三姉妹―次女お初物語(前編)


 

 日本史上で三姉妹と言えば浅井三姉妹です。父親は浅井長政で母親はお市です。長女は茶々(ちゃちゃ)、次女は初(はつ)、三女は江(ごう、小督、お江与とも)の三人です。“お”をつけて丁寧にお茶々、お初、お江と呼びますが、ここでは“お”なしで進めます。

 長政は近江国(滋賀県)の琵琶湖の東側の北半分を領地にする戦国大名でした。

 三姉妹の母親のお市は織田信長の妹で、織田家と浅井家の同盟のしるしとしてお市が長政に嫁ぎました。

 しかるに長政は信長を裏切ったため戦となり、長政は信長に敗れ、小谷(おだに)(じょう)で自刃します。浅井家は滅亡です。

 お市と三姉妹は焼け落ちる小谷城から脱出し、信長に引き取られます。

 

 信長は弟の(のぶ)(かね)(三姉妹の叔父)に親子の面倒を見させます。

 ところが信長が明智光秀によって京都本能寺で倒され、その後豊臣秀吉が光秀を倒します。更にその後の政権闘争で秀吉(織田家で最大軍団)と柴田勝家(織田家筆頭家老)が争います。

 勝家を推す一派は勢力の拡大を図るため、お市に勝家に嫁いで欲しいと頼みます。

 お市は勝家に嫁ぐことを承諾し、三姉妹はお市とともに越前福井の北ノ庄の

城に入ります。

 しかし勝家は秀吉に敗れ、北ノ庄城で自刃します。お市は二度の敗戦落城で気落ちしたのでしょう。勝家と共に自殺します。

 夫婦は三姉妹を秀吉にのもとに落とし保護を求めました。

 秀吉は承諾しました。手元において育てることにしました。血筋は良いし、今後の政略の駒(政略結婚)として使えるとの判断でしょう。

 茶々15歳、初14歳、江11歳の時です。

 

 その後、この三姉妹は、長女茶々(その後淀)は秀吉の側室となり、後継ぎ秀頼を生み、大坂城で君臨し、豊臣家を滅亡させた人です。三女江は徳川二代将軍の正室として三代将軍家光を生んだ人として有名で、NHKの大河ドラマにも主役、脇役で何度も出て来ますので、なじみ深い二人です。

 ここでは二女の(はつ)を中心に波乱にとんだその一生を語りたいと思います。

 秀吉に保護された三姉妹の内、先ず三女(ごう)が佐治一成と結婚させられます。

 佐治氏は知多半島(愛知県)の水軍大名です。一成はそのころは秀吉と仲が良かった織田信雄(信長の次男)の配下で、信雄と秀吉の同盟強化のため江が秀吉の養女として嫁がされたのです。未だ12歳でした。

 ところが直ぐに一成が徳川家康に味方したとして、秀吉は怒り、江は秀吉によって離縁されて戻されます。

 そして次に羽柴秀勝と結婚させられます。秀勝は秀吉の姉の子で秀次(関白)の弟です。秀吉の家筋に近いので大大名になれる人でした。秀吉としては先の結婚の失敗を補おうとしたのでしょう。しかし秀勝は、朝鮮の役に出陣し、戦病死してしまいます。 

 女子が一人生まれていました。

 後家になった江に秀吉は三度目の結婚をさせます。徳川家康の三男で後の二代将軍の秀忠に嫁がせます。

 自分の娘(養女)として徳川家に送り込み、関係強化を図ります。家康も織田家の血筋を引く名門出身の江に異存はありませんでした。

 江23歳、秀忠の6歳上で、秀忠は初婚で姉さん女房でした。これによるものかどうか分かりませんが、生涯かかあ天下であったと言われています。

 江は二男、五女を生みます。

 長女千姫は豊臣秀頼(茶々と秀吉の子)に嫁ぎ、五女和子は入内し、興子(おきこ)を生み、興子は後年明正天皇。長男は三代将軍秀忠です。

 徳川家で確固たる地位を築きます。

 

 次に長女の茶々です。

 秀吉にみそめられ側室となり、男の子を生みますが夭折、さらに男の子を生み、その子が秀吉の跡取りの秀頼です。

 秀吉亡き後、豊臣家の実質の支配者になります。

 

 さて二女の初です。

 父親の小山城落城から脱出した時は数えで4歳ですから覚えていなと思われます。次に義理の父柴田勝家の北ノ庄城が落城の時が14歳です。

 その後秀吉に保護されました。姉の茶々も妹の江も秀吉の意図で嫁ぎ先が決まりましたが、初はそうでもないようです。

 嫁ぎ先の京極高次は、室町幕府の近江国佐々木氏の流れの京極氏で、初の生家の浅井氏より名家です。

 しかし室町時代晩年は浅井氏の支配下になり、高次も本能寺の変後は明智光秀につきさらに柴田勝家について逼塞状態でした。

 姉の龍子(松の丸殿)が秀吉の側室の筆頭(茶々の登場前)であったところから、秀吉に頼み召し抱えられ、高次は初と結婚の時は1万石位の大名でした。

 高次と龍子は弟・姉で、初とは従弟になります。初の父親長政と高次・龍子の母親が兄・妹です。

 龍子は初の利発さを知って秀吉に頼んで弟の高次に貰い受けたのです。

 龍子は実家の京極家の御家再興を思っていたのです。

 結婚は姉や妹の相手とは違い、政略的でなく相手も凡庸な人でした。

 その後高次は秀吉の小田原の北条討伐や九州攻めでいくらか手柄もあり、龍子の弟であり、秀吉は初に見合う禄高を考慮して高次に近江国大津城で6万石を与えました。

 更に秀吉は晩年、初には別に2000石を与えます。

 秀吉は伏見で彼女を秘書的に使っていたのです。自分が没後も茶々と龍子の面倒を見るように頼んだようです。彼女の政治的な手腕を見抜いていたのでしょう。又姉と妹が秀吉の側室、秀忠の正室からみて不憫と思って彼女だけに与えたのかもしれません。

 

 ここで秀吉が病死します。

 徳川家康と石田三成の対決となります。大津城の京極高次と初、龍子は戦争に巻き込まれます。大津城(琵琶湖の南側)は京・大坂への重要拠点です。

 高次は最初は石田方に味方していましたが、関ヶ原合戦が始まる直前に徳川方に変わります。

 機を見て徳川方につくことは最初から目論んでいたと言われています。初が

家康と通じており、夫高次を説得したのです。

大津城は石田方に激しく攻撃され落城寸前にまで追い込まれます。

 ここで石田方と見られていた茶々が石田方と仲介して大津城開城を条件にして、高次(高野山へ)、初と龍子を救出します。茶々としては妹を救い出したかったのです。

 この大津城を攻めたことで石田方の1,5万人がここに張りつき関ケ原の戦闘に参戦出来ませんでした。

 家康は高次が勝たなかったが頑張ったことへの褒賞として戦後、若狭国(福井県)小浜に8,5万石の領地を与えました(大津では6万石)。

 

 初は茶々の相談相手として小浜と大坂とをお往復します。

 茶々は秀頼が成人の暁には家康は政権を豊臣家に返してくれるものと思っていました。

 ところがその後家康は征夷大将軍に就任します。これはおかしいと茶々が思た所で家康は秀忠の娘千姫をを秀頼の正室に送りなだめます。

 その2年後に家康は秀忠に将軍職を譲り、政権は豊臣家でなく徳川家世襲を表明します。

 秀忠の将軍就任祝いを理由に家康は秀頼の上洛を求めますが、茶々は拒否します。これは秀頼に秀忠の臣下になれとの家康の意志表示ですから。

 しかしその後徳川体制はいよいよ確立されて行きます。

 秀頼19歳の時に家康は6年ぶりに上洛します。その時に秀頼の上洛を求めます。臣下の礼を取らせることが目的と、どのように成長したかを見るためです。

 女の園で軟弱に育っていたと思われた秀頼は反して立派に育っていました。家康に上席を勧め、立ち振る舞いも立派で家康は秀頼に脅威を感じました。

 

 この後家康に臣従しながらも豊臣家の安泰を図っていた加藤清正、浅野長政、幸長親子が病没します。

 彼らは関ケ原の戦いでの功労者です。家康も一目置いていました。

 彼らの死は家康にとっては対豊臣家対策の重しが取れました。

 

 豊臣家は徳川の家臣ではありません。徳川政権下で特別の存在です。徳川政権は絶対安泰と言えません。

 政権の絶対的安泰のためには、秀頼を臣従させ豊臣家を徳川の家臣化することです。そして政権を取り戻す気を無くさせることです。

 

 その機をねらっていました。

 それが方広寺の鐘名(しょうめい)事件をでっち上げるのです。

 初の活躍はこれからですがここで前編とします。

以上

 2022年5月12日

梅 一声