多か(大岡)食わねえたった一膳(越前)


ご存知江戸南町奉行大岡越前守忠相(ただすけ)についての話です。

表題についてはさておいて、大岡(おおおか)忠相(ただすけ)と言えば「大岡政談」、「大岡裁き(おおおかさばき)」で有名です。

この話は忠相が亡くなってしばらくして講談で語られ、歌舞伎で演じられるようになりました。決まった作者がいたのではなく、後に落語家も噺とし、だんだん増えていきました。

現在80数話あり、3話を除いて実話でなく、中国や日本の古典から取り出してきているお話だそうです。

それでは落語にもあります大岡裁きの一席から「三方一両損」です。

“左官金次郎が3両拾い、落とし主の大工熊五郎に届けるが、熊五郎はいったん落とした以上自分の物ではないと受け取らない。喧嘩になり奉行所へ、南町奉行大岡越前守は、直情無欲の二人に感心して、越前守が1両たして、計4両にして両人に2両ずつわたし、それぞれ3人は1両損として解決。」

この噺には後がありまして、解決の後越前守が二人にご馳走しました。二人はあまりのおいしさに食らいつきます。

そこで越前守から「これこれあまり食べすぎて腹をこわすでないぞ」と、これに「いえ 多か(大岡)食わねえ たった一膳(越前)」と応じました。これが落語の落ちです。これが表題です。

この落ちのいわくについては更に後述します。

大岡政談(大岡裁き)はほとんどお話ですが、三つだけ実話から取っています。

一つは「天一坊」です。

“8代将軍吉宗のご落胤と称する天一坊とその仲間の山内伊賀亮、赤川大繕等が江戸にやって来て老中をもだまして納得させるのですが、南町奉行大岡忠相が偽物と見破り、悪事が発覚し天一坊外関係者は死罪が決まります”

史実の天一坊は品川で将軍の弟だとかご落胤だとかと言って近くの人から銭をせびっていた小悪党の詐欺師でした。

幕府も放っておけず、勘定奉行稲生(いのう)下野(しもつけの)(かみ)正武(まさたけ)に命じて取り調べの上、天一坊は死罪、その他の関係者は死罪ではなく遠島等の罰でした。

取り調べの管轄は上記の通り、江戸町南奉行の大岡忠相ではなく勘定奉行でした。品川は江戸町奉行ではなく、勘定奉行の管轄でした。

 

実話からとった二つ目の話は「直助・権兵衛」です。内容は省略しますが、

これも大岡忠相ではなく同役の北町奉行中山出雲守時春の担当でした。

 

そして三つ目は白子やお熊」です。内容は省略しますが、この事件の担当は大岡忠相でした。大岡政談で大岡忠相が裁いた事件はこの一つです。

 

 さてそれならば大岡忠相は実際に何をして有名になったのかです。その生い立ちからです。

 大岡家は旗本です。大岡家は四家位ありましてすべて旗本でした。晩年、忠相が初めて大名(1万石以上)になりました。

 江戸時代旗本(5200家位)から大名に昇格することめったにありません。これは大変な出世です。

 忠相は一族の大岡家に養子に行きます。生家も大岡です。四男でした。実父は1400石取で、奈良奉行で引退しました。

 四男忠相は延宝5年(1677)、四代将軍家綱の時期に生まれました。

 10歳で親類の大岡(ただ)(ざね)の養子となり24歳で養父忠真の遺跡1920石を継ぎます。籏本としては中位の格でしょう。26歳で初めての役である書院番(五代綱吉将軍の近侍、警護役)に就きます。

 32歳で目付(大名、旗本、御家人の監察、幹部候補生)となります。

 36歳、六代家宣将軍の時に山田奉行に就任します。山田奉行は伊勢神宮、伊勢志摩地方を支配します。

その後40歳で普請奉行に就任。山田奉行からは京都町奉行か大坂町奉行を経てからが普通なのでここで二段階昇進となります。この時期には幕府の吏僚としての優秀さが認めらていたのでしょう。

 

 ここで吉宗が紀伊藩主から八代将軍に迎えられます。享保元年8月(1716)のことです。この人は享保の改革で有名で、徳川政権の中興の祖と言われています。この人があって徳川将軍家はこの後100年以上もったと言われます。

 江戸南町奉行に大岡忠相が抜擢されます。忠相41歳(享保2年、1717年)の時です。

大岡越前守忠相と名乗ります。

 

 何故抜擢されたかです。

 この山田奉行時代に隣接地の紀州藩(藩主は当時吉宗)とトラブルがあり、忠相は山田奉行支配地(幕府直轄領)に有利に裁いたが、吉宗は採決にいたく感心して、将軍になった時に忠相を江戸町奉行に抜擢したとの話があります。

 この説は事実ではないという研究者が多いのが今日の通説です。

 幕府の直轄領と藩との領界問題は奉行の仕事ではなく、幕府の評定所で取り扱われる問題だからです。

 

 町奉行は江戸の町の行政、警察、司法について所管します。奉行は北町奉行と、南町奉行に各一人の計二人います。北町奉行所は呉服橋あたり、南町奉行所は数寄屋橋あたりにありました。南北の地域でそれぞれ管轄するのではありません。それぞれの奉行が月ごとに当番で江戸の町域を全部管轄します。

 

 それでは大岡忠相は町奉行としての功績は何であったのかです。

 一つは江戸の防災対策です。

 吉宗は大岡忠相に具体的な対策を求めました。

 それまでの大名火消しや旗本の定火消しに加え、町人の火消しによる町火消を創設しました。(い、ろ、は48組、火消し約1万人)

 火除地を設定(一定の所に広場を設ける、現在上野広小路の名で残っていますね)

 火の見やぐらの整備。

家の不燃化対策として、旗本の屋敷は建て替えの時は瓦葺に、町人地の表通りの建物は土蔵造りに奨励し、補助金を出しました。

 

 二つ目は米価安、諸色高への対策です。

 幕府は米を買い、諸藩にも米を買って貯蓄するように指示し、流通する米を減らし米価を上げるようにしました。(この時期は米が余っていたのです)

 更に物価高への対策として、業種別に組合を作らせ、幕府(町奉行)は不当な商品の高値をチェックしました。

 貨幣を改鋳(粗悪)して貨幣量を増大しました。混乱もありましたが、落ち着かせました。

 

 三つ目は、庶民のために小石川養生所(病院)を建てました。

 その外に法典や公文書の編さんに尽力しました。

 

 町奉行の間、忠相は江戸の町民からも人気がありましたが、唯一非難されたのが、享保17年(1732)の大凶作で、米価が高騰しで江戸市民が怒り、

米商人高間伝兵衛が米を蓄えているとして、伝兵衛方へ打ちこわしがありました。

 伝兵衛も米を幕府に出庫の予定であり、忠相もかゆの炊き出しもしました。

 その時の江戸での落首(らくしゅ)(世相を風刺した狂歌)です。

 「米高間 壱升弐合をかゆに炊き 大岡くわれぬ たった越前」と忠相を批判しました。(米が高いので 一升二合をかゆにして 多くは食われぬ たった一膳) 注: 高間の“間”は昔は“ので”と読みます

 この落首から上述の落語の「三方一両損」の落ちができています。(いえ おおか(大岡)食わねえ たった一膳(越前)

 

 忠相は町奉行の外に、地方御用という役も仰せつかっていました。忠相が特命事項として受け持っていました。

 この仕事しては、上総国、武蔵国の幕府直轄地の新田開発、荒川、多摩川の堤工事等々があり、吉宗や老中の期待に応えました。

 これらの功労により忠相は寺社奉行に栄転(元文元年、1736年)となります。忠相60歳でした。町奉行就任期間は何と19年でこんなに長く町奉行を勤めた人はいません。

  

 吉宗は延享2年(1745)引退して、息子の家重に将軍職を譲り、大御所となります。

 

 ついで忠相は吉宗から奏者番兼寺社奉行を仰せつけられます。一万石の大名になったのです。籏本からの昇進はめったにありません。

  

 吉宗は寛延46月(1751)68歳で亡くなります。

 忠相は吉宗亡き後6カ月後に75歳で亡くなります。

 

  町奉行として時には町の有力者ともめますが、総じて民衆からも受けが良く、上司の老中松平和泉守乗邑との信頼関係も良く、吉宗―乗邑―忠相ラインにより、吉宗の享保の改革が実行できたものと言えます。

 

 名裁判官としての大岡忠相ばかりが後世に残りましたが、実際の忠相の手腕は行政官としてであります。

在世中も没後も江戸時代通して庶民からもインテリ層からも人気がありました。故に没後大岡政談が生まれたのです。

 

 子孫は明治の版籍奉還まで大名として続きました。

 

 

以上

 

2017年9月11日

 

梅 一声