応仁の乱は日本の歴史の変革期です


 

一般に人気のない室町時代ですが、この時代に起きた応仁の乱に、日本の歴史の最重要の変革期としての位置づけを行おうとするのが今回のテーマです。

 

 室町時代は足利家の政権(室町幕府)で初期の南北朝時代を含めると、初代足利尊氏将軍から15代義昭将軍が織田信長に京を追われるまでの237年間に及びます。江戸時代を255年、鎌倉時代を148年としますと結構長いのです。

 鎌倉幕府(北条家)が、後醍醐天皇と足利尊氏に滅ぼされた後、後醍醐天皇の政権(建武新政)となりますが、3年程で足利尊氏が後醍醐天皇より政権を奪取します。そして足利時代(室町時代)となるのです。本拠を京都の室町に置くことが多かったので室町時代と言います。

 この室町時代は、文化の面で3代(よし)(みつ)将軍の北山文化(金閣寺)と8代(よし)(まさ)将軍の東山文化(銀閣寺)今日一般的に有名ですが政治史としても応仁の乱

を中心として重要な時代となります。

 さて応仁の乱です。

 「応仁の乱」は室町時代の応仁元年(1467年)に始まった内乱なので応仁の乱と称しています。

 この乱は10年後一応の終結は見るのですが、実際には終わらずいわゆる日本中全体が戦国時代に突入してしまいます。

 戦いの規模について逸話が残っています。

 太平洋戦争の敗戦終結後まもなく、某新聞社の記者が京都の近衛(元)公爵(五摂家 藤原氏)を訪れてインタビューしました。近衛公爵曰く“先の大戦で先祖代々の貴重な文書や日記等の文化遺産が焼失してしまい誠に残念でした”

そこで記者が更に質問“近衛様、先の大戦では京都は爆撃されず、戦災はなかったのではありませんか”

”公爵曰く“いや応仁の乱では京都は全焼しました”

 近衛公にとっては先の大戦とは応仁の乱のことであって太平洋戦争ではないのです。それくらい京都の近衛家にとって1467年の応仁の乱での京都焼失は大きく痛かったのです。

 それにしても近衛家の歴史は悠久ですね。室町時代の応仁の乱をこの前のごとく話されます。

まあこの話はほんとうかどうか分かりませんが、知る人ぞ知る逸話です。

 しかしこの乱で京都の市街地がほぼ全焼したことは間違いありません。現在我々が京都見物で見ている神社仏閣などほとんどの建物は応仁の乱後から江戸時代にかけて再建されたものです。奈良の神社仏閣に比べればずっと新しいのです。因みに応仁の乱以前からある京都の建物は、市街地では大報恩寺(千本釈迦堂)本堂と東寺太子堂(金堂、五重塔も再建されたもの)ぐらいです。

 さてこの応仁の乱とはどのようなものだったのでしょか。足利家は六代義教(よしのり)将軍まで安泰に見えたのですが、実にこの将軍が家臣(守護大名)に謀殺されてしまうのです。(1441年 嘉吉の変)犯行に及んだ赤松満祐は幕府によって討伐されますが、この後がいけません。

もともとこの政権(室町幕府)は将軍と守護大名(地方の統治者)との連合政権でありました。義教(よしのり)将軍の跡継ぎの八代(よし)(まさ)将軍と有力守護大名(細川勝元・名宗全)が三つ巴で幕府内の実権争奪の政局となり収拾が取れなくなってしまいました。

そしてついに応仁元年(1467年)、細川勝元{将軍に次ぐ管領家}グループ&義政将軍(東軍)VS山名宗全{有力守護}グループ(西軍)とで京都と近畿地方を戦場にして戦いました。

動員兵力は当時の軍記「応仁の乱」によると。ピーク時東軍16万人、西軍9万人、大分誇張はされているでしょう。因みに関ヶ原の戦いは東軍9万人、西軍は8万人と言われています。

そして京都を焼け野原にして10年後にやっと何とか東軍勝利の形で終りましたが、完勝ではありませんでした。

戦後守護大名のほとんどが自分の領国に帰ってしまい、もはや義政将軍のもとで守護大名は結束できず、室町幕府は崩壊が始まったのです。幕府の統制がとれないまま中央も地方も家臣が主君に成り代わって地方政権を打ち立てる下剋上の世、即ち戦国時代となっていくのです。

 

 戦国時代は約100年続き織田信長がほぼ全国統一し後を豊臣秀吉、徳川家康が政権を取り、江戸幕府となるわけです。

 戦国時代が終わり、江戸幕府となり、二百数十藩の大名が存在しますが、応仁の乱以前からの大名は島津、細川、伊達、上杉、佐竹ぐらいです。平安時代からの荘園は亡くなりました。守護・地頭も消滅しました。応仁の乱以降戦国時代で日本は一新されてしまいました。

 そういう意味で、応仁の乱は戦国時代を起こした直接の原因であって、歴史の重要な変革期と位置づけられます

内藤湖南(1866―1934)と言う人はあまり現在一般的には知られていませんが、戦前は歴史学者として著名な仁でした。

 この内藤湖南博士の戦前の講演から、その講演録を抜粋要約しますと「日本を知るためには応仁の乱以後を知っておったらそれで充分です。それ以前は外国の歴史ぐらいにしか感ぜられませぬ。応仁の乱は全く日本を新しくしてしまったのです。」と言っております。

 現在の歴史学者や研究者のすべてが内藤博士の説に賛同していると思いませんが、戦前、戦後の著名な歴史学者、研究者が名論卓説と受け止めています。

 

以上

2013年7月31日

 

梅 一声