三姉妹―次女お初物語(後編)


 

関ケ原の合戦後初は、姉茶々の相談役として豊臣家の無難な生末を画策し、

徳川家康と外交折衝をしていたと思われます。

 豊臣家は結局滅亡で外交折衝は失敗ですが、初は茶々よりも家康からも信頼がありました。

 両者が大坂の陣で戦った折の講和折衝の大阪方の代表は初であり、家康も初を希望しました。

 

 前編の続きです。

 成長した秀頼と京で面談した後、家康は豊臣家の存続を最終的にどうしようと考えていたのか、一大名として存続を認めるのか豊臣家を滅亡させる腹だったのかそれは分かりません。

 

 ただ秀頼親子をそのまま大坂城に置くことは認めません。

 そこで難癖をつけます。それが(ほう)広寺(こうじ)鐘名(しょうめい)事件です。

 家康は秀吉ゆかりの寺である方広寺再建を秀頼に求め、建造竣工となった時、鋳造された鐘の銘の文字の中に「康」という文字が打たれていることがわかり、この文言は国と安との2文字で家康を分断したもので家康滅亡を呪っているとして、言いがかりをつけます。

 落とし前をつけろということですね。

 大坂から家老の片桐且元が弁明のため駿府の家康の元にやって来ましたが、家康は会わず、家臣の本田正純が応対しました。

 家康の条件は

 〇秀頼の江戸への参勤

 〇茶々が人質として江戸に住む

 〇秀頼は大坂城を退去する。国替え

 この三条件の内一つを選べと言うものでした。

 

 一方、茶々は且元とは別に茶々の一番の側近大蔵卿局(茶々の乳母、秀頼の一番の側近大野治長の母)を家康に派遣します。家康は大蔵卿局に「何も心配することない」といたわります。

 

 大坂に戻った二人と茶々・秀頼の側近たちは両者の報告の余りにも違いに驚き、そして茶々は大蔵卿局の報告をとり、側近は且元を裏切り者と糾弾します。  

且元は身の危険を感じて、大阪城を出て領地の茨木に引っ込みます。

 且元の後には大野(はる)(なが)(大蔵卿局の子)が家老に就きます。

 しかし且元の報告が家康の本音だったことは直ぐに分かります。

 ただ、茶々はどの条件も飲みません。

 

 家康と茶々・秀頼は戦闘状態に入ります。

 豊臣方は浪人を招集して10万の兵を集めます。浪人の中に関ケ原の戦いで石田方について取り潰された真田幸村(信繁)などの武将がいます。

 しかし現役の大名はいません。豊臣恩顧の現役の大名すべてが徳川につきました。

 徳川方は総勢20万の兵で大坂城を攻めます。

 大坂冬の陣です。

 11月18日戦闘開始です(当時は陰暦で10~12月が冬です)。

 最初の戦場は大坂城の南側の河内平野でしたが、多勢に無勢で豊臣方は大坂城に立て籠もって戦うことになります。

 真田勢が大坂城の南側の真田丸で奮闘しますが、徳川勢が大筒200門で城の御殿を攻撃し、侍女たちに死傷者がでます。徳川勢が穴を掘って地下から進入するとのうわさも聞きます。

 家康からの和議の申し出に乗ります。

 和議交渉は12月18・19で20日に整います。

 この交渉は歴史上めずらしく交渉団トップは両者とも女性です。

 豊臣方は初(夫亡き後は常高院)で、徳川方は()茶局(ちゃのつぼね)(家康側室筆頭で秘書室長的存在)です。初は家康の指名でもあります。会談場所は京極忠高の陣所です。忠高は初の夫高次と側室との子ですが、初が養育責任者として育てた若狭藩の二代目藩主です。関ケ原合戦以来京極家は徳川方です。

 初は姉の茶々の相談役でもあり、両者から信頼されていました。

 和議は、

 〇大坂城は本丸だけ残し、二の丸、三の丸は破壊する(堀も埋める)

 〇淀殿(茶々)を人質として江戸に取ることはしない

 〇大野治長と織田有楽斎の二人からはそれぞれ人質を出す(治長は息子、

有楽斎は本人)

 12月20日豊臣側は初(常高院)、茶々の側近の二位局(にいつぼね)饗場局(あえばのつぼね)代表で家康本陣で誓書を受け取り、22日に阿茶局が大坂城で秀頼から誓書を受け取り和議が成立しました。

 要するに大坂城は裸城となり、城としての機能は無くなりました。

 

 こうなれば家康は茶々・秀頼に更なる注文を出せます。

 「秀頼は大坂城を出て大和か伊勢へ転封するか、又は浪人を放逐せよ。」

 

 豊臣側から「応じられないと」と回答。

 

 両者戦闘準備に入ります。

 豊臣側は浪人を新規採用します。

 徳川側は大名に召集をかけます。家康は駿府から大坂へ向かいます。

 

 初と大蔵卿局は名古屋で家康と面談するも交渉は決裂。

 更に京の二条城で初と二位局に対し家康より「秀頼の国替えか、浪人放逐かを選べ」と最後通牒

 

 豊臣方は黙殺して、戦闘開始になります。

 初は茶々を説得したでしょうが、やけくそになった浪人大将たちに囲まれ、茶々も秀頼も戦闘を覚悟したのです。

 大坂夏の陣の開戦です(当時は陰暦で夏は4~6月です)。短期戦でした。軍勢は豊臣側10万人、徳川側20万人と言われています。もう大坂城は裸城で防禦の機能はありません。

 4月26日から大坂城の南側の河内平野で戦闘開始で豊臣側は真田幸村や後藤又兵衛などの勇将が戦死し、5月7日には本丸を包囲されました。

 淀、秀頼、大野治長ら側近の臣や侍女が本丸千畳敷から山里曲輪の糒庫(ほしいくら)に移りました。21名になっていました

 治長は千姫を落とし、秀頼と茶々の助命嘆願をしました。

 初は、茶々と秀頼に暇乞いをして、大阪城を脱出することにします。

 初の侍女と奉公人(侍ではない)7~8人でしょう。茶々の侍女などが加わります。初はおんぶされています。城内は徳川軍がたむろしています。

 兵から誰何されます。「常高院(初)である。家康公の元に参る」と答えると一行を城外へ通してくれました。

 徳川側は一兵卒に至るまで常高院が家康と茶々・秀頼の仲介の労を取ってきた人であることを知っていました。

家康にとって重要人物であり、徳川軍京極忠高の母堂であることはみんな知っていました。

ここの描写は初の一行に従って脱出した茶々の侍女きくが、後世語ったものを物語にした本があります(おきく物語)。

茶々、秀頼外近臣は翌日自殺しました。

家康は助命嘆願を認めませんでした。

 

その後初は江戸で暮らします。

妹江とも会ったでしょう。

江が死に、初も寛永10年(1633)8月27日64歳で亡くなります。

大坂夏の陣より18年後でした。

遺書を残しています。

初には初に絶対的につくし護衛した7人の侍女がおり、自分の死後その7人の行く末について忠高(跡取り)に処遇を指示しています。

初は大坂城内でも使者としても暗殺される危険がいつもありました。侍女たちはいつも懐剣を握りしめてつき従ったそうです。

京極家は夫の姉龍子と初が実質再興させたお家です。このことは二代目藩主の忠高(側室の子)も良く分かっています。

初は遺言により若狭の常高寺に葬られました。侍女7人の墓が彼女を守るように一緒にあります。

姉(茶々)や、妹(江)と違い、初には子が出来ませんでした。

茶々も家康も引かず、成功しませんでしたが、仲介、斡旋の労を取る仕事をしたことは当時の名だたる大名、武将と遜色ない歴史上重要人物と言えるでしょう。

 家康からも茶々からも信頼されていました。

 以上

 2022年5月12日

 

梅 一声