怨霊(おんりょう)と言えばやはり管原道真(すがわらみちざね)でしょうか。しかし管原道真が歴史上最初の怨霊ではありません。
それでも怨霊の歴史はそんなに古くありません。平安時代の少し前あたりからです。
そもそも怨霊とは、霊(れい)とは何であるかです。
霊は霊魂(れいこん)とも言われます。人間は肉体から霊(魂)が離れ死となります。亡くなった人の霊はその地の山に、海に、墓に祖霊としてまします。そして子孫を見守ってくれます。
生きている人に仇をしたり祟って苦しめたりはしません。人間に祟(たた)るのは悪神です。
これが奈良時代までの貴族から庶民までのほとんどの人の霊についての感覚、思想でした。
怨霊と言う言葉が使われた最初は、日本書後紀の延暦24年(805)4月5日の条で「早良親王(さわらしんのう)の霊魂を慰撫し、怨霊に謝する行事を行った。」旨の記述からです。
日本後紀は日本書紀、続日本紀の後に編纂された日本の正史です。
この事件とその後について語ることによりその当時の怨霊とは何かを見てみましょう。
“天応元年(781)桓武天皇が即位し、都を奈良から長岡京(現京都の南西)に遷都します。
事件は長岡京で起こります。長岡京は未だ造営中で工事が進んでいました。工事責任者は桓武天皇側近の藤原種継(たねつぐ)でした。この人が工事現場で暗殺されたのです。直ぐに犯人が逮捕されました。
ここで暗殺に皇太子の早良親王が関与しているとして、早良は謀反の罪で幽閉されて淡路島に配流されことになりました。早良は淡路島へ向かう舟で自殺して亡くなりました。遺骸はそのまま淡路に運ばれ埋葬されました(785年)。
早良(さわら)皇太子の自殺は身の潔白を主張しての自殺と言われました。
早良は桓武天皇の弟で、二人のお父さんの光仁天皇が桓武の後の天皇として早良を皇太子に決めて亡くなりました。桓武はこの事件で弟を廃太子にして、息子の安殿親王(あでしんのう)を皇太子にしました。後の平城天皇(へいぜいてんのう)です。
ところが早良親王が亡くなって3年目(788年)に、桓武夫人の藤原旅子、4年目に桓武の母親の高野新笠(たかののにいがさ)、5年目に皇后乙牟漏(おとむろ)が立て続けに亡くなります。又皇太子安殿親王が病がちになります。
神祇官が卜った(うらな)ところ早良親王の祟り(たたり)に起因するとされました。
桓武は淡路の早良の陵を再整備したり、人を派遣して霊に陳謝しました。更に罪人への特赦の令、神社への奉幣(供物をそなえて拝む)をしましたが、災異は収まりません。
その後桓武が亡くなる延暦25年(806)まで次から次へと早良の霊への慰撫政策が打ち出されます。
淡路へ僧侶を派遣、幣帛(供物)を奉って霊に謝す。
僧侶による怨霊の鎮撫。
更に早良親王に崇道(すどう)天皇の追称を贈る。淡路に寺を建立。大和国に崇道天皇陵を建立します。早良事件で配流された人々も許され、戻されます。
災異は収まりません。
そこで早良親王以前に怨霊になっているであろう人々をも慰撫することにしました。
桓武天皇のお父さんの光仁天皇時代に、皇太子他部(おさべ)親王の母親の吉子が光仁天皇を呪詛したと言われ、二人は拘束されました。二人は無実を訴え、自殺した事件がありました。他部の死で桓武は皇太子、天皇になれました。
この事件は冤罪と言われていました。二人のためお寺を建立しました。
桓武天皇が亡くなり、平城天皇になった大同元年(806)後も怨霊の慰撫は続きます。
この後の怨霊で有名なのが管原道真事件です。
文人貴族でありながら宇多天皇に引き上げられ右大臣に昇進しましたが、醍醐天皇になり、左大臣藤原時平、ライバルの学者三善清行に讒訴され太宰府の権帥(ごんのそち)に左遷されます。
延喜元年(901)左遷され、左遷後の2年目に太宰府で病没しました。
没後6年後に左遷させた藤原時平が39歳で早世、更に醍醐天皇の皇太子保明が21歳で夭折。
ここで醍醐天皇は管原道真の怨霊の鎮魂のため、道真の左遷を破却し、右大臣に復し、一階級進めて正二位を贈位しました。
これでも怨霊の祟りは収まりません。
保明親王の息子(母は藤原時平の娘)が5歳で夭折。清涼殿に落雷し死亡者が出ます。
醍醐天皇は朱雀天皇に譲位して亡くなります。
その後九州の一般の人々が自在天神と称して道真を敬います。そして民衆の大勢が天神、右大臣官公霊と称して京都へ東上して来ます。
朝廷では京に北野天満宮を立てて道真の怨霊を鎮魂の策を施します。これで
道真は神になりました。
早良親王と管原道真二例が歴史上二大怨霊と言えるでしょう。この外にも平将門、崇徳院(保元の乱で讃岐に配流)の怨霊も有名です。
又物語としては平安時代11世紀初めの源氏物語が有名です。
源氏の妻たちの間での嫉妬による怨念です。六条御息所(ろくじょうみやすどころ)が正妻格の葵上(あおいのうえ)に恨みと嫉妬を持って物の怪となって殺します。この怨霊は生霊(いきりょう)と言われ、六条御息所は生きていて葵上を呪い殺すのです。能でも演じられています。
実は上述してきた怨霊は内容がだんだん変わってきています。この怨霊思想の移り変わりを整理してみます。
先ず飛鳥、平城京時代までは死んだ人の霊が祟(たた)る思想はほとんどありませんでした。
当時のこと日本書紀や続日本紀の記述に頼ることになりますが、死んだ人の祟りとか、怨霊に記述についてはありません。
ところが早良親王を怨霊と桓武天皇が認めてしまい、更にそれ以前の非業の死に至った他部親王と母親をも怨霊としてしまいました。平安京に移る数年前の長岡京時代です。
この時の怨霊は謀反の疑いで罰せられ、自殺した人たちで言わば天皇家の政権闘争で敗れた皇族たちです。
怨霊の対象は勝った関係者に病気や死をもたらします。外に干ばつ等天変地異を引き起こします。
このように平安時代の前後から現れた当初の怨霊は天皇家の政権闘争で敗れた人の怨霊だったのですが、平安中期の管原道真の場合はただ左遷されただけで怨霊になりました。
怨霊の原因になる対象がただの政争にも広がりました。
おまけにこの怨霊は関係者のみならず一般人への祟りが大きく庶民が嘆きます。天皇、朝廷は道真をついに神にして鎮撫します。
これが北野天満宮です。
天満宮はその後全国各地に分社され、学問の神様になっていきます。人が神になった最初です。
11世紀の初めに著された源氏物語の六条御息所は生霊(いきりょう)です。生きている人間が生きている人を呪って殺す話です。
それまでは怨霊は死霊でした。それが生霊で登場しました。
さらに政治的な恨みでなく個人的な嫉妬やうらみが原因です。どんどん怨霊の原因が拡大します。
平安時代末から武士の世の中になります。
武士の世界には怨霊は認められません。武士は殺し合いが仕事。怨霊など問題にしていれば仕事になりません。
しかし天皇、お公家さんたちは怨霊の鎮撫、鎮魂の対策をします。
高僧にお願いして怨霊をなだめるための法会をもよおし、供養し、成仏を願います。墓を整備し、寺を建てました(管原道真は神社)。
この外に武士に守ってもらうこともしました。
室町時代になって能で幽霊が取り上げられるようになりました。能の幽霊は
基本的には生きている人間に祟る物語は少ないようです(源氏物語からの葵上はありますが)。
幽霊が室町時代から江戸時代に霊の代名詞のごとく怪奇談に登場します。幽霊は一般人にはばひろく現れ、関係者への怨霊の場合もありますし、脅したり、ただ語りかける霊もあります。
江戸時代の上田秋成作「雨月物語」は怨霊、幽霊、妖怪のお話です。
それから怨霊対策のその後ですが、管原道真のように主要な方々は京の上御霊社、下御霊社、崇道神社等に祀り神様になりました。
以上
2018年9月8日
梅 一声
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