鎖国への道 |
鎖国が完成したのは徳川幕府の三代将軍家光の時です。 江戸時代は鎖国時代とも称せられます。江戸時代のすべての現象、事件、政策、生活、文化は鎖国政策に原を発していると言って過言ではないでしょう。
鎖国令の下での江戸時代の人たちは日常生活の中で便、不便は感じなかったでしょう。
しかし幕府の老中など中枢部は18世紀末(老中松平定信)にロシアからの開国要求で、鎖国政策の再検討を余儀なくされながら、アメリカ艦隊のペルー提督の来航の幕末まで鎖国を維持します。
それでは先ず鎖国とは何かについて整理しておきましょう。
鎖国と言う言葉ですが、江戸時代は海禁の言葉の方が通じやすかったでしょう。
鎖国と言う言葉18世紀の初めにオランダ通詞(通訳)志筑忠雄が使いだした言葉で幕末には幕府も使うようになりました。
ただ三代将軍家光が完成させた鎖国に関するお触れ(命令書)の中には海禁も鎖国の言葉も出てきません。
ここでは便利な鎖国と言う言葉を使います。
現在江戸時代に行われた鎖国の定義とは、○キリスト教の禁止とバテレン(神父)の取り締まり、○日本人の海外往来の禁止、○海外貿易の統制となり、寛永10年(1633)から五度にわたるお触れが出、寛永16年(1639)に完結させた幕府の政令(家光時代)と言うことになります。
これはすべてキリスト教禁止、布教の禁止、キリシタン(キリスト教徒)の仏教への改宗に関わっての政令なのです。
キリスト教への禁制は豊臣秀吉によって開始されました。
その理由は、キリスト教が大衆とともに大名にも布教され、キリシタンである大名と大衆のキリシタンが一体となり、更にバテレンの出身国のポルトガル、スペインが後ろ盾になり、秀吉に対抗してくることを恐れたのです。
大衆が時の政権に反抗してくることの恐れは一向一揆で知っていましたし、ポルトガルやスペインがメキシコや南アメリカで、バテレンが扇動して彼の国を領土化したことを聞いていました。
キリシタン大名の大友純忠が自分の領地から長崎をイエズス会に寄進してしまいました。
秀吉はびっくりしてこれを止め、長崎を自分の直轄地にしますが、キリシタン大名とバテレン(司祭・神父)への行動の規制の必要を感じました。
秀吉は、バテレンによる布教を禁じ、バテレンの退去を命じました。
その後スペインの難破船を拘束した時に、その水先案内人が「スペインは先に宣教師を送り込んで現地人をキリシタンにして、彼らを扇動して、領土を奪う」と証言しました。
その頃は秀吉の命令に反してバテレンが退去せず、布教を続けているのが当時の状況でした。
秀吉は一転厳しい処置に出ます。
先年の禁令違反として宣教師や日本人キリシタン計26人を処刑しました。
秀吉が没する2年前です。
しかし秀吉はキリスト教を全く禁教にしたわけでなくまだ緩いものでした。
一方で秀吉はポルトガルとの通商は活発に行い、独占的に利益を得ていました。
生糸を買い占め、火薬を作る原料の硝石、鉄砲玉の鉛や陶磁器を輸入し、銀を輸出していました。
秀吉が慶長3年(1598)没し後は徳川家康政権となります。
家康はキリスト教政策は引き継ぎます。布教は許さないが黙認の形です。
通商は秀吉時代よりも積極的です。
スペインとも通商を再開します。
日本船(朱印船―幕府の許可船)の東南アジアとの通商も積極的に支援し、日本人の海外進出も認めます。ベトナムやタイに日本人町が出来ます。
オランダ船が1600年豊後の臼杵に漂着し、乗組員のオランダ人ヤン・ヨースデン、イギリス人ウイリアム・アダムス(三浦安針)を家康は引見し、二人を政治顧問として採用します。
オランダ(1609年)とイギリス(1613年)と通商を行うことになります。
朝鮮とは正式な通交(外交)関係となります。
明とは正式な通交関係にはなりませんでした。日本は冊封関係(臣下の礼)は飲めないですから。
しかし通商は年々活発になります。ポルトガル船の貿易量を上回ります。
通商は明船、ポルトガル船、日本の朱印船で競争になります。
ここにオランダ船が進出し、ポルトガル船は衰退の方向になります。
マカオ(中国)でポルトガル船と肥前のキリシタン大名有馬晴信の家来とが騒乱になり、家来が殺される事件が起きました。
有馬氏はポルトガル船が長崎に入港した時にこれを撃沈します。この事件を
キリシタン岡本大八(家康の側近の本田正純の家来)が調査して家康に報告し、有馬に落ち度なしとなりました。
有馬はこの際と、岡本に家康に自分の領地回復の斡旋を依頼し、岡本は承諾し、そして家康の承諾の朱印状を偽造して有馬に渡し礼を得ます。
これが発覚して大八は火刑、有馬は甲斐に配流なります。
有馬も岡本もキリシタンです。
これで家康のキリシタンへの処置が厳しくなります。今までの黙認から直轄領での禁教を発令します(1612年)。
ここから鎖国完成(1639年)までの道程を追ってみます。
家康が没し(1616年)二代目秀忠時代になります。
キリシタンへの対応は家康を引き継ぐことになます。明船以外の船は長崎、平戸に限定します。
スペインから国交を求めてきましたが、断絶は続行です。
イギリスとオランダの商館員が共同で上程「スペインとポルトガルの侵略的植民政策とキリスト教伝道は不可分である。朱印船に宣教師が潜んでいる」
実際に宣教師が潜んでいて、イギリス船とポルトガル船が摘発して幕府に訴えます。
宣教師2名処刑(1622年)
平戸のイギリス商館が閉鎖されました(1624)。イギリスは採算が取れず、撤退です。
ヨーロッパ船はオランダとポルトガルの二国です。(明船と日本船の航行はあります)
後進のオランダとポルトガル・スペイン連合が東南アジアで制海権をめぐって対立します(1628年)。
日本もスペインの拠点マニラ遠征を計画したようです。実行しませんでしたが、この時点では東南アジアの制海権に関心があったと思われます。
秀忠が没し(1632年)、三代家光時代です。
家光は家康、秀忠のキリシタン対策の徹底を図ります。
キリスト教の全面的な禁止です。鎖国の目的は実にここにあるのです。
家光の鎖国令は寛永10年(1633)から寛永16年(1639)に5回のお触れをだして完結します。
この間に天草・島原の乱が勃発します(寛永15~16年)。
この乱は領主の過酷な年貢に対し立ち上がった人たちで、すべてキリシタンではなかったのですが、幕府はキリシタンの暴動としてとらえました。
キリシタン禁令の鎖国令は一層厳しい内容になりました。
宣教師の入国を認めません。日本人の海外進出を禁じ、通商政策の大幅な改訂をします。
国内のキリシタンには仏教への改宗をせまります。踏み絵を使ってキリシタンを発見し、改宗をせまり、改宗せぬものは処刑します。
檀家制度を作り、日本人すべてどこかの仏教宗派、寺院に所属させます。
通商関係の役人以外一切の異国人との接触は禁止です。
異国でキリシタンになる又はなっている者との接触をさせないため、日本船が異国に行くこと、日本人の渡航を禁じます。
日本船(朱印船・奉書船)の配船は途絶です。海外の日本人町は縮小、廃絶していきます。
ポルトガルは島原の乱で協力しなかったとして通商の全面的停止です(オランダは自船から大砲で反乱軍を攻撃し幕府に協力)。
通商はオランダと明(清)、朝鮮、琉球とのみ行い。オランダと明とは長崎に限って取引を行う。
長崎ではオランダとは出島で、明とは唐人屋敷で関係者のみの対応とします。
すべてキリスト教の排除、布教の排除、日本人とキリシタンとの接触の忌避から出ています。
それでは何故キリスト教国でありながらオランダだけがヨーロッパで一国だけ通商相手となったかです。
オランダは家康に言ったのです。
キリスト教の布教はしません。通商だけで付き合いましょう。
家康はポルトガル、スペインに言いました。布教はやめて通商だけにしようと、しかし彼等は通商とキリスト教布教は一体と言い張ります。
キリシタンへの疑いは秀吉以来、家康、秀忠、家光と共通です。
そこに、オランダはポルトガル・スペインのキリスト教布教による侵略を幕府に訴えます。東南アジアで後進国のオランダはその頃すでに両国より東南アジアの制海を制しようとしていた時期です。
幕府の鎖国はオランダの日本との通商独占の思惑に乗せられたところもいくらかはあるでしょう。
鎖国は家光によって完成しました。
通商の品目はオランダや明の後の清とも従来通り生糸がメインです。輸出のメインは銀から銅に移りつつありました。
鎖国令が出て物語が出てきます。シャムの山田長政ジャガタラお春の物語がありますが、割愛します。
この鎖国が日本国にとって良かったかどうかについては別稿にしたいと思います。
以上 2021年11月14日 梅 一声
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