鎖国の功罪



 鎖国が完成したのは徳川幕府の三代将軍家光の時です。

 それでは先ず鎖国とは何かについて整理しておきましょう。

 鎖国と言う言葉ですが、江戸時代は海禁の言葉の方が通じやすかったでしょう。

 鎖国と言う言葉18世紀の初めにオランダ通詞(通訳)()(づき)(ただ)()が使いだした言葉で幕末には幕府も使うようになりました。

 現在江戸時代に行われた鎖国の定義とは、○キリスト教の禁止とバテレン(神父)の取り締まり、○日本人の海外往来の禁止、○海外貿易の統制となり、寛永10年(1633)から五度にわたるお触れが出、寛永16年(1639)に完結させた幕府の政令(家光時代)と言うことになります。

 これはすべてキリスト教禁止、布教の禁止、キリシタン(キリスト教徒)の仏教への改宗に関わっての政令なのです。

 通商国の制限や、日本人の海外渡航禁止はすべてこのための徳川幕府の政策でした。

 

江戸時代の初め、日本との通商(交易・貿易)はポルトガルが衰退していき、オランダが躍進します。

 幕府もヨーロッパ勢がオランダ一国になる事は慎重に検討しました。ただ

家光の頃には東南アジアの海域はオランダの勢力がポルトガル、スペインを上回っていました。

 オランダはシナとオランダだけで日本の必要な物(生糸がメイン)を手配できる旨陳述します。

 天草・島原の乱ではオランダは協力(船からの大砲での攻撃)しましたが、ポルトガルは協力しなかったことが決め手となり、ポルトガルとの通商を完全に停止しました(スペインとはそれ以前に停止)。

 

 イギリスもその後又通商の再開を求めてきました。しかしイギリス王室とスペインの王室とが婚姻関係になったことから通商を拒絶しました。

 家光がヨーロッパはオランダだけの通商で、アジアは中国、朝鮮、琉球しか通商、通交せず、東南アジアへの日本の進出を放棄し、自らの商権を放棄したのは、それはキリシタンへ恐れからの徹底的な対策のためです。

 キリシタン、大名、キリシタン国が結託して幕府への反抗を恐れたからです(天草・島原の乱)。

 

 すべてキリスト教禁教、キリシタン排除のためです。

 家光の頃にはキリシタンは70万人と言われています。当時の人口が2千万人として3,5パーセント位になるでしょうか。

 この人たちが反乱を起こせば島原の乱どころの騒ぎではないと幕府は考えたのでしょう。

 東南アジアとの交際、進出はすっぱりあきらめ、日本人の渡海も禁止しました。アジアでの商内地盤を捨てました。

 キリシタンは表向き皆無になりました。

 家光の鎖国令は成功しました。

 

 さてそこでこの鎖国は正しかったのかどうかです。その功罪について江戸時代から今日まで色々議論されて来ました。

 賛成派から 

〇政治の面から、鎖国したから植民地にならなかった。鎖国しなければ徳川幕 府はキリシタン大名にキリシタン国と結託して倒され、日本国は南米の国のようになっていた。

 〇文化の面では、日本独自の文化を形成された(歌舞伎、俳句、浮世絵、

日本料理、陶磁器、鮨等)。

〇経済の面では、輸入に頼らない自給自足経済が出来上がった。

 

 反対派から

 〇政治の面では、日本が独立を保ってこれたのは鎖国制度のおかげはない。東南アジア諸国が植民地になり、中国(鎖国)も一部植民地になったのを見ても鎖国政策は役にたっていない。

〇内政の面では、飢饉の時に輸入が困難だった。武士や浪人の行き場がない。

 〇経済の面では、国内産業の停滞。

〇文化の面では、日本は古来中国や朝鮮の文化を積極的に取り入れることを

ベースにして来た。日本独自の文化はその上に醸成されてきたものである。鎖国しなければ各方面でもっと進歩したと思われる。

 〇科学技術の低迷による軍事力(外交)、産業力(工業力)の劣勢

 

 実にこの科学技術が幕末にはヨーロッパに格段に劣ってしまっていたのです。

 家光もヨーロッパの科学技術の高さは知っていました。

 しかし大型の航洋船や大砲は大名の武器となり排除したいのですから技術を学び取り入れる必要はありません。

 欲しいのは医術でしょうが、漢方もありますので絶対必要とは思わなかったでしょう。

 

 ヨーロッパは15世紀末葉のルネサンス以来世界で科学技術優位ができました。これで堅牢な船舶の建造、羅針盤などの航海術の進歩、銃器の進歩によってアメリカやアジアへの植民地政策を成功させてきました。

 その後ヨーロッパ優位は続きますが、18世紀の中ごろに産業革命がイギリスでおこります。

日本は鎖国中です。

産業革命は蒸気機関を綿織物工業、蒸気汽船への活用が大きいのですが、これ以外にも船舶は帆船から蒸気汽船へ、木造船から鉄船へ、外輪船からスクリュウー船へと進展し、火砲(炸裂弾の発明)、銃器(火縄銃から元込め撃鉄銃へ)の進歩は段階を踏んで進歩します。

これらは一時点で一気になしたわけではなく、又ヨーロッパの一国でなしたわけではなく19世紀以降にかけて日進月歩で発達していくのです。

 鎖国中、日本が遅れていることはなんとなく分かっていたでしょう。しかしヨーロッパがどれ位進んでいるのか知りませんでした。

 唯一の情報の取り入れ国はオランダですが、オランダは鎖国を始めた頃の17世紀にはヨーロッパでも東南アジアでも優勢でしたが、18世紀終わり後にはフランスに一時併合されるなど劣勢の国になっていました。

 そことは幕府は知っていました。オランダからの情報で幕閣は混乱します。

 

 19世紀に入ってロシア船、イギリス船への対応が出来ません。

 海防が言われます。

 海防と言っても大砲は日本にはないのに等しいのです。オランダから買うのですが、オランダも技術的にはヨーロッパトップではありません。

 イギリス、ロシア、アメリカの性能にはかないません。

 海防に堅牢な船が必要と思ったのは19世紀中頃の幕末になってからです。

 

 アメリカ艦隊のペリー提督が来航(1853年)するまで、幕府は鎖国続行か開国かで悩み、ついにヨーロッパの科学技術(軍事力)の高さを認識して開国を決めます。

 ペリー提督の旗艦は蒸気汽船の外輪船です、次の年の来航の時はスクリュー船です。進歩は早いのです。

 日本は1855年にオランダより木造の外輪船の寄贈を受けました。

 動かし方はこれから学ぶのです。

 造船、航海術、兵器(大砲、銃器)、天文、地理、医学の歴然たる差を幕府及び有力大名は知りました。

 水戸も長州も幕末の最期に気づきました。

 鎖国のまま追いつける格差ではなかったのです。

 ヨーロッパ先進国に留学して徹底的に学ばねば一朝一夕では追いつけない差を感じました。

 

 明治に入って富国強兵を掲げ日清戦争、日露戦争と戦い勝利を得ましたが、主要鑑はすべてイギリス製です。日本で造れたには艇などの補助艦です。

 鎖国で産業革命の科学技術の進歩の波に乗り遅れた日本がヨーロッパにようやく追いついたのは、太平洋戦争直前の頃と言われています。

  

 鎖国は、18世紀の中の産業革命以後のヨーロッパの科学技術の発展に乗り遅れたことが最大の問題と言えるのです。

 ヨーロッパで政治的にも、科学技術も劣勢になっていたオランダ頼りでは国の立地は難しくなっていたのです。

 それでもアジアの諸国のように植民地にならずやって来られたのは幕末の騒動を乗り越え、明治維新を迎え以後がむしゃらにヨーロパの科学技術を学習してきたからでしょう。

 

 私論ですが、鎖国したことより開国の時期が遅れたことに問題があります。

 ロシアの使節が1792年に来航し通商を求めました。時の老中筆頭松平定信は開国(通商)の意志をロシアに伝えました。しかし彼が老中をやめたため実行されませんでした。

 この時に開国(ヨーロッパ主要国)しておれば、科学技術の格差は幕末、明治維新のころのよりは小さかったでしょう。

 但し、ヨーロッパは既に封建政治が終わっており、議会制民主主義の時代に入っていますので、この影響は避けがたく中央主権国家(倒幕か公武合体)が明治維新より早く訪れることになったでしょう。 

          以上

 2021年11月14日

 

梅 一声







鎖国が完成したのは徳川幕府の三代将軍家光の時です。

 江戸時代は鎖国時代とも称せられます。江戸時代のすべての現象、事件、政策、生活、文化は鎖国政策に原を発していると言って過言ではないでしょう。

 鎖国令の下での江戸時代の人たちは日常生活の中で便、不便は感じなかったでしょう。

 しかし幕府の老中など中枢部は18世紀末(老中松平定信)にロシアからの開国要求で、鎖国政策の再検討を余儀なくされながら、アメリカ艦隊のペルー提督の来航の幕末まで鎖国を維持します。

 

 それでは先ず鎖国とは何かについて整理しておきましょう。

 鎖国と言う言葉ですが、江戸時代は海禁の言葉の方が通じやすかったでしょう。

 鎖国と言う言葉18世紀の初めにオランダ通詞(通訳)()(づき)(ただ)()が使いだした言葉で幕末には幕府も使うようになりました。

 ただ三代将軍家光が完成させた鎖国に関するお触れ(命令書)の中には海禁も鎖国の言葉も出てきません。

 ここでは便利な鎖国と言う言葉を使います。

 現在江戸時代に行われた鎖国の定義とは、○キリスト教の禁止とバテレン(神父)の取り締まり、○日本人の海外往来の禁止、○海外貿易の統制となり、寛永10年(1633)から五度にわたるお触れが出、寛永16年(1639)に完結させた幕府の政令(家光時代)と言うことになります。

 これはすべてキリスト教禁止、布教の禁止、キリシタン(キリスト教徒)の仏教への改宗に関わっての政令なのです。

 

 キリスト教への禁制は豊臣秀吉によって開始されました。

 その理由は、キリスト教が大衆とともに大名にも布教され、キリシタンである大名と大衆のキリシタンが一体となり、更にバテレンの出身国のポルトガル、スペインが後ろ盾になり、秀吉に対抗してくることを恐れたのです。

 大衆が時の政権に反抗してくることの恐れは一向一揆で知っていましたし、ポルトガルやスペインがメキシコや南アメリカで、バテレンが扇動して彼の国を領土化したことを聞いていました。

 キリシタン大名の大友純忠が自分の領地から長崎をイエズス会に寄進してしまいました。

 秀吉はびっくりしてこれを止め、長崎を自分の直轄地にしますが、キリシタン大名とバテレン(司祭・神父)への行動の規制の必要を感じました。

 秀吉は、バテレンによる布教を禁じ、バテレンの退去を命じました。

 その後スペインの難破船を拘束した時に、その水先案内人が「スペインは先に宣教師を送り込んで現地人をキリシタンにして、彼らを扇動して、領土を奪う」と証言しました。

 その頃は秀吉の命令に反してバテレンが退去せず、布教を続けているのが当時の状況でした。

 秀吉は一転厳しい処置に出ます。 

 先年の禁令違反として宣教師や日本人キリシタン計26人を処刑しました。

 秀吉が没する2年前です。

 しかし秀吉はキリスト教を全く禁教にしたわけでなくまだ緩いものでした。

 

 一方で秀吉はポルトガルとの通商は活発に行い、独占的に利益を得ていました。

 生糸を買い占め、火薬を作る原料の硝石、鉄砲玉の鉛や陶磁器を輸入し、銀を輸出していました。

 

秀吉が慶長3年(1598)没し後は徳川家康政権となります。

家康はキリスト教政策は引き継ぎます。布教は許さないが黙認の形です。

通商は秀吉時代よりも積極的です。

スペインとも通商を再開します。

日本船(朱印船―幕府の許可船)の東南アジアとの通商も積極的に支援し、日本人の海外進出も認めます。ベトナムやタイに日本人町が出来ます。

オランダ船が1600年豊後の臼杵に漂着し、乗組員のオランダ人ヤン・ヨースデン、イギリス人ウイリアム・アダムス(三浦安針)を家康は引見し、二人を政治顧問として採用します。

オランダ(1609年)とイギリス(1613年)と通商を行うことになります。

 朝鮮とは正式な通交(外交)関係となります。

 明とは正式な通交関係にはなりませんでした。日本は冊封関係(臣下の礼)は飲めないですから。

 しかし通商は年々活発になります。ポルトガル船の貿易量を上回ります。

通商は明船、ポルトガル船、日本の朱印船で競争になります。

ここにオランダ船が進出し、ポルトガル船は衰退の方向になります。

 

マカオ(中国)でポルトガル船と肥前のキリシタン大名有馬晴信の家来とが騒乱になり、家来が殺される事件が起きました。

有馬氏はポルトガル船が長崎に入港した時にこれを撃沈します。この事件を

キリシタン岡本大八(家康の側近の本田正純の家来)が調査して家康に報告し、有馬に落ち度なしとなりました。

 有馬はこの際と、岡本に家康に自分の領地回復の斡旋を依頼し、岡本は承諾し、そして家康の承諾の朱印状を偽造して有馬に渡し礼を得ます。

 これが発覚して大八は火刑、有馬は甲斐に配流なります。

 有馬も岡本もキリシタンです。

これで家康のキリシタンへの処置が厳しくなります。今までの黙認から直轄領での禁教を発令します(1612年)

 

ここから鎖国完成(1639年)までの道程を追ってみます。

家康が没し(1616年)二代目秀忠時代になります。

キリシタンへの対応は家康を引き継ぐことになます。明船以外の船は長崎、平戸に限定します。

スペインから国交を求めてきましたが、断絶は続行です。

イギリスとオランダの商館員が共同で上程「スペインとポルトガルの侵略的植民政策とキリスト教伝道は不可分である。朱印船に宣教師が潜んでいる」

実際に宣教師が潜んでいて、イギリス船とポルトガル船が摘発して幕府に訴えます。

宣教師2名処刑(1622年)

平戸のイギリス商館が閉鎖されました(1624)。イギリスは採算が取れず、撤退です。

ヨーロッパ船はオランダとポルトガルの二国です。(明船と日本船の航行はあります)

 後進のオランダとポルトガル・スペイン連合が東南アジアで制海権をめぐって対立します(1628年)。

日本もスペインの拠点マニラ遠征を計画したようです。実行しませんでしたが、この時点では東南アジアの制海権に関心があったと思われます。

 

 秀忠が没し(1632年)、三代家光時代です。

 家光は家康、秀忠のキリシタン対策の徹底を図ります。

 キリスト教の全面的な禁止です。鎖国の目的は実にここにあるのです。

 家光の鎖国令は寛永10年(1633)から寛永16年(1639)に5回のお触れをだして完結します。

 この間に天草・島原の乱が勃発します(寛永15~16年)。

 この乱は領主の過酷な年貢に対し立ち上がった人たちで、すべてキリシタンではなかったのですが、幕府はキリシタンの暴動としてとらえました。

 キリシタン禁令の鎖国令は一層厳しい内容になりました。

 宣教師の入国を認めません。日本人の海外進出を禁じ、通商政策の大幅な改訂をします。

 国内のキリシタンには仏教への改宗をせまります。踏み絵を使ってキリシタンを発見し、改宗をせまり、改宗せぬものは処刑します。

 檀家制度を作り、日本人すべてどこかの仏教宗派、寺院に所属させます。

 通商関係の役人以外一切の異国人との接触は禁止です。

 異国でキリシタンになる又はなっている者との接触をさせないため、日本船が異国に行くこと、日本人の渡航を禁じます。

 日本船(朱印船・奉書船)の配船は途絶です。海外の日本人町は縮小、廃絶していきます。

ポルトガルは島原の乱で協力しなかったとして通商の全面的停止です(オランダは自船から大砲で反乱軍を攻撃し幕府に協力)。

 

 通商はオランダと明(清)、朝鮮、琉球とのみ行い。オランダと明とは長崎に限って取引を行う。 

 長崎ではオランダとは出島で、明とは唐人屋敷で関係者のみの対応とします。

 すべてキリスト教の排除、布教の排除、日本人とキリシタンとの接触の忌避から出ています。

 

 それでは何故キリスト教国でありながらオランダだけがヨーロッパで一国だけ通商相手となったかです。

 オランダは家康に言ったのです。

 キリスト教の布教はしません。通商だけで付き合いましょう。

 家康はポルトガル、スペインに言いました。布教はやめて通商だけにしようと、しかし彼等は通商とキリスト教布教は一体と言い張ります。

 キリシタンへの疑いは秀吉以来、家康、秀忠、家光と共通です。

 そこに、オランダはポルトガル・スペインのキリスト教布教による侵略を幕府に訴えます。東南アジアで後進国のオランダはその頃すでに両国より東南アジアの制海を制しようとしていた時期です。

 幕府の鎖国はオランダの日本との通商独占の思惑に乗せられたところもいくらかはあるでしょう。

 鎖国は家光によって完成しました。

 通商の品目はオランダや明の後の清とも従来通り生糸がメインです。輸出のメインは銀から銅に移りつつありました。

 鎖国令が出て物語が出てきます。シャムの山田長政ジャガタラお春の物語がありますが、割愛します。

 この鎖国が日本国にとって良かったかどうかについては別稿にしたいと思います。

以上

2021年11月14日

梅 一声