姓氏と名字の歴史


 

姓氏は「せいし」とも「しょうし」とも読みます。名字は“みょうじ”で苗字とも書きます。

 現在、姓氏は姓と氏を分けて使い、姓名(せいめい)氏名(しめい)と言いますが、同じ意味で使われています。名字(この字で統一します)姓と同じ意味で使います。

  例)  山田    太郎

    (姓・氏・名字) (名・名前)

 

 古代から江戸時代までこれらの呼称は意味が違いました。これをお話しながら

昔の人の名乗りを見てみます。

 先ず氏名です。昔は“うじな”と言いました。氏族ごとに氏名を持っていました。

 氏名のつけ方はその氏族の出身地から、職業に因んで又は天皇より頂いた賜氏の三つに分けられます。

 古代の有名な豪族の氏名をあげますと、出身地からは、葛城・蘇我(入鹿)・巨勢(こせ)平郡(へぐり)職業に因んでは中臣(なかとみ)(鎌足)(神事担当)・大伴(おおとも)(軍事担当)・

物部(ものべ)(軍事担当)・服部(はとりべ)(衣服担当)等、天皇からの賜氏は(たちばな)・藤原・(みなもと)(たいら)等となります。

 現在もこの氏名を名字(みょうじ)・姓(せい)とされているお家は飛鳥時代からの由緒正しい豪族の方となります。そうでない方もいます。ただ素晴らしいから名前を拝借しただけの方です。まあこの方々の方が多いでしょう。

 

 次に姓です。古代飛鳥時代は“かばね”と言いました。(姓名(かばねめい)

 最初は氏族の長を呼ぶときの敬称でした。例えば「(たける)」・「(わけ)」・「(きみ)で後世貴人言われた「お殿様」のようなものです。

 その後同時代に、朝廷で尊卑の序列化の名称に使われ始めました。

 大臣(おおおみ)()())、大連(おおむなじ)物部(ものべ))、(おみ)葛城(かつらぎ)平郡(へぐり)巨勢(こせ))、(むらじ)大伴(おおとも)中臣(なかとみ)

(きみ)(わけ)(あたい)(みやつこ)等々が作られました。

 例) ()()  大臣(おおおみ)  蝦夷(えみし)

   (氏名(うじな)) ((かばね)) (実名)

 

 その後あまりに姓の種類が多くなりすぎて天武天皇の時(684年)に八姓に整理されましたが、その八姓も平安時代まで残ったのは朝臣(あそみ)だけになりました。公家はみんな名前の後にこの朝臣の姓(称号)をつけるようになりました。これではただ天皇の家臣の意味しかありません。

 何故そうなったかですが、この時代に律令制がしかれ、官位(一から十位)と官職(左大臣、右大臣、大納言、国司等々)が整備され、これまで家格として天皇が賜姓されていた姓が廃止されたことによります。朝廷での序列は家格でなく個人への実力評価となったのです。(しかし貴族制ですので誰でも上位の官職にはつけませんが)

 ここから氏名(うじめい)は姓(かばね)と混同され、姓氏(せいし・しょうじ)、姓(せい)、氏名(しめい)は同じ意味で使われるようになりました。

 この混同が今でも上述のように姓、氏名、姓氏と名字は同じ意味で使われているのです。元々は氏名と姓と違ったのです。

 

 ここで名字(みょうじ)です。今日は氏名、姓と同じように使われていますが、江戸時代までは氏名(姓氏)と別に「名字」を持っていました(江戸時代は苗字と表記し、同じ意味です。今日も同じです)。

 平安時代以降氏名より名字が普及していきます。

 京都の公家社会においては例えば藤原氏の場合、勢力が拡大し、活躍する一族が増え藤原の氏名ではどこの筋の藤原か区別しにくくなります。そこで住んでいる地区名を氏名の冠りにのせて、綾小路の藤原、姉小路の藤原、九条の藤原、一条の藤原とかを称号とし、これが名字(みょうじ)と言われるようになります。

 例) 九条  右大臣  藤原  兼実

  (名字)  (官職)  (姓氏名) (実名)

 

 当時の人は九条の右大臣で兼実と分かります。名字が普及していきます。

 

 それでは古代もともとあった氏族を示す氏名(うじめい)はどうなって行ったかです。

 平安時代の初めの調査では1182あった氏名は氏族の没落で減って行きます(没落の有名な氏族は蘇我、葛城、物部、平郡等)。

 代わって天皇より賜氏(姓)された氏族の藤原、(たいら)(みなもと)が平安時代の公卿のほとんどを占めます。(公卿は摂政、関白、大臣、大納言、参議で朝廷の最高の議政官です)

 中でも藤原氏の勢力は圧倒的な強さです。

 藤原氏は氏名を元は中臣と称していましたが、鎌足が天智天皇よりその功績により藤原の氏(姓)を賜ったのです。

 この頃は氏も姓も同じ意味で使うようになっています(姓氏とも言います)。

 源は平安時代の初め、嵯峨天皇が御子50人の内男女32人を源の氏(姓)を与えて臣籍降下させました。

 皇室経済の維持のためですが、以後仁明、文徳、宇多、陽成、醍醐、村上天皇が後継以外の皇子に臣籍降下させ、源氏(姓)を名乗らせます。

 嵯峨源氏(嵯峨天皇の筋の源氏)の筋や、村上源氏の筋が公卿として活躍し、

武家では清和源氏の筋(頼朝へ続く)が活躍します。

 平は桓武天皇の皇子葛原親王が自分の御子を平氏(姓)にしたのが最初です。

子孫の将門や清盛の活躍が有名です。

 

 平安時代も氏長者が一族を仕切る氏族制があり氏名も続きます。

 しかし上記藤原氏、平氏、源氏の三氏(姓)が圧倒的な勢力です。

 その中で地方の武士たちの姓氏と名字です。

 平安時代後期から地方の武士が勃興してきました。源氏、平氏や藤原氏の本流や庶流の子孫はもちろんそれぞれ源、平、藤原を姓氏として名乗ります。

 それ以外の武士たちは自分たちの先祖の姓氏を名乗ったか又は姓氏が分からない人々でしょう。しかしその後みんな源氏か平氏か藤原を名乗りだします。

 そうなると武士のみんなが源・平・藤原では実名(個人名)があるとは言えどこの誰か判別がつきずらくなります。

 そこで多くの武士は自分の所領の地の名前を名字にしました。これを冠して名乗りとしました。

 例)

    相馬(そうまの)  小次郎(こじろう)  (たいらの)  将門(まさかど)

    (名字) (次男の意味)(姓氏) (実名)

   相馬は地元の地名です(茨木県)。名字の地と言います。

 

 所領の地名でなく藤原氏に庶流を表して藤をとって工藤(木工頭の工)、加藤(加賀守の加)、佐藤(兵衛佐の佐)を名字とする武士もあります。

 今日もこの名は多いですね。佐藤は名字の一番か二番かに多いようです。

 名乗っている人ほとんどは藤原氏と関係ないでしょう。

 

 平安時代から鎌倉時代、室町時代戦国時代と武士の名字の傾向は同じです。

 

 江戸時代に入りますと名字を苗字と表示するようになりました。表示だけの問題です。どうして変えたのかはっきり分かりません。

 それから豊臣秀吉は豊臣の姓と羽柴の名字を、徳川家康は松平の名字を重臣に下賜しました。秀吉は宇喜多秀家、前田利家、池田輝政、徳川家康等に豊臣姓を名乗らせました。家康は島津、藤堂、毛利、伊達等に松平の名字を名乗ることを許しました。

 

 徳川幕府は公家、武士以外の庶民には原則苗字を名乗らせませんでした。苗字を名乗ることが出来た人は苗字帯刀を許された庄屋、名主、郷士、本陣の主人等の上流階級の人でした。

 しかし実際には苗字を持っていたものが多かったそうです。公には使わなかったようですが。

 苗字のかわりに屋号(伊勢屋、加賀屋、成田屋等)は許されます。まあこれも苗字とも言えますね。

 

 明治に入りまして国民はすべて苗字を持つことが義務付けられます。

 戦後は結婚したら夫婦どちらかの名字を名乗る。離婚したら苗字は旧姓に戻ることも可となります。

 現在夫婦別姓論が出ています。

 

  調査によって差があるのですが、だいたい現在名字の数は30万言われています。中国が5千、韓国が250だそうです。90パーセントが地名を由来としています。

 どの調査でも多数ランキングの上位は佐藤、鈴木、田中、高橋、山本、渡辺、小林、伊藤、加藤、山田です。

 佐藤、伊藤、加藤は地名ではなく藤原氏の藤をとって藤原氏ゆかりの名字です。

 個人名(名前、下の名前)についても歴史がありますが、いずれ機会を得て

お話したいと思います。

以上

2019年9月15日

 

梅 一声