ペリー来航の意味


 今回は幕末の話です。

 

「アメリカ人と仲良くしなければならないと誰が決めたんだ。こっちが頼んだ訳でもないのにあの黒船が浦賀にやって来て、徳川300年天下泰平の夢を破られたんだ。向こうが無理やりやって来て、大きな大砲でズドンと脅かして、無理やり仲良くしよう。そんな馬鹿な話があるか。」

と寅さんのせりふ。「そうすると寅さんは尊王攘夷派か」とタコ社長。「そうだよ」と寅さん。

 これは渥美清演じる「男はつらいよー寅次郎春の夢」(第24作)の一場面で、アメリカ人のマイケルが実家の“とらや“に下宿することに反対する寅さんのせりふです。 

 

 この寅さんの気持ちが、江戸時代の当時の日本人の上から下まで、武家、公家、百姓、町人のすべて気持ちであったのです。

 

 ここで言葉の問題でお話しておかねばならいことがあります。

 「幕末」です。徳川幕府の末期の時期ですね。「幕末」表現は明治になって使われるようになった言葉です。

実は江戸時代にも「幕府」の言葉はありましたが、一部の学者の間では使われていただけで、ほとんど一般では使われていませんでした。徳川政権は自分達を幕府と言いません。臣下も百姓・町民も「幕府」とは呼びません。みんな「御公儀」(ごこうぎ)又は大公儀(おおこうぎ)と言いました

 しかし「幕府」は今日もう使い慣れた便利な表現ですので以後ここでもつかいます。

 幕末の時期とは徳川幕府の末期のことですが、普通は1853年(嘉永6

年)のアメリカ東インド艦隊提督ペリー来航以降明治政府樹立前後の186

8年(明治元)ごろの期間となります。

 徳川幕府が滅亡し、大政奉還、王政復古となったのが1867年(慶応3)

で、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れるのが1868年(明治元)ですから

約15年の間となります。このたった15年の間に皆さんがご存知の色々な

幕末物語が展開されたのです。

 

 先ず、なぜ徳川幕府は鎖国政策を取ったかです。豊臣秀吉はキリスト教(耶蘇教)を禁教にしました。この理由は、キリスト教が日本の神仏との共存に無理がある、ポルトガル宣教師の強引な布教に反発、更に南米でスペインと宣教師とが一体になって国を略奪した行為を知ったこととされています。

 

徳川政権はキリスト教の禁教政策を引き継ぎ、強化すると共に日本人の海外渡航を禁じ、貿易は長崎でオランダ、中国と朝鮮とのみに限定しました。これを鎖国と言います。当時は鎖国の言葉より海禁が普通使われました。

この幕府の鎖国政策は、キリスト教禁教の理由は秀吉と同じですが、外国との通交や貿易を禁じたのは、貿易や通交により大名や商人の勢力の拡大を恐れたからです。貿易や海外情報の果実は幕府だけが得るのです。

 

この体制がアメリカのペリー提督来航まで続くのですが、18世紀後半からロシア、イギリス、アメリカやフランス等が毎年のように蝦夷地(北海道)、長崎、浦賀に入港して薪、水の補給、更に通商を求めるようになりました。

幕府は断固これを認めません。鎖国の維持です。そしてロシアの進出を防ぐために蝦夷地の防御に力を入れます。蝦夷地の松前藩を幕府直轄地とします(1799年)、伊能忠敬蝦夷地測量(1800年)、間宮林蔵樺太探検(1808年)が行われます。

 

 一方、西洋の科学技術の進歩を蘭学より知り、異国船打払い令に反対し、外国事情を上申しようとしたインテリ―達がいました。

この人達が渡辺崋山、高野長英、小関三英らで、御公儀の政策にたてつく輩として逮捕、入獄、切腹となりました。これが蛮者の獄です(蛮者は蛮学社中の略で、蛮学は南蛮の学問でしょう)。1839年(天保10)のことで、

この頃は、幕府老中(天保の改革の水野忠邦時代)への批判がましきことや勝手に幕府に建白することは厳禁の時代です。老中政治が絶対の頃です。

外国を夷狄として排除することは外国事情から好ましくないこと、そして西洋技術による国防を提案していました。

 内容はともかくとしてお上に意見するとは何事かで罰せられたのです。

 

このあたりの時代は、日本中で飢饉による一揆や騒動が頻発し、幕府の権力に陰りが出てきており、幕閣老中は威信の維持にやっきになっていた時期です。故に強硬に弾圧したのです。

彼らの考え方は彼らの処罰後、幕府は必然的に彼らの意見を実行せざるを得ないことになります。

 

ここでアヘン戦争(1840〜42年)が起こり、清国が大敗した情報が日本に入りました。

いよいよ海防に注力しなければなりません。各藩に通達を出します。洋式の軍備の必要性が言われるようになりました。

 

一方、18世紀中頃よりたび重なる外国船の来航で、その要望により、外国船に薪水の給与を許可しました(1842年)。しかし幕府は開国の意思はありません。

 

オランダ国王から開国の進言があり(1844年)、そしてオランダの東インド総督より、アメリカの使節が来航して開港を要求することを予告してきました(1852年)。

8代将軍吉宗没後の18世紀中頃より、旱魃、不作、飢饉により一揆、打ちこわしや暴動(大塩平八郎の変 1837年)等の騒動が国内あちこち頻発し、その対策で松平定信の寛政の改革(1787年)、水野忠邦の天保の改革(1841年)が行われましたが、経済状態は良くなりません。いわゆる内憂外患の時代に入って行ったのです。徳川政権の幕府の統率力に陰りが出てきました。

 

鎖国政策(前述)は当時、公家も武家もインテリ―を含めて国民の皆が古よりの国是と思っていたのです。

幕府だけが、一定の国と一定の場所(長崎出島)で交易をおこない、その他

の国民には交易させない、そして海外渡航を禁じたのは、実質的には江戸時代しかありません。(幕府の交易のおこぼれのような物は一部の大名は得ていました)

平安時代も、鎌倉時代も中国の政府間で正式の通交がなかった時代はありましたが、その間も民間の貿易、往来は自由だったのです。

そんなことは知らぬと、江戸時代の18世紀ごろ以降、みんな日本の国是と思っていましたし、学者もその鎖国の正当性の理論を開陳しました。

 

ここでいよいよかの有名なアメリカ使節ペリーが浦賀にやってきました。

これが冒頭で述べました寅さんの一節となるのです。

事前にオランダから幕府に連絡がありましたから実際は、寅さんの言う様にいきなりではないので、幕府首脳はさほど驚かなかったでしょう。

 

江戸の民衆は驚きました。特に蒸気機関で動く外輪船にはびっくりしました。

幕府は結局アメリカ大統領フィルモアの国書を受領して将軍家慶(12代)が病気であるとして返事は来年するとして一旦帰ってもらいました。

 国書を受け取らないと帰らないと言うのです。これまでのロシア、フランスやイギリスは何とか帰ってくれました。当時新興国だったアメリカは強引です。

1853年(嘉永6)6月3〜12日の滞泊でした。(明治維新の15年前)

家定将軍は6月22日に亡くなり、病弱の家定(紀州徳川家)が13代将軍に就任します。

 

さて筆頭老中の阿部正弘は国書(開港要求)を在府中の諸大名や旗本に諮りました。

徳川幕府が政策を決めるのに大名に意見を聞くなどは前代未聞です。政  治は将軍から老中に委任されていたのが慣例で実体です。徳川幕府はいわゆる老中政治なのです。老中の衆議で決めるのですが、老中筆頭、又は大老の権限は大きいのです。

これで分かるように幕府はこの頃は統治力に衰えを見せて来ており、老中だけで決める自信がなくなっていたのです。

 

 そして水戸藩主の徳川斉昭を海防参与に任命しました。従来、御三家は幕府

の政治に干渉しないのが慣例です。しかしもう老中だけでは決められなくなっ

て来ていました。精鋭の学者勢を抱え、幕府老中政治の野党化した斉昭を取り

込まないと収まらなくなっていました。

 品川にお台場築造を着手し、オランダに軍艦を発注しました。

 

 さて翌年の1854年(安政元)、ペリーは返事を求めてやってきました。2

月10日横浜で交渉を開始し、3月3日米和親条約があっさり成立したのです。

(明治維新の14年前)

 

この条約の中味は、従来既に認めていた薪水給与の延長線の取り組みで、条約

締結の当座は関係者初め、一般人にはさしたる動揺はありませんでした。速や

かに締結されてしまったのです。

 ここでは未だ尊王攘夷の志士の登場はありません。

 しかし、水戸藩主の徳川斉昭は怒りました。攘夷の政策に反するとし幕府

参与を辞任してしまいます。

 

 寅さんのせりふで“大きな大砲でズドンと脅かして”ですが、この大砲は

確かにアメリカ軍艦から打たれました。しかしこれは空砲で、幕府には事前

に、アメリカの記念日故空砲を打たせてもらいたいと申し出があり、幕府が

許可したものです。民衆も初めは驚きましたが、事情が分かり、かえって面白がったそうです。

 この大砲におびえて、幕府が条約を調印したとの事はありません。

 続いて英、露とも和親条約を結びました。

 これで日本は鎖国を止めて開港したとは言えないでしょう。和親条約は海上

での遭難の対応や薪水の給水が内容で、通交とは言えません。

 

 しかし4年後の1858年(安政5年)に幕府はアメリカやフランス等と修

好通商条約を結びます。これで鎖国政策を止めて開国です。(明治維新の10年

前)

 幕府は肌身で西洋科学技術の高さと西洋事情を知り開国を決断したのです。

 そして幕府と尊王攘夷(開国反対)の長州藩、水戸を初めとする攘夷の志士

(浪士)との闘争時代に入ります。幕末の末期には長州も開国に転じるのです

が、尊王攘夷の運動は尊王討幕に変り徳川幕府は滅亡します。(1868年 

明治元年)

 もちろんペリーの強引な開国要求がなくても日本はいずれ開国したでしょう。

しかしこのアメリカの強引な外交が開国を早め、攘夷派の運動を激化させたと

言えるでしょう

以上

 

2015年3月4日

 

梅 一声