう傍若無人の行為は下剋上の時代に入ったと指摘される。

 

*関東の混乱の中で、将軍義政が弟の政知を古河(こが)の足利成氏(古河(こが)公方)に対抗させるために関東に送り込む(長禄元年 1457年)。政知はその後伊豆の堀越を基盤としたので堀越公方(ほりごえくぼう)と称せられた。

 

 C1493年(明応2年) 北条早雲の伊豆進出

伊勢新九郎盛時(宗瑞・北条早雲)が伊豆の堀越の茶々丸(*堀越公方足利政知の息子)を襲い伊豆に基盤を築きその後関東に進出。(茶々丸は明応7年に自殺)

主家である堀越公方家を襲い地盤拡大の行為は下剋上であるとの認識

 

B.戦国時代の終焉

 @1568年(永禄11年) 織田信長上洛

足利15代将軍と共に上洛を果たし、近畿を平定する。

 

 A1573年(天正元年) 織田信長の足利義昭将軍の京都追放

15代将軍足利義昭と織田信長との間が不和となり、義昭は対抗するも敗退し、京を

追われる。室町幕府の滅亡、信長の京都政権確立

 

 B1590年(天正18年) 豊臣秀吉の全国統一

小田原の北条を討ち、更に奥羽を平定。

 

 C1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦い

徳川家康の勝利で家康の地盤の確立

 

 D1615年(元和元年) 豊臣家滅亡

大坂夏の陣で大阪城陥落し徳川家への対抗勢力はなくなる

 

 このように始期も終焉も説がいくつもあります。戦国時代で一番長くとると上記A@の1439年永享の乱からBD1615年豊臣家滅亡(大坂夏の陣)の期間で176年間となり、一番短くとるとABC1493年の明応の政変・北条氏の伊豆進出からB@1568年織田信長上洛の期間で75年となります。(終焉を1637年の島原の乱とする説もありますが、少数説と思います)

 これまで専門家の間で多いと思われますのはAA1467年の応仁の乱を始期として終焉をB@1568年織田信長の上洛でしょう。(101年間)

 しかし最近は始期を1493年の明応の政変とする学者増えてきています。この政変を典型的な下剋上と見ての考え方からです。

 それでは教科書はどうでしょう。「詳説 日本史B」(2005年 山川出版社)では戦国時代の項目はありません。(「戦国大名の登場」の項目となります)始期も終焉時期も明記されていません。

 

 さて皆さんのイメージはどうでしょうか。織田信長登場(16世紀中頃)とその前後毛利元就、武田謙信、上杉謙信、豊臣秀吉、それから徳川家康が活躍の時期のイメージの方が多いのではないでしょうか。学界ではそれより以前の15世紀から戦国時代としています。

 戦国時代は単独の時期ではなく、室町時代後半と更に織豊時代(安土桃山時代)に重なると見ています。

以上

2013年2月18日