秀吉に翻弄された織田信雄の一生


 

秀吉は豊臣秀吉です。織田信雄(おだのぶかつ)は織田信長の次男です、信雄を“のぶお”と呼ぶ研究者もいます。

 今回は豊臣秀吉の天下取りの策略の過程でこの信長の次男坊(のぶ)(かつ)の数奇な武将一代をも見てみたいと思います。

 信雄は永禄元年(1858年)信長の次男として生まれました。少年の頃に南伊勢の北畠家に養子に出され、その地で大名として信長の命に従い、各地の戦闘に従軍します。

 

織田信長はほぼ天下を掌中に収めたと思われたその時、明智光秀の謀反により京都本能寺で倒れます。信雄26歳の時でした。

 この後は、豊臣秀吉が信長の訃報を聞き、毛利と急きょ講和して、京都に軍団とともに向かいます。そして天正10年(1582)6月13日午後には明智光秀と山崎(京都の南西、天王山の麓)で戦います。秀吉軍の完勝です。光秀は逃亡中に農民に竹やりで殺されました。これを山崎の戦いと言っています。

 

信長の息子の内、長男信忠は京都で自刃しました。三男の信孝は本能寺の変の時、四国の長曾我部を討つ為に軍団の総大将として堺で待機中でした。

この人は次男信雄と同い年の三男です(異母兄弟)。

 変を聞いて京都に馳せ参じたい処でしたが、兵の数が7千で、光秀の1万5千に及ばないことからもたもたしている間に秀吉が軍2万人を引き連れて、中国(岡山)か戻ってきました。

 秀吉から自分の軍に加わって光秀を倒さないかと呼びかけがあります。信孝は秀吉軍に合流しました。

それでは本稿の主人公次男の(のぶ)(かつ)はその時どうしていたのでしょうか。本能寺変の時は自領の南伊勢にいました。動きが鈍く、山崎の戦いには参戦できませんでした。

  

 光秀を滅ぼした後、重臣が清須(尾張)に集まって織田家の跡取りを決めること、新領地の決定と織田体制について話しあわれました。これが世にいう清須会議です。清須城で信長の重臣と次男の信雄と三男の信孝が集まりました。

 重臣の出席者は、柴田勝家(織田家譜代筆頭、北陸方面司令官)、羽柴(豊臣)秀吉(中国方面司令官)、丹羽長秀(譜代、四国討伐軍副司令官)、池田(つね)(おき)(譜代)となります。

 

 清須城には次男信雄と三男信孝は呼ばれましたが、会議は上記重臣四人で行われました。織田家跡目について(のぶ)(かつ)信孝(のぶたか)が己を主張していましたの、当事者の二人には遠慮してもらったのです。

 先ず、織田家跡目について話し合われ、秀吉が三法師(3歳)を押し、柴田は三男信孝を押しましたが、丹羽長秀と池田恒興が秀吉案に賛同したため3対1で三法師(秀信)に決まりました。

 三法師は信長の嫡男信忠(本能寺の変で切腹)の子です。

 秀吉は前もって予て柴田嫌いの丹羽に手を組むことで同意を得ていました。さらに池田にも。もともと池田は他の3人に肩を並べるほどの地位ではないのですが、を秀吉が自分の賛同者を増やすために会議のメンバーに入れたのです。

 

 領地については、秀吉有利に裁定されました。

 何と言っても実際に光秀を討ったのは秀吉であることは周知の事実です。

 柴田も次男信雄も参戦できなかったのですから。

 そして今後の織田体制は宿老4人の合議体制が確認されました。

 

 ところが柴田が越前に帰った後すぐに4人体制は崩れます。

 秀吉を軸に丹羽と池田連合に対して柴田を軸に三男信孝連合の構図になります。柴田嫌いの丹羽、池田が秀吉陣営に入りました。柴田は信長亡き後は譜代筆頭の自分が織田体制を主導するのが当然であるとの思いです。

 三男信孝は秀吉の天下取りの野心が見える中、柴田と組んで織田家の実質跡目となって天下を取りたい。

 信孝は先ず手を打ちます。

 信長の妹で自分の叔母にあたるお市(浅野氏滅亡で実家に戻る)に頼み、柴田に嫁いでもらう。これで信孝と柴田は強固な結びつきとなります。

 さらに信孝は織田家の跡目である幼児の三法師を自分の城である岐阜城に抱え込んでしまいます。清須会議では三法師は安土城で養育が決まっていました。

 三法師を得たことで柴田・信孝連合は秀吉への対抗では、信長の跡目をバックに持つことになり天下への大義名分を得たことになります。

 

 この時期は信長が没したとはいえ、未だ名目の上では織田体制であり、跡目をかついでの戦は味方の動員力で有利に働きます。

 

 これに対抗して秀吉は、次男信雄に跡目にしようとして働きかけます。信雄はこれを受け、もともと三男信孝とは仲が良くないこともあり、秀吉と組みます。

 三法師を跡目にしたことは秀吉が提案して四者が合意したのです。秀吉はこの合意を壊しました。四者の合意体制は分裂です。

 次男信雄は柴田・信孝連合に勝てば、自分が織田家の跡目になり、天下は自分のものになると思いました。

 秀吉の天下取りの野望を感ずかなかったのです。ここでの秀吉の信雄への接し方は主君のようにしましたから。

 

 三男信孝は天正10年(1582)12月に柴田の援軍がないままに単独で秀吉に対抗してしまい、岐阜城であっさり秀吉軍に降参します。

 秀吉は、信孝は秀吉の主筋ですので、信孝に害をなしませんでしたが、三法師は京都へ連れて帰ります。秀吉は玉を得たのです。

 これで秀吉は三法師と次男信雄を擁しての対抗となり、柴田との戦いでの大義名分がたちます。

 

 翌天正11年4月秀吉と柴田との雌雄決戦となります。これが賤ケ岳の戦いです(滋賀県、琵琶湖の北側)。秀吉の完勝です。柴田勝家は越前北ノ庄城で自刃します。信長が倒れた翌年のことです。

 柴田に呼応していた信孝は賤ケ岳に戦いの後、信雄によって自刃させられます。秀吉は主筋である信孝を自分の手では殺しません。兄弟の信雄にやらせました。

 

 秀吉は柴田と三男信孝討滅で日本で最大の勢力となりました。本能寺の変から、そして清須会議から10カ月です。

秀吉は柴田、信孝を倒し、幼い三法師を掌中にしましたので、次男信雄には遠慮はいらなくなりました。

 秀吉は、信雄に対し打って変わって態度を変え、自分に臣従せよと言います。

 信雄は怒りました。秀吉の天下取りの野望がはっきり見えて来たのです。

 信雄は秀吉に通じているとして自分の家老3人を謀殺しました。

 そして徳川家康に連合して秀吉に対抗することにしました。

  

 家康・信雄連合軍と秀吉軍が戦います。これが小牧・長久手の戦いです(天正12年4~9月)。実際の戦場は信雄領地の尾張、北伊勢全体に及びます。

 長久手での家康軍勝利はありましたが、その他の戦場では秀吉有利に展開しました。

 信雄は実子を人質に出して秀吉と講和します。(天正12年11月)

 そしてその後観念して、秀吉の雑賀攻め、四国攻めには兵を出して臣従していきます。

 秀吉に通じているとして家老の3人まで殺して、その10カ月後には完全に臣従です。主人から家来に入れ替わったのです。

一方家康も次男(実質長男)の於義丸を人質に出して講和します。結局小牧・長久手の戦いは家康・信雄連合の敗戦と見ることが通説になっています。

 

それでも家康は秀吉になかなか臣従しません。信雄は秀吉の指令で家康への説得役になります。

家康は結局秀吉に臣従しますので秀吉の役にたったことになります。

 

ついで秀吉は小田原の北条の討伐に向かいます。この時も信雄は秀吉の指令で北条に降伏を迫る説得役になります。

北条は降伏しますので秀吉の役にたったことになります。(天正187月)

 

戦後処理において秀吉は、家康を関東に転封を命じ、家康は受けます。家康の後(駿河、遠江、三河、甲斐、信濃国)には信雄を転封させようとしますが、信雄は「今まで通りの尾張国と伊勢国5郡で良い」とこれを嫌がります。

秀吉は命令に服さない信雄を改易にして、身を下野(しもつけの)(こく)(栃木県)那須に追放処分してしまいます。(天正187月)

信雄が何故領地加増の転封を嫌がったのか分かりません。先祖代々の地である尾張国から出て行きたくなかったとのではないかと言われています。

 

観念して秀吉に臣従して以来それなりに秀吉に従って来ましたのにちょっとわがままを言ったら領地を全部没収で追放処分です。

秀吉から見たら北条氏を倒し、天下を制覇したこの時期、もう織田家は必要がない、信雄は今後役にたたない、むしろいつ神輿に担がれ敵対勢力になるとも限らない危険分子位の意識だったのでしょう。

 この人信雄は信長の息子が故に秀吉に振り回されたのか、政治能力がないのに高見を望んで自滅したのか、一時は秀吉に天下様のように遇され、ついには追放されます。

 気の毒な人なのでしょうか。その時、その時の政治情勢への判断があまかったのでしょうか。

 

後日談があります。

その後家康の口利きもあって、秀吉に許されて本人は大坂住まい、長男を5万石の大名にしてもらいます(没収以前は50~60万石位、)。

秀吉没後の関ケ原の戦いでは本人は家康側にたち、又大坂の陣でも家康側にたち、戦後5万石の大名にしてもらいました。

しかし長男は関ケ原では西軍にたち、戦後長男は追放(後に病死)で領地は没収されます。信雄分の5万石は存続します。

どうも信雄は賢くなって自分は家康側に、長男は西側(石田光成側)にさせてお家の存続を図ったのではないかと思われます。

彼もしたたかに知恵がまわるようになったのですね。

寛永7年(1630)家光将軍時代に京都で没します。享年73歳でした。

 

 織田信雄は後世の歴史家より評価の低い人ですが、難しい時期に何とか乗り越え、生き延び江戸時代も大名として家を存続させたことはそれほど無能な人とも言えないのかもしれません。

天才的な政治家・武将である信長、秀吉、家康の前では数段落ちる能力ではあったのでしょうが。

以上

2017年10月8日

 

梅 一声