戦国時代へのいきさつ


  戦国時代はいつからいつまでなのかは諸説があります。

大雑把に言って室町時代の後期と言うことなのですが、ここでは通説に準じて応仁の乱(1467年 応仁元年)から織田信長が15代将軍足利(よし)(あき)を京より追放(1573年 元正元年)までの106年の期間としておきましょう。 

 戦国時代の名は中国の春秋戦国時代から取ってきたものです。

中国の春秋戦国時代は紀元前770年からで、春秋時代が約300年間、戦国

時代がその後の約250年間位でしょうか。

 

 日本においては春秋時代を呼称しません。すべて戦国時代で100年位です。

織田信長が15代将軍足利義昭を京より追放するまで、京での政権樹立を目指した武士勢力はみな足利家を滅亡させる意志はありませんでした。

 足利将軍家を上に頂いて(奉じて)傀儡にして政権を主導しようとしていた

のです。

  

 この戦国時代を二つに分類しますと、一つは京を中心とする畿内(大和、山山城、河内、和泉、摂津の国)、その周辺での武士勢力の京都での政権争奪の戦いと、もう一つは地方での戦国大名間での領地拡大闘争となります。畿内の闘争も地方での闘争もいずれも下位者が上位者に立ち向かいます。これを下剋上と言います。

 

 京都を制圧し、中央政権を打ち建てることを目標とする武士勢力間の争いは応仁の乱後、京・畿内とその周辺で熾烈さを増します。

 畿内、近国では足利将軍家、細川管領家(かんれいけ)、三好長慶(ながよし)があい乱れて京都に政権を打ち建てようとします。(管領は後の家老のような職位です。.

 地方での戦国大名としては、駿河の今川、相模の北条、越後の上杉、越前の朝倉、甲斐の武田、中国の大内、毛利等が有名です。

 彼らは自分の領国の拡大を求めて互いに戦います。駿河の今川や甲斐の武田も京都を目指して進軍しましたが、途中で挫折しました。

 

戦国時代(室町時代後半)日本全体を統治できた政権はありません。京都や畿内の政権である足利将軍家も細川管領家も日本どころか畿内をもすべて統治出来ていません。三好長慶が戦国末期に数年畿内をほぼ制圧しただけで、日本のほとんどの地域を支配した政権は織田信長の登場まで待つことになます。

 

 それではどうして室町時代の後半に戦国時代となったのでしょうか。

 このいきさつを語るには、足利尊氏が立ち上げた政権(室町幕府)の根本と

応仁の乱勃発の由縁についての説明が必要です。

  

 足利尊氏は後醍醐天皇と共に鎌倉幕府の北条政権を滅亡させました。

 しかし後醍醐の目的は天皇の親裁(独裁)であったのに対し、尊氏の目的は

鎌倉幕府引き継いで足利幕府を開くことでした。後醍醐は認めません。 

両者は決裂しました。全国の武士勢力は何方につくか決断を迫られます。

 結局大多数の武士が尊氏につき尊氏が勝利し、室町幕府足利政権が発足する

のです。

 何故武士の勢力の大多数が尊氏についたかですが、それは足利家が今は無き

源頼朝家に次ぐ源氏の筆頭であることと、尊氏自身への魅力からです。 

彼は後醍醐からもらった関東8か国の領地を味方についた武士に配ります。又その後に勝って得た領地はほとんど味方の武士に配り、自身の直轄地は一国もありません。又戦う時はいつも先陣の後ろに控え戦う武士と共にあります。そして戦いに強いのです。

 多くの武士たちは尊氏のカリスマ性と気前の良さ、源氏の嫡流家の名門足利

家に自分たちの将来を託したのです。

 

 尊氏の統治体制即ち室町幕府の体制は、将軍と将軍に任命された守護によ

って統治されます。

 京の中央の政治運営は将軍と将軍を補佐する管領と京に常駐の畿内、近国、

中国、四国の守護によってなされます。管領には斯波、細川、畠山家の三家か

ら選ばれます。

 関東、東北の統治は鎌倉に本部を置き、鎌倉公方(くぼう)が関東管領(かんれい)(上杉家)と

その地の守護によって統治されます。

 鎌倉公方は尊氏の次男(もと)(うじ)が初代で、以降は基氏の家系が後を継ぎます。

 尊氏は中央で守護が将軍を支える政治機構を作り、地方の統治は守護に託し

ます。地方の在住の武士たち(国人・国衆)はだんだん守護の被官(家来)

になっていくとは言え、守護と地元の武士たちの主従関係は絶対の主従関係で

はありません。

 地元の武士たちは尊氏に、即ち足利将軍家に従てきたお陰で領主の地位にあ

ると思っています。

 守護が在地の武士に君臨する地位は足利将軍家の権威によって存立している

のです。

 このことが戦国時代に入っていく根本原因の一つであることは後段で述べま

す。

 そして三代将軍(よし)(みつ)です。 

  管領細川頼之と同じく管領斯波義将(よしまさ)とが対立する中でこれを調整して政治

手腕を発揮します。

 公家、寺社と武士たちのもめごとを収め、守護の反乱を抑え、宮中において

も天皇に次ぐ地位を確保し、足利将軍家が武士たちの中で他に追随を許さない

ぬきんじた位にあることを示しました。

 更に南朝と北朝を合体させることに成功させ、足利政権を盤石なんものにし

ました。

 守護も、その被官である地方の武士たちも武士の政権にとって足利将軍家の存在が絶対であるとの認識が一層強く、固定化されてきます。

 

 足利政権(足利幕府)は将軍と管領・守護との協同統治です。将軍の存在は絶対ですが、軍事力を握る守護の協力が必要です。

 両者の協力関係でもっています。

 しかし時代によって政治の主導権が将軍になったり管領・守護になったりします。

 3代義満将軍の時は義満に、4代義持将軍の時は守護たちに、6代義教(よしのり)の時は義教に政権の実権がありました。しかし8代義政の時は将軍と管領の細川勝元と有力守護山名宗全が三つ巴の主導権争いが長引きます

 これが応仁の乱となって行きます。

 この乱が10年に及ぶ戦いとなります。

 乱中に、乱の責任者である西軍の山名宗全も東軍の細川勝元も病死しますが、乱は未だ続き、東軍の義政将軍がやっと終戦としましたが、実質勝者も敗者もありません。

長引く戦いと勝敗のない決着で、将軍の権威は落ちました。

守護領国では将軍の権威落ちで、守護の権威も落ち、その結果守護代や守護被官、国人たちが領国の支配に動きます。

前述しましたように守護と地元武士の間はもともと深く結ばれた主従関係ではないのです。江戸時代の君臣関係道徳はありません。

守護たちはこれを抑えるため領国に戻って自ら領国の統治に専念せざるを得ません。

守護の京都離れで、足利将軍と守護が協同で政権を支えなければ成り立たない幕府は一層その権威を衰退させます。

守護は将軍の下知(命令)には従いません。足利将軍は全国統治の機能を実質失います。

 

 応仁の乱後、将軍は京都に残った細川管領家の協力の下、畿内政権として存立はしていましたが、9代嘉尚将軍、8代義政将軍が死没後、その後の将軍はその実権を失いました。

 細川管領家が一旦幕府の実権を奪いましたが、その後細川家の内紛と足利家の家督相続争い、そこに細川家の守護代、被官の自立で畿内政権争奪戦は混沌とします。

 最後に阿波細川家の重臣三好長慶が主家を追い出し、13代義輝将軍と直接結びついて実権を掌握します。

 この三好長慶が畿内政権から全国政権に打って出るかと言う所で、病没してしまいます。後は養子や三好一族そして長慶の家臣の松永久秀が政権を継ぎますが、義輝将軍と政権の主導権争いで、義輝将軍を謀殺します。

 後に彼らは義輝将軍の従弟の義昭を推戴します(14代将軍)。将軍を謀殺した彼等も足利将軍は必要なのです。

 

 義輝将軍の弟の義昭が承知しません。彼は越前の朝倉を頼り、更に尾張、美濃の戦国大名の織田信長に乗り換えて京に進軍し、三好三人衆(三好一族)を追い払い信長と共に京に入ります。

 信長に将軍にしてもらいますが、その後仲たがいして信長に京より追放されます。

 室町時代の武士勢力で足利家なしで政権を考えたのは信長が初めてです。

 これで室町幕府・足利将軍家の終焉で、戦国時代は終わったというのが通説です。   

                           以上

 

2018年10月28日

梅 一声