鎖国と尊王・攘夷の意味 |
19世紀の日本で、特に幕末の浮上し喧伝された思想に「尊王攘夷」(そんのうじょうい)があります。尊王は尊皇とも表記しますが、ここでは尊王にしておきます。幕末この思想に影響された志士たちが暴れ大騒動となりました。結局、徳川幕府は倒されましたが、幕府の開国路線は継承され明治政府が樹立されます。 「尊王攘夷」は尊王と攘夷の二つの言葉の合成語です。水戸の藩主徳川斉昭が著した「弘道館記」の中で記したのが初出です。「弘道館記」は藩校弘道館の建学の綱領を記したものです。(1838年(天保9)) しかし尊王と攘夷の言葉は以前からあります。両方とも中国から出ています。 先ず「尊王」です。帝王を尊ぶ精神です。 日本では天皇を敬うことになりますが、徳川幕藩制度の下では天皇と将軍がい ます。どちらのことになるか。17〜18世紀かけての儒学者・政治家の新井白石がまとめました。 「将軍は天皇に委任されて政(まつりごと)を行う。将軍は天皇を敬い、将軍の家臣は将軍を敬う。」この論理で尊王をまとめました。この論理は江戸中期から幕末の一定時期までほとんど日本人が納得していました。徳川家康は武力で天下を取り、実力で将軍の地位を勝ち取ったのですからね。委任を受けたなんて徳川幕府が勝手に言っているんです。しかしこういわないと実質天下を統治している将軍の立場がありません。 次に「攘夷」です。 夷を討つ事ですが、中国では古来より自国を華と言い、周辺の国々を(北)狄、(東)夷、(南)蛮、(西)戎とさげすんで呼んでいました。四つの字とも野蛮人を意味します。これを華夷思想と呼びましたが、日本も自国を華として外国を夷とさげすんで称しました。中国をまねたのです。 これより日本では夷を攘うとして、攘夷とは外敵を打ち払って入国させないこと、外国とは通交しないことの意味で使われるようになりました。よって攘夷思想派は開国反対で、鎖国を続けることを主張した人々です 江戸時代、幕末以前まで日本人はみんな鎖国賛成で攘夷思想でした。そして幕末は攘夷派(開国反対)と開国派が分れて争いましたが、幕末の末期にはほとんどが開国派に変りました。 それでは鎖国からの幕末の尊王攘夷へのいきさつです。 ここで幕末の時期ですが、徳川幕府の末期のことですが、普通は1853年 (嘉永6年)のアメリカ東インド艦隊提督ペリー来航以降明治政府樹立前後の 1868年(明治元)ごろの期間となります。 徳川幕府が滅亡し、大政奉還、王政復古となったのが1867年(慶応3) で、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れるのが1868年(明治元)ですから約 15年の間となります。 それではなぜ徳川幕府は鎖国政策を取ったかです。 豊臣秀吉はキリスト教(耶蘇教)を禁教にしました。この理由は、キリスト 教が日本の神仏との共存に無理がある、ポルトガル宣教師の強引な布教に反発、 更に南米でスペインと宣教師とが一体になって国を略奪した行為を知ったこととされています。 徳川幕府は秀吉のキリスト教の禁教政策を引き継ぎ、これを強化すると共に更に日本人の海外渡航を禁じ、貿易は長崎でオランダ、中国と朝鮮とのみに限定しました。 これを鎖国と言います。当時は海禁と言いました この幕府の鎖国政策は、キリスト教禁教の理由は秀吉と同じですが、外国 との通交や貿易を禁じたのは、貿易や通交により大名や商人の勢力の拡大を恐れたからです。貿易や海外情報の果実は幕府だけが得るのです。 この体制がアメリカのペリー提督来航(1853年)まで続くのですが、 18世紀後半からロシア、イギリス、アメリカやフランス等が毎年のように 蝦夷地(北海道)、長崎、浦賀に入港して薪、水の補給、更に通商を求めるようになりました。 幕府は断固これを認めません。鎖国の維持です。そしてロシアの進出を防ぐ ために蝦夷地の防禦に力を入れます。松前藩を幕府直轄地とします(1799年)そして伊能忠敬蝦夷地測量(1800年)、間宮林蔵樺太探検(1808年)が行われます。 水戸徳川家家臣で学者の会沢正志斎が「新論」(1825年)を著し、尊王 での日本国体維持、海禁(鎖国)の続行と海防の重大さを説きました。 「尊王攘夷」の言葉は後に水戸藩主徳川斉昭によって表わされましたが、 この「新論」は「尊王攘夷」の正当性を裏付ける理論を打ち立てたものとして、高い評価を得ました。「尊王攘夷」論は後期水戸学の真髄として幕末の尊王攘夷の志士たちのバイブルような著書となりました。 尊王は新井白石の考え方と同じです。天皇―将軍―家臣の序列は同じです。そこには倒幕の考えはありません。 (前期水戸学とは水戸光圀が始めた大日本史編纂の事業です) 又、国学より神道論を打ち立てた平田篤胤一派が尊王攘夷を標榜します。 これにより鎖国の理論的裏付けが出来、日本人は上から下まで皆攘夷(開 国反対)で固まりました。 鎖国政策(前述)は当時、公家も武家もインテリ―を含めて国民の皆が古よ りの国是と思っていたのです。 幕府だけが、一定の国と一定の場所(長崎出島)で交易をおこない、その他の国民には交易させない、そして海外渡航を禁じたのは、実質的には江戸時代しかありません。(幕府の交易のおこぼれのような物は一部の大名は得ていました) 平安時代も、鎌倉時代も中国の政府間で正式の通交がなかった時代はありま したが、その間も民間の貿易、往来は自由だったのです。 そんなことは知らぬと、江戸時代の18世紀ごろから鎖国は日本古来よりの国是と皆思っていましたし、学者もその鎖国の正当性の理論を開陳しました。 しかし18世紀中ごろからロシアやイギリス船等の外国船の度重なる来航 があり、ついにアメリカ東インド艦隊提督ぺりーの来航(1853年)で 幕閣は西洋事情を認識して海防(西洋科学技術の輸入)のために鎖国を止めて 開国を決断します。 ここからがいわゆる幕末です。 そして幕末の時が進むにつれてみんなだんだん攘夷派から開国派に変って行きます。転向と言って良いでしょう。 最初に変ったのが、*幕閣、有力大名(島津斉彬、松平春嶽、山内容堂等)、 及び開明派の志士(坂本竜馬等)で、逆に開国への転身が遅かったのが長州とこれに乗っていた諸藩の脱藩浪士たちです。このため開国派の幕府と攘夷派の長州・水戸等の脱藩浪士との間で江戸や京都で激しく暗殺、殺戮が繰り返されます。 * 幕閣は閣僚に擬して近年使われる表現で老中、若年寄等を言います。 攘夷派の暗殺劇の最初が老中井伊直弼を水戸の攘夷志士等が倒した桜田門外の変です。(1860年) しかし尊王攘夷の仕掛け人である水戸の藩主徳川斉昭は亡くなり、その側近 の学者たちは開国派に転身します。(1862年) 以後、水戸は攘夷と開国に分かれ、政治的には力を無くします。 朝廷はもともとは長州に取り込まれ、攘夷派でしたが、京より長州が排除され た後は開国派になりました。(1863年)長州より早く開国に変りました。 そしてついに長州が開国に変わりました。 それは、英米仏蘭の四国連合艦隊に下関を砲撃され敗退し、西洋の科学技術の 高さを身を持って感じたからです。(1864年) 幕末の末期、すべての藩と政治主導者が開国に変ったところで、薩長土連合に よる討幕となります。 薩摩、長州、土佐の開国派の有力者(薩摩の西郷隆盛・大久保、長州の桂小五 郎、土佐の後藤象二郎)が密約(1867)をして討幕するのです。(1868年) もう幕府も朝廷も藩も全ての政治指導者は開国派になりました。ここで国内 が攘夷か開国で争うことは無くなりました。しかし薩長土の有力家臣によって 武力討幕がなされました。 攘夷か開国かの論争(争い)と大政奉還か討幕かの論争(争い)は別の問題 です。前者は幕末の末期には終わりますが、後者は幕末の末期(1867年5〜9月)に現れ一挙に討幕、維新政府の樹立(1868年正月)となります。 徳川幕府は攘夷派(思想)によって倒されたのではありません。幕末の末期 に表出した討幕派(思想)によって倒されたのです。 以上 2015年2月12日 梅 一声
|