織田信長の桶狭間の戦いの意味 


 

織田信長(49歳没)は日本の歴史上、現在もっとも人気がある人物と言われています。ほぼ天下を制圧したところで本能寺の変で明智光秀に討たれます。(1582年)しかしながら戦国時代から天下平定へ向かう政治能力と軍事能力は他に抜きんでるものがあったことは間違いないでしょう。

信長はその途中でいくつものの戦いをしますが、初期のころに戦いで織田信長はその勝利で一躍その武名を天下にあげ、天下制圧への道を切り開いた戦いに“桶狭間の戦い”(桶狭間合戦)(1560年)があります。

それでは駿河の今川義元との戦いであった“桶狭間の戦い”の勝利は信長にとって何を意味する戦いで、奇襲作戦と言われる作戦の意味は後世に何を残したのでしょうか。

駿河・遠江・三河の大大名である今川義元が1560年3万の兵で信長領土の尾張へ進軍してきた目的が京へ向かうのが最終目的か、尾張への侵攻だけが目的だったのか解明できていません。

いずれにしても今川義元は尾張に進軍し、先発隊はまたたく間に信長の拠点である 鷲津と丸根の砦を攻め落として進軍し、義元は本陣(野陣)を同年5月19日の昼ごろ

桶狭間(この地区のほとんどは現在の愛知県豊明市)に設けました。

これに対し、信長はその日の早朝、兵3千で居城の清州の城から出陣して義元軍と桶狭間で戦い、勝利したのです。

こう言ってしまえばそうなのか、だけに終わりますが、信長軍3千が義元自身(軍3万)を討ち取ってしまったのです。寡が多に勝ち、総大将まで討ち取ってしまったのです。戦国時代でも軍3万に守られた戦国大名の首が取られることはありません。

これによってその後戦国大大名今川家は衰退に向かい、三河の徳川家康が信長の味方になり、東方より直ちに攻められる危険がなくなりました。これにより信長は美濃(斎藤龍興)への攻撃に専念できるようになり、そして京都をめざすことが出来たのです。

故にこの勝利は歴史上重要な出来事と位置づけされています。それでは信長はどのような作戦で義元を討ち取ったのでしょうか。

従来説は、「義元が昼食時で休んでいて油断していた時に信長軍がひそかに脇道から進み、にわかな悪天候をも味方にして、奇襲作戦が成功した。」これは江戸時代から今日までの多くの小説に記載されており、旧陸軍もこの説をとっていました。

しかるに1993年藤本正行氏が新設を発表、太田牛一の信長公記を基本史料とされ「信長軍はにわかな悪天候を味方にして桶狭間の義元本陣まで、脇道でなく正面を突破して義元本陣にたどり着き義元を討ち取った」とされました。

信長は奇襲でなく堂々と正面攻撃で勝ったのだと自説を展開されました。今日ではこの説が有力となっています。

司馬史観の司馬遼太郎氏は、奇襲作戦説をとっています。彼の見解は次の通りです。

「歴史上日本の戦いの奇襲作戦の代表は源 義経の一の谷戦いと屋島の戦い、そしてこの“桶狭間の戦い”があった。これ等の奇襲作戦の成功がその後の日本の軍事作戦の基本となった。

太平洋戦争でのハワイ真珠湾での日本海軍の奇襲作戦もこの伝統によるものであるが、真珠湾奇襲作戦はその時は成功しましたが、太平洋戦争そのものには日本は敗戦した。

そもそも奇襲作戦は寡の軍が大軍に向かう時に行う作戦で、危険が伴うもので相手に察知されれば大敗に帰し、全滅の恐れがある作戦で指揮官はめったにとらない。信長はこの戦い以降一度も奇襲作戦はやっていない。いつも味方は大軍にして敵を攻める作戦であった。正攻法で攻撃した。」

司馬遼太郎の奇襲作戦の多用の危険性を説いています。彼の見解は本人が旧陸軍の戦車隊長であっただけに説得力がありますね。

「桶狭間の戦い」の信長の作戦行動については、私は従来説ではなく基本的には藤本説に賛同し、同氏の説にいくらか手を入れた説を持っています。

詳しくは本ホームページ掲載「桶狭間合戦における両軍の進軍ルートの検証と勝敗の要因」ご覧ください。

以上

  2012年12月17日