太田道灌とはどんな人でしょう |
日本人にはよく知られた歴史上の有名人です。 しかし知られているようで案外われわれは本当の太田道灌(おおたどうかん)を知りません。と言うより彼の仁については誤って伝えられていることが多いのです。 またこんなに有名なのに太田道灌のことは高校の教科書には載っていません。 ついては、多くの人が知っている道灌についてのエピソードや史実について改めて見ることにしましょう。 この道灌について有名な話三つを以下に取り上げたいと思います。 一つ目です。 「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」 ここでクイズです。 この歌はだれが読んだ歌でしょうか。四択です。 @ 太田道灌の作 A 道灌が雨にあって蓑(みの)を借りようとした時に農家の娘が作った。 B 後世の人の作 C 兼明親王(かねあきしんのう)の作 正解はCです。 道灌が鷹狩に出て雨にあい、ある農家に入って蓑(みの)を貸してくれと頼むと、そこの娘がだまって、山吹の花を一枝折って道灌に差出しました。道灌は花を求めたのではないとして、怒って帰りました。 この話を聞いた人が道灌に言いました。「それは“七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき”という古歌に、貧しくて蓑(実の)がありませんとの意味を託した娘の心情でありましょう」 実はこの古歌は兼明親王(醍醐天皇の子で10世紀の人)が作ったものです。 以後道灌は歌道に邁進したとのことです。 よって正解はCの兼明親王となります。 この話は江戸時代に作られた軍談書「常山紀談」に載っている話です。創作の読み物で、史実に基づいたものではありません。 従って道灌のこの話も作り話と思ったほうが良いでしょう。 実際の道灌は武将としては和歌の達人でした。自作として良く知られているものとしては、 「わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る」でしょう。 次に道灌といえば江戸城を造った人で有名ですね。徳川家康は道灌の造った江戸城を大改増築して江戸城を本城としました。 それでは太田道灌その人についてお話します。太田家は鎌倉公方家(足利家)の重臣上杉家(扇谷上杉)の家宰(筆頭家老)の家柄です。 道灌は15世紀室町時代中ごろの武将です。時代背景です。京都には足利本家が将軍として君臨していました。関東および東北は足利家の分家が鎌倉を本拠にして鎌倉公方と称して統治していました。日本全体の統治者は京都の足利本家ですが、いわば関東本部長として分家の足利家が歴代鎌倉に常駐していました。 この鎌倉公方家の重臣の筆頭を関東管領と称しており、歴代上杉家が勤めていいました。この上杉家は山内上杉、扇谷(おおぎがやつ)上杉などに家系が分かれていました。太田家は扇谷上杉の家臣です。(それぞれ鎌倉の山内、扇谷に住んでいたのでこのように称しました) 15世紀の中ごろになりますと、京都の足利本家の将軍家と鎌倉の足利分家である鎌倉公方家は将軍職を争って対立します。 更に鎌倉公方とそれに次ぐ関東管領の上杉家との間で対立し、そしてこの両者の対立関係に、京都の足利将軍は上杉に味方します。 関東の武将は両者の陣営に分かれ戦いますが、勝敗の決着が着きません。関東は15世紀中ごろから戦国状態に入ります。 道灌は扇谷上杉家の家宰として、山内上杉家と共同して主君の関東公方(成氏)に対抗します。上杉家のバックには京都の足利将軍が味方します。 このような情勢の中で道灌は扇谷上杉家(当主は定正)の家宰として関東各方面で転戦し、多くの成果を得ます。 当時、鎌倉公方の成氏は鎌倉を追われて下総国の古河(現茨城県古河市)に本拠を移していました。扇谷上杉家は相模国と武蔵国の南部(現東京都あたり)を支配し、武蔵国の南部は太田家が支配の担当です。 道灌は元は品川に本拠の城を構えていましたが、15世紀の中ごろに江戸氏の館跡に江戸城を築城して本拠を移しました。ここを本拠にして武蔵国の北や西、下総国(千葉)方面に打って出たのです。 遅まきながら道灌の正式の名前です。 源 朝臣 正五位 備中守 太田 資長 道灌 (氏) (姓) (位階) (官途名) (苗字) (実名) (法名) 我々はふつう太田道灌と言っていますが、道灌は出家後の法名です。昔の公家や侍は出家したと称して実名(諱)に合わせて坊主の名前を付けて名乗ります。官途名(朝廷での役職)は、備中守ではなく左衛門大夫とも言われ、実名も資長(すけなが)でなく持資(もちすけ)との説もあります。 三つ目の話もご存じの方も多い彼の劇的な最期です。 彼は主君の上杉定正に殺されます。まあ一般的には主君の名前までは知らなくとも主君に殺されたことはご存じの方も多いと思います。 文明18年(1486年)、主君の糟屋形(相模国、今の神奈川県)において風呂屋から出て来たところを切り殺されました。道灌は最期に「当方滅亡」(扇谷上杉家は滅亡する)と言ったそうです。当年55歳です。 最初の和歌(七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき)のくだりは物語ですが、江戸城の築城と主君に殺されたことは本当です。 それでは何故殺されたのでしょう。 一般的には、「主君の上杉定正は太田道灌は戦いに強く、評判が内外に高く、このままだと自分の家は道灌に乗っ取られてしまうことを恐れて誅殺してしまった。」と言われています。 古今この道の研究者は誅殺の理由をあげていますが、ここでは次を挙げておきます。 ○道灌が上杉定正に謀反を起こそうとしていた。 ○道灌は家宰として家政を独占していた。これに対し、他の重臣と対立して いた。 ○道灌は山内家(主君の上杉定正、山内上杉顕定の両家)と対立していた。 真相ははっきりしません。 ただ言えることは、家臣の筆頭が主君に刃向かうことはこの時代よくありました。足利将軍家では管領の細川家の反抗、鎌倉公方に対しては関東管領家の上杉家、山内上杉顕正に対する筆頭の重臣長尾影春など数多くあります。 NO1とNO2が実行支配をめぐって争うのです。 道灌が主君と対立してもおかしくない時代でした・ 最後に道灌暗殺後の太田家です。 嫡子の資康(すけやす)は江戸城を出て、上杉家の敵側、すなわち道灌の敵側でもあった古河公方(足利成氏)に参じました。 ところが道灌の甥たちは、そのまま扇谷上杉定正の下に残るだけでなく、家宰(家臣筆頭)の地位を受け継いでいます。 どうも道灌は他の重臣だけでなく太田一族からも反発を受けていたようです。 尚、古河公方家も扇谷上杉家も山内上杉家も戦国時代中期には北条早雲や長尾景虎(上杉謙信)の隆盛によって滅亡していきます。 一方太田家は道灌の嫡男の家筋である江戸太田氏が存続します。道灌の四代後に娘が家康の側室になり、兄弟が大名になります。各地に太田道灌の子孫と名乗る家があります。 よく知られているようでもあり、良くわからない事が多々ある、そして教科書にも載っていない太田道灌の話でした。 以上 2015年12月11日 梅 一声
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