御徒と言う御家人


  御徒は“おかち”と読みます。東京にお住まいの方は山手線・京浜東北線の

御徒(おかち)(まち)駅をご存知のことと思います。山手線・京浜東北上野駅から東京駅に向かって一つ目の駅です。

 この辺りは住所も昭和39年までは御徒町と称していたのですが、町名変更がありまして現在は東京都台東区台東・上野何丁目と言っています。

 この御徒町は江戸時代の将軍家の家来である御徒(おかち)が住んでいたことから名付けらました。

 今回は御徒は何者であったのかを物語ることに致します。

 

 江戸時代の御徒は徳川将軍家(徳川幕府)の下級武士である御家人が勤める職種・身分の一つです。

 徳川将軍家の家来の身分は知行1万石以上の大名、1万石未満旗本(御目(おめ)(みえ)以上)と御家人(ごけにん)(御目見以下)に分けられます。

 御家人は将軍家の直参の家来ですが、将軍に正式にお目にかかれない御目見以下の下級武士のランクとなります。

 この三者の人数構成ですが、大名は100数十余人、旗本が5200人位、そして御家人が17000人位です。旗本と御家人の合計で22000人位となります。

 この人たちが幕府の役職について幕府の職務を遂行します。

 但し旗本の約40パーセントの2000人位、御家人の30パーセントの

5000人位は人手が多すぎて役職につけません。この無役の侍たちは、旗本の3千石以上は寄合席に、それ以下の旗本、御家人の侍は小普請(組)に所属して待機します。

 

 御家人には両刀をさす侍身分の者とそうでない身分の者がいます。中間、小者等とよばれ雑用の担当で両刀をさしません。将軍家以外の藩では侍身分でないものは奉公人と言っていますが、将軍家では御家人に中に入れます。

 

 侍身分の御家人は与力、同心、御徒等の身分に分かれます。

 前置きが長くなりましたが、さて御徒です。

 御徒は将軍家の家来ですので御をつけますが、(かち)の事です。徒は元々の意味は歩くことで、徒歩の事です。戦国時代までは騎馬侍でなく騎馬に乗らないで戦う、または騎馬資格のない戦士のことで徒士(かち)言っていました。

 騎馬侍と足軽の間の身分です。足軽は侍でなく兵卒ですが、徒士は準侍でした。近代軍隊で言うと下士官でしょうか。

 

 江戸時代の徳川将軍家(幕府)では、組織を戦時の体制から平時の体制に変えました。

 徒士は御徒と言われ、下士官任務から江戸城の警備や将軍の御成り(外出)の警備の役につく職務となりました。侍身分になったと言えるでしょう。

 

 因みに最高執行役の老中や若年寄は譜代の大名から、幹部役職者の江戸町奉行、勘定奉行等の奉行職そして将軍側近の大番等の将軍のお世話役・警護役は旗本から起用されました。

 御家人はこの幹部職員(旗本)の下でそれぞれの役所に属して職務を遂行します。

 御家人である御徒は御徒という職につきます。御徒は身分であって役所の名前(所属の職名)でもあります。

 

 御家人である与力、同心は将軍のお側で警備する大番、書院番の配下として、又町奉行等各奉行の配下としてそれぞれ勤務します。原則職場変えはありません。

 御徒身分の所属勤務は御徒だけです。しかし御徒から人事異同で勘定奉行所や長崎奉行所等に移り、俸禄も増えたり、更に昇進して旗本になることもまれにあります。

与力、同心の所属は一生いや代々変わりませんし、同心から与力に、与力から奉行(旗本)の昇進のケースはありません。

 テレビや映画においても町奉行所の与力、同心がどんなに手柄を立てても同心が与力に、与力が奉行どころか旗本にもなる場面はありません。その通りなのです。

 それでは更にこの御徒の身分、勤務、生活について旗本や他の御家人(与力、同心)と比較しながら見てみます。

 身分は御目見以下の御家人で、御抱席(おかかえせき)。即ち将軍に正式にお目見かれない家来で、雇い形式は一代限りです。しかし実態は次の代(息子)に相続出来ます。

 旗本は御目見以上で、御譜代席と称し、家禄は相続できます。

 与力、同心も御家人で御目見以下です。与力のほとんどは御抱席です。

 次に御徒の俸禄(家禄)です。70俵5人扶持を玄米で頂きます((たわら)(とり)といいます1俵は3、5斗ですので24石5斗。1人扶持は1日玄米5合換算で1、8石(5合×360日)で5人扶持では9石。合計で年間33石5斗が支給され、これを年3回に分けて支給されます。

 1石が1両としまして、一両を10万円として現在価格で年俸300万円というところですか。

 住宅ですが敷地は拝領できます。(地代なし)下谷(御徒町)、深川元町、本所錦糸町に御徒の組(隊)ごとに居住区が決まっています。敷地面積は130坪位です。建物は自分で建てます。20~30坪位です。

 米以外の諸物価が現在より安いと言っても生活は楽ではありません。

 敷地の一部を町人に貸して地代を取り、敷地に畠を作って野菜を得ます。

 更に内職をします。(後述)

 家来は雇いません。子育て等で忙しい時には住み込みの下女を雇います。(年間給与1両で衣食つき)

 

 一方与力は100~200石の知行取りが多いのです。知行は自分の領地からの年貢です。100石で35石の年貢(3割5分)と見ます。

 35石は100俵となりますので(1俵は3、5斗)、100〜200石は俵表取りの100〜200俵の俵取りと同じになります。

 与力の住まいも決まっています。町与力は有名な八丁堀です。300坪の敷地もらえます。

 

 同心は30俵2人扶持です。

 御徒も生活は楽ではありませんが。同心の給与では生活ができません。みんな内職をしました。(後述)

 町奉行所の与力や同心は大名や大店からの心づけがあって裕福のようでした。

 これより見て御徒の待遇は、与力と同心の間と言えますが、御徒は人事異動で旗本にもなり得る身分・職でもありました。

 

 組織としての御徒は若年寄(老中に準ずる最高執行責任者)の下に、徒頭(かちかしら)(旗本)1名その下に20組の配下、各組に2人の組頭。各組28人の御徒で組員

30人。合計600人の構成です。

 仕事は、常の仕事として江戸城内の御座敷勤(警備)、年に何回かの将軍の御成り(増上寺、寛永寺への外出)の時の行列の警備です。

 御座敷勤には本番、加番所、御供番、二の丸番の4カ所の警備があります。

 本番は江戸城本丸の玄関警備です。御玄関の遠侍の間に詰めます。各組25人で、14人ずつ朝晩交代で24時間詰めます。

 加番所は本丸長廊下の警備です。本番と同じく24時間詰めます。

 御供番は老中、若年寄の城内でのお供です。15人編成です。

 二の丸当番は15人編成です。

 この4カ所の警備は20組(各30人)交代で勤務します。

 1日勤務しますと次は5日目が勤務となります。休みが多くゆったりとした勤務です。戦争がない平時で家来の数が多すぎたのですね。ワークシヤリングしていたのでしょう。

 江戸城の警備や将軍の護衛は御徒だけの仕事ではありません。旗本や与力、同心が受け持つ、将軍の護衛、城内警護、大名が受け持つ門番がありその数は数千人でしょう。

 次に御徒の衣服ですが、羽織、(はかま)が通常の勤務のスタイルです。旗本格以上の幹部は(かみしも)、袴です。御徒も式日や将軍の御成りの供時は裃を着用します。

 

 同心は30俵2人扶持、これ以下の無役の御家人も多数です。彼らは生活のためみんな傘張り、植木、朝顔作り、草花、小鳥、竹細工、金魚などいろいろの内職を営みました。

 御徒は同心より俸禄は上ですが、自由時間もあり内職をやっていた人が多かったでしょう。

 苦しいし生活で借金が重なり御徒の身分を売る人も出てきます。相場は

500両です。今の5千万円程でしょうか。因みに与力は千両、同心は200両の相場だったようです。

 

 御徒から出世した人には幕末に川路聖謨(としあきら)が勘定奉行、外国奉行に、井上直道

が町奉行、軍艦奉行になっています。

 これほどの出世でなくとも勘定奉行配下の御勘定(旗本)になった人もいます。

 江戸城本丸玄関を守る誇り高き直参御徒の話でした。

以上

 2019年2月11日

梅 一声