お米と日本国家

 


 

お米と領地と年貢(租税)を中心にお米と日本国家の関係を見てみたいと思います。

縄文時代は家族(10人位)単位で採集、狩猟で自活出来ました。

 縄文時代晩期には食糧を水田稲作に頼り始めると、水田造成のために集団で

の労力が必要で、又田植えや稲刈り農繁期には他の家族との協同作業が必要と

なります。

ここに大規模集落ができます。

 集団活動(田の造成、水の管理)にはリーダーが必要です。近辺の集落と は開発地、水管理のことで、又余剰米の分捕りもありもめます。

 より強力な武力に秀でたリーダーを求めます。

世は弥生時代です。

クニ(豪族)の出現です。

 各地でリーダーはクニの王を名乗り、クニを支配します。領民から租税を

とります。領地争いをします。

弥生時代、古墳時代を経て飛鳥時代に大和大王が日本国を統治します。

大和王朝も政権安定のため食糧の基幹を水田稲作による米におきます。各地

に水田を広め、東北は岩手県南部あたりまで嫌がる蝦夷を強制あるいは説得して水田を開拓させます。

国の発展は人口増にあり、そのためにはコメの増産が必須と考えました。確

かに他の作物より効率よく収穫ができますから。

 

奈良時代の租税は租・庸・調と言われ庸は労力の拠出、調は特産物の拠出

で、租は米での年貢です。祖は米収穫の3パーセントでした。

 江戸時代は30%程でしたから随分と少ないですね。

 当時は百姓一人当たりの収穫が小さく、後は百姓の食糧にしないと生活でき

ません。3パーセント分は国衙の役人の食糧と近畿地方の祖は皇室と中央政府

役人の食糧分です。そのころの税は特産物拠出の調が大きかったのです。

 

平安時代に入り水田開発は進むのですが、私有地の荘園が増え、国衙領(租

税対象地)もありで、複雑な所領(農地)構成です。

 

 干ばつに備えて灌漑の池の造成が進みます。しかし未だ不十分です。

 コメの作り手である百姓と領主(国衙領・荘園)とは土地の耕作権と占有権

を主張しながら話し合いで年貢を納めていました(特産物、労働も)。

 

 鎌倉時代から室町時代は武士が領地をもつ封建時代になっていきます。国衙

領、荘園、武士の領地と分かれていましたが、その後の戦国時代にはほとんど

すべて武士の領地となって行きました。

 この間西日本で二毛作(イネとオオムギ)が始まります。

百姓は租税を米の取れ高又は田地の面積で、畠の収穫物、特産品を銭又は現

物で領主に収めます。

 米は租税の主たる産物になります。

 

 徳川幕府は百姓の租税はすべて米で納めさせる石高制をとります。水田は

もとより畠(麦、アワ、野菜類、果物等の収穫地)も住居地からも土地一反

あたり米で幾らと年貢が決められます。

水田には上・中・下の決められたランクがあり例えば上田は1石2斗、中

田は1石、下田は8斗とかに決められます(領主によってもっと高いこともあります)。畑地はもっと低くされます。これに3割位の年貢をかけます。

収穫高ではなく、土地によってあらかじめ決められた年貢です。

 豊作の時は百姓の実収が多くなりますが、不作、凶作の年は窮してしまいま

す。

 幕府、藩は年貢の米を主人の食糧と家来へ給与、扶持米を配った後、余剰米

は大坂や江戸で売却します。

 収入はほとんど全て米ですから幕府、藩にとっては最重要商品であると共に

もう貨幣のようなものになりました。

 ただ百姓にとっては約3割にあたる年貢は厳しく、米が取れない畑にも米で

の年貢がかかり、米を充分に食べられません。半分以上オオムギ、ひえ、アワ

ななどを混ぜての食事となります。

 例えば5人家族(親一人、夫婦、子供二人)で水田5反と2反の畑の百姓は

年貢3割として、5石の収穫で約2石の年貢となります。

 (水田は中田として1石×5反で5石、3割で年貢1,5石、畑は水田より低く、0,7石として2反で1,4石、3割で年貢は0,42石、田と畑で計1,92石)

 

 食糧としてはコメは3石しか残りません。畠からの収穫物で現金収入はあり

ますが、米を一石やそこら売らないと生活できないでしょう。5人家族で食糧

としては年間コメなら5石必要です。

足りません。畑作から、二毛作からのオオムギを混ぜて食します。

 

 こんな生活がギリギリでは百姓は土地に居つづけません。凶作の時は村から

逃散したり、江戸や大坂に働きに出ます。水田が休耕となり田が荒れます。

幕府、藩の年貢が減ります。

 幕府、藩の有識者が新田の開拓に、又現金になりやすい畑での収穫物栽培に

力を入れさせ、特産品の生産に力を入れさせます。

  

それでも百姓は年貢が収めきれず田んぼを有力な百姓に渡します。地主と小

作農ができます。

 百姓は満足にコメが食べられないのにコメは贅沢品の酒、菓子類の加工品に

なって行きます。

 江戸時代年貢は米で、武士の給与は下級武士以外はコメですが、武士たちは

自分たちの食糧以外のほとんどは現金に換えて日常生活のための必要経費にあ

てます。

 領主は不作の時は百姓からの訴えにより租税率は3割をきります。家臣には

決まった扶持を払えません。豊作の時は市場で米の値が下がり、年収が実質減

ります。

 このように江戸時代は、流通貨幣は米と銭との二本制と言えます。

 日本史の中で最も米を最重要視した時代と言えます。

 

さて明治になり政府は年貢も官吏の給与も全て現金制にしました。

 西欧での主食は小麦からのパンでしたが、日本人は上から下まで米文化は崩

せません。

 江戸時代より明治に入っても更にコメを増産してコメによって人口の増加

国力の増大を計り、そして国民の満足度を充足させることを政策の基本に置き

ます。

 コメの生産技術にも力を入れ品種の改良で北海道でも稲作が可能になりまし

た。

 しかし地租改正で、これまでの年貢は米をやめ、所有地の値段で税をかけま

した。これまで米を売って現金に換えることに慣れていない農民は買い手の商

人に言いようにされ、値をたたかれ租税が払えません。田んぼを有力地主に売

る羽目になります。

 土地持ちの本百姓(自作農)が減り大地主と小作人の構図になっていきま

す。

 

 明治以降にも、米は不作・凶作の時はありましたが、おおむね順調の出来で

したが、不足の時は朝鮮、台湾からの輸入に頼っていました。しかし朝鮮、台

湾で増産体制をとったため国内の農家はそれに押されて困窮の時もあり、又米

はあるのに米商人が買い占めて米高騰の時期(第1次大戦後の好景気時)もあ

りました。米騒動が起ります。

 日本人の米好きはピークになります。

 太平洋戦争前は一人150キログラム(1日3合)を食していたのです。

現在は50キログラムです。

 

 戦中、戦後は深刻な米不足です。台湾、朝鮮からの輸入はありませんし、男

が出兵で作り手の不足もありました。

 しかし戦後これを乗り越えます。

 ところが一転、今度は米の過剰です。昭和42年から年1400万トン代の

生産で、消費の1200万トンをはるかに越えるようになり昭和46年から減

反政策、更に休耕政策、ムギや大豆への転作奨励がとられるようになりまし

た。

 農家も減ります。

 日本人の食事文化が変わります。主食は米だけでなくパン食の需要も米に近

づきます。肉類等副食も増え、米一辺倒で無くなります。米消費量は減ってい

きます。

現在一人当たり米50キログラム、小麦32キログラムの消費で、米の主食適正生産量720万トンです。

 

 日本では現在北海道から沖縄までどこでも水田稲作をします。旱害も冷害も品種の改造で克服しました。

 これまで日本では農民も政府もいかに一反あたり量が取れるか、新田開発で

量の拡大に力を入れ、それに味でした。

 現在では量の増大は必要ありません。生産者は味で勝負です。機械化の効率化で生産コスト減は図られねばなりません。安い外米に対して関税で守られていますから。

 外米はインディカマイでパサパサの食感で日本人は好まないのですが、料理によっては合うようです。それにもし関税がかからず国内産の半分以下の値段だとしたらどうなるでしょうか。

生産コスト減の努力は小麦のパン、麺への対抗もあるでしょう。

 江戸時代おおざっぱに言って1石(150キログラム)1両とし、1両は

10万円としますと1キログラム666円です。現在魚沼こしひかりは別格の値として他の銘柄の平均は500円位でしょう。

 25パーセント位しか安くなっていません。水田の一面積も広くなり、機械も導入され人手が掛からなくなってもこんなものでしょうか。

 私の計算ではこうなるのですが、異論もあるかとは思いますが。

 いずれにしても日本人の好みに合う日本人によるお米は今後も生産され食されることでしょう。

以上

 2022年10月16日

 

梅 一声