戦国大名の家筋を見ます(その2)


 戦国大名は自分の能力と武力で勝ち上がって一国もしくは半国の領地を支配

した侍たちです。

 後に登場する明智光秀、豊臣秀吉、加藤清正、小西行長等は含めません。彼

らは身一つで主君の織田信長や豊臣秀吉に仕えて、家来となって昇進して主君

に領主(城主)にしてもらったのです。

戦国大名は自分の武力と政略で主人や他を打ち負かして大名になった人たち

なのです。

 

 戦国大名になった人たちの家筋を前編では守護からと守護代からについて述

べました。

 守護からは武田家、佐竹家、今川家、六角家、大友家、島津家です。

 守護から戦国大名への移行は簡単ではありません。有力家臣の下剋上をはね

のけて自力で大名の地位を築いたのです。

 守護代からは上杉家、織田家、尼子家等です。

 主君の守護家を追い出して戦国大名になりました。

 

 ここではそれ以外で戦国大名になった代表的な人たちを2分類して述べるこ

とにします。 

 

1、国人・国衆(土豪)の家筋から戦国大名に

  鎌倉、室町時代からの土着の小領主で、守護の家臣や被官(外様の家来)

です。

 〇()(よし)

  四国阿波国の細川家の有力被官です。当主長慶(ながよし)は主家の細川を差し置き、

近畿 を実質支配したこともありましたが、家臣の松永久秀が勃興していく

中で衰退し、息子の代で信長によって滅亡します。

 

〇浅井家

元は近江国の北半分の守護京極家の家臣でしたが、京極家が衰退していく中

でこれを乗っ取り支配しました。

越前国の朝倉家と協同して信長に当りましたが、敗退し、滅亡しました。

 

〇毛利家

元は安芸国の地頭で、大内家の被官でしたが、地元の国衆(土豪)と連合し

て立ち上がり、戦国大名となり、主家の大内家を滅ぼし、中国地方を支配す

る戦国大大名になりました。

その後、豊臣秀吉に追従し、そして関ケ原で徳川家康に敗れ、領地は縮小し

ますが江戸時代は長門国(長州)の大名として明治を迎えます。

 

〇長曾我部家

土佐国の国衆で細川家衰退で勢力を拡大し、土佐一国の戦国大名となり、

その後秀吉に追従しましたが、関ケ原の戦いで徳川家康に敗退し、滅亡しま

す。

 

〇伊達家

鎌倉時代より、陸奥国の伊達郡の地頭(領主)で戦国時代には陸奥国の南部の5郡の戦国大名になります。

秀吉に追従し、仙台に移され、江戸時代には大大名になります。

 

 〇徳川家

  徳川家康は織田信長、豊臣秀吉に次いで天下をとり、徳川250年の世を

築いたお家です。

三河の松平郷の国衆(土豪)で松平を名乗り、近隣の土豪を統一して三河

国を支配しました。

家康のお父さんの代で駿河の今川家に征服され、家康は今川の人質になっ

ていましたが、織田信長の今川義元打倒で、今川が滅亡の方向になった時

にお家を再興して、信長、秀吉に仕えてついに天下を取りました。

 

この時代(信長が足利義昭と入洛した時点)での戦国大名は約90家位と考

えられますが、この家筋の大名がほとんどと思われます。

 

2、戦国大名に新規に召し抱えられて家来から自力で戦国大名に

上記で述べて来た人たちは守護、守護代、守護被官(国人、国衆)から戦国大名です。元々は大なり小なりの領主です。

しかし領地も持たず身一つで戦国大名に仕えて手練手管と力づくで戦国大名になった人たちもいます。

 

〇北条家

初代早雲は伊勢新九郎と言い、足利将軍家の家来でありましたが、駿河国

守護今川氏の家来に転身し、同家のお家騒動でうまく働きいくらか領地を

もらました。

その後伊豆国を支配していたその地の足利家当主(茶々丸)を追放して伊豆

国を支配しました。

その後相模国に進出し、二、三代で関東の主要地域を支配する戦国の大大名

になります。豊臣秀吉に滅ぼされます。

 

〇斎藤家

美濃のまむしの道三(どうさん)の名で知られています京都の坊主だった父親が美

濃国に入り、侍になって最初は西村を名乗ります。美濃の守護は土岐(とき)家です。

その後父親か道三か分かりませんが重臣たちの間をうまく立ち回り、守護

代斎藤家の跡目を継いで斎藤氏を名乗ります。そして道三は土岐家のお家

騒動に乗じて土岐家を乗っ取り美濃国の一国の大名になります。

道三は息子に殺され、後に信長が美濃を支配します。

 

〇松永家

久秀(弾正)は細川家の重臣三好長慶(ながよし)に取り入り、大和を支配し戦国

大名となります。出身は分からず、家系は分よくかりません。

13代将軍足利義輝を謀殺し、東大寺を焼いた人物として有名です。

信長に追従しますが、裏切って信長に殺されます。

 

戦国時代の終わりを織田信長の足利義昭将軍の京追放としましたので、

信長の家来の豊臣秀吉や明智光秀等そして秀吉の家来の加藤清正や福島正則等は触れていません。

これ等の人物は、信長、秀吉の下で恩賞として大名にしてもらったのであって、手練手管と力づくで主人から勝ち取って独立して大名になったのではありません。

上記のグループとは違います。

 

最後に、上記守護大名から戦国大名に移行した以外の戦国大名は主人と争って主人を滅亡させ、領地を奪いました。そこで即ち戦国時代を下剋上の世と言われる所以です。

 しかし彼らはめったに主人を直接手にをかけるようなやり方はしません。主人の勢力減退の中で領地から主人を追放とします。

 多くのやり方は、主家のお家騒動(後継ぎでの争乱)に便乗、もしくはお家騒動をつくり、お家を分裂させ、お家を衰退させ、実質政権を取り、更に主君を追放して自分が大名になるのです。

 

松永久秀の将軍足利義輝を謀殺、時代が下って明智光秀の織田信長謀殺は例外的と言えます。

 下剋上の戦国時代でも主人を殺して権力の座に就くことは皆避けたようです。

 久秀も光秀も他の勢力に殺され、お家は続きませんでした。

以上

 

2019年7月14日

 

梅 一声