清少納言と紫式部 


 

 清少納言は随筆「枕草子」、紫式部は小説「源氏物語」で知られる歴史上もっとも著名な女流作家です。

 著作は全部読み通していなくとも名前を知らない日本人はいないでしょう。

 清少納言は西暦966年生まれで、紫式部は970年生まれです。この二人は西暦1000年の前と後にわたる同時期に活動しています。平安時代中期の人です。後世二人はどのようなライバルだったのかうわさされて来ました。

 それでは二人の関係については昔も今も諸説紛々ではありますが、下記に諸説を一本にして要約してお話します。

 

 先ず清少納言についてです。

966年に清原元輔の娘として生まれました。父親は国司(現在の知事)を何カ国かを務め、最後は従五位下まで上った中級貴族でした。後撰和歌集(村上天皇の命で編纂された和歌集)の撰者となるような歌人で、インテリでした。

彼女は子供のころより父親に和歌、漢文などの教養を仕込まれました。もの覚えもよく、若いころから才能は貴族社会で評判でした。

981年に幼なじみの橘則光(陸奥守)と結婚し息子則長を生んだが直ぐに離婚。

992年に藤原信義(少納言)と再婚します。

この年、彼女の学才、教養の高さを聞いていた時の摂政藤原道隆が、彼の娘で一条天皇の中宮(正妻)であった定子(ていし)の女房に抜擢します。彼女の宮仕(みやづかい)が始まります。注 摂政―天皇が幼い時政治を代わって行う、天皇に次ぐ地位

清少納言の名前はこの時つけられました。「清」は父親の名字の清原から清を、少納言は夫の官職が少納言であったことからです。当時女性は宮仕(宮中)に上がる時に正式の名前がつけられます。だいたい親や夫の姓、名字、官職名や出身地名(例 丹後の局等)からつけました。清少納言の実名(幼名)は分かりません。

清少納言の役割は中宮の定子の教育・教養が担当です。

宮仕を始めてまもなく二度目の夫の信義は亡くなります。

 彼女は内裏(宮中、後宮)の生活に慣れ、定子にも可愛がられ、後宮での生活をエンジョイして暮らします。

 主人である中宮定子は時の政界で実力NO.1の摂政藤原道隆の娘で990年に15才で入内して中宮、時に一条天皇は11歳。二人は円満でその後一人のお皇子と二人の皇女をもうけます。

 しかし父親の道隆が995年亡くなり兄弟が失態をなし、実家の勢力が無くなり、代わって道隆の弟の道長の勢力が勝ってきます。そして道長は娘の彰子(しょうし 12才)を一条天皇の中宮として送り込みます(二人の正妻)。それでも定子(皇后)と一条天皇の間は良かったのですが、第二皇女を生んだ後の産後の肥立ちが悪く1000年に亡くなります。

主人を亡くしましたので清少納言は宮仕を引退しますが、宮中での生活を基にして随筆「枕草紙」を執筆するのです。

これは世間で秀作との評判となり、一躍有名女流作家となりました。この作品の記述方式は、紫式部の「源氏物語」や後世の吉田兼好の「徒然草」にも影響を与えたと言われています。

 引退後の生活は、定子が葬られた東山の鳥野辺の南側の月輪(現在の泉涌寺)

に住まい、定子を弔ったそうです。そして1025年に60才で亡くなりました。

 尚、定子も大変教養人で二人は大変気があったそうです。

 

 さて紫式部です。

 970年に藤原為時の娘として生まれました。父親は式部丞(式部省の役人)でした。学者で和歌とともに漢詩が得意の教養人でした。紫式部の教養は父親に仕込まれたのです。この時代の女性の教養は父親に仕込まれたのです。男子と違って学校はありません。清少納言も同じです。

 998年に山城守(現在の京都府の知事)藤原宣孝と結婚しました。女の子が生まれましたが、夫は1001年に亡くなりました。

 1005年に父親が藤原道長に憶えめでたかったこと、紫式部が既に教養人として有名であったことから、道長が娘で中宮(999年入内)の女房として採用します。

 名前の由来は、当時は紫式部ではなく、藤式部(とうしきぶ)と名乗っていたと言われています。「藤」は父親の姓の藤原の藤で式部は同じく父親の官職の式部丞の式部から取ったものです。「紫」は後世の人が彼女の作品「源氏物語」の登場人物紫の上(光源氏の妻の一人)の紫を当てはめたものです。

 女房の仕事は清少納言と同じく中宮(彰子)の教育、教養が担当です。

 こうして紫式部は宮仕を始めますが、「源氏物語」は既に書き始めており、宮仕をしながら1013年に完成させました。 「源氏物語」は一条天皇が愛読されました。紫式部は現在の新聞小説のように一回の執筆を一段落しか書きません。よって一条天皇は続きを読むためには毎日のように中宮彰子の御殿へ渡って来なければなりません。紫式部の書いた「源氏物語」の続きは中宮彰子の部屋に行かないと読めません。続き物はだれでも欠かさず読みたいですよね。

 この頃一条天皇は何人かのお妃がおりました。お妃たちは天皇に自分の部屋に何とかして来てもらいたいのです。

 中宮彰子は、紫式部の「源氏物語」で天皇のお越しを誘ったのです。大成功でした。二人の間には二人の皇子が生まれました。

 二人の皇子は後年天皇になりました。(後一条・後朱雀)そして藤原道長は外祖父として実権を握り、藤原氏の摂関政治を不動のものにしました。「源氏物語」は政治的にも大きな効能がありました。

 そして彼女は完成の年の1013年宮仕を止めて退出します。そして翌年亡くなります。

 それから紫式部が藤原道長の妾だったとの説がありますが、はっきりしません。多分デマしょう。

 

 ここで清少納言と紫式部との関係です。

 清少納言は1000年に宮中から退出しています。そして紫式部は1005年に宮仕を始めています。両者には宮中での接点はありません。そして宮中以外でも以前も以後も接触した機会がなかったと言われています。

 しかし後世二人は犬猿の仲と言われています。その真相は次の通りです。

 紫式部は「紫式部日記」を残しています。その日記の記述(1009年)の中で清少納言を辛辣に批判しています。

 内容を現代語訳したものを紹介します。(宮崎荘平全訳注 紫式部日記より)

 

「清少納言は、まことに得意顔もはなはだしい人です。あれほど賢ぶって、漢字を書きちらしていますが、その程度もよく見ると、まだまだ不足な点がたくさんあります。このように、人に格別にすぐれようとばかり思っている人は、やがてきっと見劣りがし、将来わるくなって行くばかりいくものですから・・・・・」

 

 清少納言の漢文の素養や風流心を空疎な贋物と極めつけます。

 紫式部は清少納言とは面識はありません。「枕草子」は読んだことは間違いありません。彼女自身のことは周りの人からの伝聞によるものです。

 一方、清少納言から紫式部の批評は伝っていません。両者のことは紫式部からのだけの批判です。清少納言は宮中でうまく振る舞った人で、紫式部は陰鬱な人で、式部はそのような人が嫌いな性質であったとしか言いようがありません。

 尚、清少納言は晩年落ちぶれて生活も困窮したとの説がありますが、これは紫式部の上記「紫式部日記」の嫌味の言葉から後世の人が作ったもので、これは現在否定されています。

 それは、清少納言の子(最初の結婚の時の子)橘則長は国司(知事)、娘の小馬命婦は上東門院彰子の女房、兄の清原爲成は雅楽頭(うたのかみ)であって、清少納言が食うにも困る境遇になったなどとはとても言えません。

以上

 

2014年5月3日

 

梅 一声