鎖国前史―通交・通商


 

 

 今回は日本の異国(外国)との通交と通商の歴史を見てみたいと思います。

 通交とは今で言う外交で、通商は交易、今で言う貿易のことです。ここでは昔風に通交、通商と言いましょう。

 日本が倭と言われていたころから大陸の中国や朝鮮半島と交際がありました。

紀元前後の中国の前漢、後漢時代から通交がありました。更に紀元2~3世紀のころの倭王卑弥呼は魏と通交がありました。

 

 朝鮮半島とは半島の南部の一部を占領して、半島の百済、新羅、高句麗の政争に巻き込まれていました。

 文化文明は中国より直に、又は朝鮮半島を経由して伝わりました。米作り、建築、蚕食、文字(漢字)、仏教、儒教等々今日の我々の生活、文化の基盤を教わりました。

 中国との通交は前漢以来室町時代まで冊封(さくほう)の関係です。冊封とは中国の皇帝と臣下の関係を結ぶことです。日本の政権、大和朝廷から足利氏まで政権樹立のため中国に軍事的な支援を得たことはありません。しかしこの関係を結ばないと通交してもらえません。

 冊封を受けたら中国に朝貢します(朝貢使)。使節が船1~2隻の貢物を持って中国皇帝に臣下の挨拶をします。皇帝はお返しとして貢物の数倍の価値の物を下げ渡しします。

 これを朝貢貿易と言っています。

 

 卑弥呼も朝貢使を魏に派遣します。銅鏡や美術、金細工など高価なものをもらったでしょう。そして「親魏倭王」の名称をもらいます。貢物の筆頭は(せい)(こう)です(奴隷として献上の日本人です)。

 その後飛鳥時代の遣隋使、奈良時代と平安時代初めまでの遣唐使と朝貢使派遣が続きます。

 日本からの貢物は真珠、翡翠、水銀ぐらいでしょうか、唐からは絹織物、金属工芸品、陶磁器や仏教関係等の書籍でしょう。

 もらいの方が圧倒的に多かったのです。

 しかし唐の内乱状態で派遣の危険性から平安時代に入って中止となりました(遣唐使候補の管原道真の提案で中止)。

 平安時代末期平清盛が日宋貿易に熱心でした。遣唐使廃止以来の通商の再開です。

 遣唐使の朝貢貿易は官貿易ですが、廃止後も民間での私貿易がほそぼそとありました。清盛はこの延長戦で活発に日宋貿易を行いました。宋とは正式な通交はありませんでした。

 宋からの輸入品は宋銭、香料、絹織物、陶磁器等、仏教等の書籍で輸出品は金、水銀、硫黄、蒔絵、日本刀等です。

 鎌倉時代に入って幕府も宋が蒙古に倒されるまで通商を続けます。

 

 室町時代になりますと、足利義満が日明貿易に熱心です。

 明から冊封を受けないと通商はしないと言われます。義満は貿易で利益を受けたいので、明の皇帝の臣下の礼をとる冊封を受諾します。

 日明貿易は官貿易です。明に許される船数だけが交易できます。勘合と言います。一種の朝貢貿易です。日本側(足利家)には多大な儲けが出ました。

 屈辱的な外交だとして息子の義持は日明貿易に消極的でしたが、その後室町幕府は足利将軍、細川管領家、大内氏が勘合貿易を引き継ぎ利益を得ます。

 しかし16世紀中頃明側は大幅な赤字の勘合貿易に嫌気がさし貿易停止となります。

 後は日明貿易は私貿易となり、そこに倭寇の海賊行為で混乱が続きます。

 倭寇は貿易者であり、海賊でもあります。

 

 その頃です。

 ポルトガル人の船が種子島に漂着したのです。天文12年(1543年)です。ここから日本はヨーロッパとの付き合いが始まったのです。

 日本はそれまで付き合っている世界は中国と朝鮮半島の国々だけで、インドのことはお釈迦様がお生まれになった国と知っていましたが、だれも行ったことがない国でした。当時は天竺と言っていました。

 だれもヨーロッパのことなど関心ありませんでした。

 ヨーロッパ人は日本のことを知っていました。13世紀にマルコポーロが著わした「東方見聞録」によってです。黄金の国ジパングです。

 しかしヨーロッパも遠く離れた日本のことは興味がなかったのでしょう。誰も来ませんでした。

 それから年月が流れ、15世紀になり大航海時代が始まります。ポルトガル、スペインが開拓者です。

 地中海交易に乗り遅れたポルトガル(バスコ・ダ・ガマの船団)はアフリカの南端喜望峰を経由してインドのカリカッタに到着します(1498年)。その後

インドとの商権を確保していたアラブ人(イスラム教徒)に勝ち、アラビア海の制海権を得ます。

 その後インドから東南アジアに進出し、マラッカ(マレイ半島)、マカオ(中国の広州の南)に拠点を作りインド、東南アジア、中国と交易し多大な利益を得ます。

 ヨーロッパからレアル金貨、オリーブ油、葡萄酒を持ち込み、香辛料、生糸、などを買い付けヨーロッパでさばいていました。

 ポルトガルが中国の明からマカオを租借地として手に入れた(1557年)事が日本への渡来を可能にしました。

 種子島へ漂着と言っていますが、船はマカオから中国人を水先案内人として乗せており、九州のどこかの港に着くことを目的にしていたのです。

 たまたま種子島に着いてしまったのです。

 

 このポルトガル人来航でもたらされた鉄砲は、時は戦国時代で兵器として抜群の人気となりで需要が沸騰、ついには日本でも製造されるようになります。

 これ以降ポルトガルと九州の大名と通商が始められ、ポルトガルよりはキリスト教布教のため、カソリック(旧教)イエズス会のフランシスコザビエルが

来日。以後順次パードレ(司祭)、イルマン(宣教師)が来日し、永禄12年(1569)に織田信長の免許状を得たこともあり、九州を中心に大名にも一般大衆にも急速に信徒(キリシタン)を増やしました。

 天正3年(1579)信徒は日本人で10万人と言われていました。

 初期の輸入は鉄砲、火薬が主で、輸出(代金)は金、銀でしたが、鉄砲を国内で製造できるようになりますと、火薬の原料の硝石と弾の鉛の輸入となります。(火薬は硝石、硫黄、木炭の混合物、日本では硝石は産出しない)

 そして更に輸入品としての最大のものに生糸となります。日本でも生糸は生産しますが、中国産の生糸は最高品質なのです。

 日本の港は九州を中心に薩摩の坊津、豊後の府内、肥前の平戸、五島、それに長崎等です。

 輸入品の生産地は中国です。ポルトガル船は自国の品ではなく中国製品で商売していたのです。いわゆる中継ぎ貿易です。

 明と日本との直接通商は16世紀中頃に勘合貿易が途絶え、倭寇が活動するようになって衰退していたのをその隙をついでポルトガル船が躍動してきたのです。

 明ともその後民間貿易で復興してきます・

 

 ポルトガルとの付き合いは通商やキリスト教の布教だけではありません。

 ルネサンスを経験してきたヨーロッパの科学技術を輸入出来たことが大きいでしょう。

 鉄砲もそうですが、大洋航海用の船舶、羅針盤、地球儀、時計、進んだ医療を知りました。

 信長も地球が丸いことを初めて知りました。

 スペインはアメリカを経由して太平洋を渡りフィリッピンのマニラに着き、そこに基地を作りました。日本進出はポルトガルより遅れました。日本との取引のメインはポルトガルです。

 

 織田信長とポルトガル、スペインとは友好関係が続いていました。

 大友宗麟の近親者による少年使節団のローマ派遣を認めます。

 ところが天正10年(1582)に織田信長が明智光秀に討たれ、その後は豊臣秀吉が天下をおさめます。

 秀吉は当初は信長の路線を引き継いでキリスト教布教を認めていたのですが、

天正15年(1587)突如ポルトガル人、スペイン人の伴天連(司祭・神父)追放令を発します。

 表向きの理由は、日本は神国でキリシタンは邪教。彼らは仏法を破壊する。

 命令として、20日以内に伴天連は帰国せよ。キリスト教信徒の大名、侍は公儀の許可を得るように。大名、侍は領内の百姓を無理に信仰に引きずり込んではいけない。

 これはキリスト教の禁止の令ではありません。仏法を妨げないキリシタンの入国は認められていました。

 又、貿易は従来通り行って良いのです。

 

 何故秀吉は、このお触れを出したのでしょう。

 きっかけはキリシタン大名である大村純忠が自領長崎をイエズス会に寄進してしまったことです。長崎を領土として与えたのです。年貢、司法、行政権をです。

 これは日本領土を外国に与えたことになります。秀吉は驚いたでしょう。直ぐに撤回させ、長崎を秀吉の直轄領にしました。

 秀吉の本当の心配は、キリスト教の大名とその信徒の百姓そしてキリスト教団、ポルトガル、スペイン国が結んで、秀吉に対抗し、日本国を乗っ取ることです。

 スペインとポルトガルがアメリカでの領土を得たのはキリスト教団と南蛮国が一体になって乗っ取たことを聞いたのです。

 

 織田信長は一向宗や仏教勢力に手を焼いていましたので、この力を抑制、牽制するためにキリスト教の布教を認めました。

 秀吉も当初はこれを引き継ぎましたが、大名と信徒、その裏の南蛮国が一体となっての反抗を警戒したのです。

 

 秀吉のキリシタン禁制は当初はゆるいものでした。

 ところが慶長元年(1596)メキシコ向けのスペイン船が土佐沖で難破し、

その取り調べ中に船のスペイン人の水先案内人が発言します。「スペインは宣教師を派遣し、キリスト教を布教して信徒を相応の数とし、軍隊を派遣して信徒に内応させ、領土を獲得する」

 これを聞いて秀吉はこれまで見逃していた宣教氏等26人を逮捕し、磔の刑に処しました。

 秀吉はキリスト教布教は外国征服、統治の策略との断を決しました。

 これでスペインとは国交断絶です。

 しかしポルトガルとは布教の禁止の下で、通商は積極的に行います。

 生糸は秀吉が買い占めます。硝石(カンボジア、シャム産)、鉛(中国、カンボジア産)、鹿皮、砂糖等を輸入し、輸出は銀、銅、漆器等です。

 

 秀吉は慶長3年(1598)没し、後は徳川家康の時代となり、キリスト教への締め付けはだんだん厳しくなり、三代家光によって完全に鎖国となります。

 これについては別稿とします。

以上

 

 2021年10月13日

 

梅 一声