老中松平定信とはどんな人


 

 徳川政権255年間の間を前期・中期・後期に分けますと後期に入った頃、即ち陸奥白河藩主(福島県白河)の松平定信が老中に就任していわゆる寛政の改革を行った時代の話をしてみたいと思います。18世紀末の数年間を中心にした話です。

 この改革にも関わらず徳川政権は衰退の方向に向かうのです。

 

 徳川政権の前期(80年間)は家康没後、政治上の事件として鎖国、天草一揆などは起こりますが、幕府や藩の体制いわゆる幕藩体制の財政的な基盤はゆるぎないものでした。

 中期に入り幕府財政が悪化してきましたが、8代将軍吉宗の改革により財政は向上に転じました。いわゆる享保の改革と言われる改革で、新田開発、商品作物(甘藷、サトウキビ、朝鮮人参等)の生産の奨励、支出を抑える倹約令等々を実行し、まあまあ改革に成功したと言えますでしょうか。

 

 しかし吉宗没後幕府(直轄地)も藩も財政赤字が累積していきます。

 そこに凶作から飢饉となり、一揆、打ちこわしが起り、民情は不安定となり、救済のための出費で一層財政は赤字となります。

 

 それでは松平定信登場前の老中田沼意次時代から政治情勢を述べます。

 天明飢饉と言われる飢饉は5年に及ぶ長期の不凶、不作で各地で一揆が起ります。江戸城下町でも米の価格の暴騰で、怒った町民によって打ちこわしが起ります。米屋や豪商の店が7~8千人の町人に襲われ破壊されたのです。

 将軍のひざ元の江戸での暴動は幕府の威信にかかわります。

 老中首座の田沼意次(おきつぐ)は絶対的な後ろ盾であった10代将軍(いえ)(はる)の病没したことがあり老中を罷免され更に江戸での打ちこわしの責任から領地の減封の処分となります。

 意次に代わって陸奥白河藩主松平定信(30歳)が老中に、そしていきなり老中首座に抜擢されます。

 この人は8代将軍吉宗の孫にあたります。((注))三卿の田安家から白河藩の松平家の養子になりました。

(注)8代将軍吉宗が田安家と一橋家、9代将軍家重が清水家を将軍の世継ぎの安定のために興した三家

 

宝暦8年(1758)に江戸で生まれます。父親の宗武は14歳の時に没します。

 定信は、10代将軍家治の息子の家基が没した後に家治の養子になって11代将軍との話もでましたが、既に白河の松平家に養子に出ており戻すことは不都合とされ、同じく御三卿の一橋家から(いえ)(なり)が家治の養子となり、11代将軍になりました。

  意次失脚の後、11代将軍家斉は15歳と若く、優秀な仁を老中に立てる必要があり、一橋治済(はるさだ)(家斉の父)と御三家(尾張、紀伊、水戸の徳川家)が定信を強く推しました。

 

 定信は早速政治改革を行います。

@米の備蓄の奨励((かこい)(まい)

  直轄領、各藩は1万石につき米50石、5年間毎年備蓄を続ける。

  備蓄は以前より始まっていました。

  現在も凶作に対応する備蓄制度はありますね。

 

 A江戸で七分金制度を実施

  江戸で非常用の米の購入費目的と貸付金運用のための制度立ち上げました。

  これは成功で、天保の飢饉の時に役立ち、幕末まで続きました

 

 B農村の復興策

  〇米麦の生産の重視、菜種(灯油)、木綿(衣類)以外の農民換金作物の生

   産は禁ずる。町人同様の利益追求は百姓には認めない。

   米生産の減少を食い止めるための施策(年貢の増収)ですがこれでは

百姓のやる気がでません。

   

 〇江戸逃げた百姓を村に連れ戻すために戻れば3両支給するとのお触れを

  出したが、不評で4人しか応募がありませんでした(旧里帰農令)

 

C棄捐令(きえんれい)

札差(幕府の米の扱い商人、金も貸す)に旗本、御家人の借金を棒引きに

させる。

札差は計118万両の負担(現在価格で1200億円位)になります。

 こんなことは現在考えられませんが、中世には徳政令と称して借金のロハ

を命ずことがありました。江戸時代では初めてです。

 

D江戸城町人への政策

  〇奢侈禁止

   金銀細工物の禁止や上等な絹の着物の制限は元より寄席の数の制限、

屋台のそば屋、女髪結いまで制限の対象。

奢侈の抑制というより、村の百姓に比べて便利な生活を楽しむ町人への 抑制策でしょう。そうしないと百姓が江戸へ江戸へと流れて来るからです。

   

 〇出版統制令

   幕府政策への批判、揶揄を禁止。

   林子平の「海国兵団」(海防の重要性)は幕府批判とみなされます。幕府は海防の重要性は認識しこの後取り組みます。

   黄表紙、洒落本は(恋川春町、山東京伝、蔦屋重三郎等)は幕府公儀を  

   揶揄した刷り物として規制します。

 

町人文化が発展し、出版業も盛んになり、町人、学者たちが言いたいこ

とを言い出し、政治に意見を言うようになり、この規制に乗り出すので

す。

しかし徹底した規制は難しかったのです。  

   

E武士への教育

  「下勢(町人)上(武士)を凌ぐ勢い」の情勢を脱却するために武士の教育の強化を図る。町人の文化、教養はいよいよ高まっていきます。

  旗本、御家人は朱子学に基づいて教育されなければならない。湯島聖堂では朱子学以外の教育、研究は禁止(寛政の異学の禁)

  そして文武両道に励めよと。

  当時の狂歌で揶揄されました。「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし

ぶんぶ(文武)ぶんぶ(文武)と夜も眠れず」

  朱子学の精神論では科学技術、産業、文化の発展は期待できません。

 

 田沼意次が農業と商業との共存、商業の利用を考えたのに対し、定信は重農主義と言えるでしょう。

 田沼は贈賄の慣習では当時から非難を受けていましたが、今日から見ると政策では非難できないところがあります。

 

 定信の政策は当時の人の狂歌で、「白河の 清きに魚の 住みかねて 元の

濁りの 田沼こひしき」と歌われました。白河は定信が白河(福島県)の殿様

で、田沼は田沼意次にかけています。

 

国学者の本居宣長や藤田幽国が天皇と将軍との関係に言及します。

 定信は将軍、幕府に威信を保持するために天皇と将軍との関係を「将軍は

天皇より委任を受けて統治している」との大政委任論の説を取りました。

 これは事実ではありません。だれでも知っています。家康は力ずくで天下・

政権を勝ち取って幕府を開いたのです。天皇からの政権の委譲等受けていませ

ん。

 定信の大政委任論が幕末の尊王攘夷の思想に発展していくのです。徳川幕府

自滅への説となります。

 

 定信はもう一つ重要な取り組みをしなければなりませんでした。それは対外

政策です。

 当時は鎖国政策をとっていました。通交は朝鮮、沖縄、通商は清とオランダ

だけです。

 定信は江戸防備のため房総、相模沿岸の防備に取り掛かります。

 

ところがこの後定信は老中を辞してしまいます。老中就任期間は18世紀末の

6年間です。

 老中就任中は権力を掌中に収めていたように見えたのですが。

どうして辞めたのかはっきりした理由が分りません。他の老中との折り合いが

良くない、世間の評判が良くない等が言われています。

 

定信の評価です。

老中松平定信は徳川幕府を50年延命させたと言う人もいます。

しかし彼が現れた時代は徳川政権の幕藩体制の陰りが見えて来た時で、幕藩

・重農主義の体制をそのままで改革して過去の栄光をもう一度は難しかったのです。

内憂では農業問題、江戸城下町の発展、商人の躍進それに飢饉の問題、更に

外患では祖法とした鎖国がロシア、イギリス、アメリカからの通商、通交の要求で対応に先が見えなくなってきたのです。

 海防問題がクローズアップします。

 農業対策は成功したとは言えません。成功した藩や村が出て来たのは定信の老中辞任後で、定信の施策とは違い、指導者は百姓に農業のやりがいを教えました。

定信政権で成功したのは飢饉対策ぐらいでしょう。

定信の基本的な思考は、農業の中心、商業の抑制(金より米、外国貿易の縮小)、

鎖国の祖法化でしょう。

 彼は清廉潔白の人言われました、質素倹約を人々に押し付け、「しわい、夢も希望もなくなる」と当時の人に風評されました。

 

 定信は文政12年(1829)72歳で没します。

 通商を求めてやって来るイギリス、ロシア、アメリカへの対応に幕閣の方針が揺れ動く時期でした。

以上

  2022年2月13日

梅 一