お代官様とお奉行様


 

お代官様とお奉行様

先だってある人より「代官」と「奉行」の職種はどう違うのかとの質問を受けました。とっさに一言で説明することに困りました。

 時代小説や歴史小説を読んでいますと頻繁に「代官」・「お代官様」と「奉行」・「お奉行様」が出てきます。疑問の方も多いと思いますので、今回はこれをテーマに致します。

 

 「代官」とは{正官(長官・領主)の職務を代理者として執行する人}、「奉行」とは{貴人(公卿・領主)の職務の一部をうけたまわって執行する人}となりますが、字面だけで述べますと分かりにくいですね。

 

「代官」と「奉行」の言葉は平安時代の後期に使われ始めますが、頻繁に出て来るようになるのは鎌倉時代からです。内容は時代の変遷で変って来るのですが、現在我々が時代小説等で目にとまるのは江戸時代の「代官」、「奉行」ですのでこれを先ずお話します。

 

それでは「代官」からです。

“将軍(幕府)又は領主(藩)から代理としてその直轄領の支配を命ぜられ、現地に赴任して年貢の徴収や警察、裁判等の行政を行う担当の家臣。郡や地区ごとに選任される”と言うことになるのですが、更に補足します。

「代官」は領主(殿様)ではありませんので、年貢高の決定権はありません。

幕府(老中や勘定奉行)にお伺いを立てねばなりませんし、重要事項についてもお伺いを立てねばなりません。藩の代官の場合は家老にお伺いを立てねばなりません。

殿様(領主)は将軍様から領地を知行としてもらっており、支配地については、年貢高は自分で決め、よほどの重要事項(国防、キリシタン等)以外は自由裁量で決められます。

江戸幕府(将軍)の直轄地(天領)は関東を中心に全国で420万石と言われていましたが、その年貢が将軍家の経費と幕府の運営費に使われるのです。

この直轄領の行政官が「代官」です。関東(関八州)は、将軍―老中−勘定奉行―関東郡代―郡代・代官が組織の基本形です。

関東以外にも直轄地はありましたが、勘定奉行の下に代官が派遣されます。幕府の代官は旗本や御家人から選ばれます。代官の数は時代によって違いますが、50位でしょうか。世襲ではありません。関東郡代だけは伊奈氏が世襲していましたが、18世紀の終わりに同氏は断絶し世襲はなくなりました。

 

諸藩の直轄領の代官の上司は家老や郡代となります。

 

次に「奉行」です。

「奉行」も家臣が将軍(幕府)又は領主(藩)から命ぜられる官職です。

どうゆう官職があったかを幕府から挙げてみます。

寺社奉行、勘定奉行、(江戸)町奉行、普請奉行(御城の工事担当)、佐渡奉行(金山担当)、長崎奉行(貿易担当)等々数多くあり、将軍、老中、若年寄等の下に組織化されています。江戸時代の奉行はこのように固定化された組織名が付いておりました。

組織の中で特定の仕事を実行するための機関であり、そのまま官職名でした。寺社奉行、勘定奉行、江戸町奉行は幕府三奉行として有名です。勘定奉行は

財政と直轄地を管掌、江戸町奉行は江戸市中の行政、警察、裁判を管掌し、寺社奉行は全国の寺社、僧侶、神職、寺社領の農民等を管掌し、それぞれ2〜4人の奉行が担当としておりました。

  諸藩の場合も幕府と同じように仕事別に奉行組織があり、家臣が奉行職に選任されました。

 

主君(将軍・領主(殿様))は自分の領地から家臣に知行地として分け与えます。

家臣は与えられた知行地は自分の裁量で支配します。残る領地はすべて主君の直轄地です。この直轄地は自分の代わりに「代官」を派遣して支配します。主な仕事は年貢の徴収です。

 主君は将軍の場合は幕府を運営し、一般の領主(将軍の家臣)は藩を運営する必要があります。このために各種の組織・機関が必要でその組織名の一つが

○○奉行です。又奉行は職名(下の者はお奉行様と呼ぶ)でもあります。

 職制は外に目付、留守居役等の役、書院番等の番がありますが「代官」と「奉行」は主要な職制でした。

 

「お代官様」や「お奉行様」は当時庶民にとっては偉い人でありましたが、武士の中ではどのような地位だったのかです。

両方とも世襲はほとんどありません。

 「代官」は将軍・領主の代理権限を持って庄屋(名主)以下百姓を支配していたとは言え、郡や地域の担当官で勘定奉行の下位であって中級以下の家来が選任されます。例外的に幕府の関東郡代の伊奈家(後に滅亡)は大名クラスでした。

 一方、「奉行」は、幕府においては旗本が就任します。大名は就任しませんが、寺社奉行だけは大名から選任されました。

 

 さてここで江戸時代を離れてその前の中世での「代官」、「奉行」についての

使われたかを述べておきます。元々の使われた方です。

 「代官」使用例としては源頼朝の代官として木曽義仲の京都に入京や同頼朝の代官としての義経の平家討伐の記述が吾妻鏡(鎌倉幕府の記録書)等にあります。二人は頼朝の代理として軍事指揮官となったものです。

 その後このように軍事指揮権の代理権を持つことを意味する「代官」の使用はなくなり、同じ鎌倉時代に地頭(年貢徴収権を持つ)の代官が現れ、地頭に代わってその代官が現地で年貢徴収の差配をします。

 室町時代には守護代が出てきますが、守護代は守護の代官と言う意味で良いでしょう。守護領国を守護の下で守護権限(領主権限)を行使します。

 戦国時代は戦国大名の直轄地の支配の代官となり、江戸時代と同じです。

 

 「奉行」は当初朝廷や幕府において個別案件遂行(祭事、橋や道を作る)のための担当者(奉行人)のことを言ました。案件ごとに奉行人が選任されるのです。その後、鎌倉幕府では「奉行」は固定化された職制となります(評定奉行、官途奉行、安堵奉行等)。しかしまあ事務担当のようなもので、江戸時代のような大きな権限はありません。室町時代は将軍の官僚(事務官)を奉行人と言いました。戦国時代も各大名も「奉行」はこのような意味で使われていたのですが、豊臣秀吉が死没の直前に、五大老五奉行を最上級の職制として設けました。五奉行は秀吉没後、五大老の決定事項の執行者(機関)となったのです。大変大きな権限の持つ職制となりました。

 江戸幕府の奉行はこの流れをくみ、将軍や老中の下で重要な執行機関(職制)

の長官となりました。奉行は通常2〜4名の複数制です(事項の決定は合議です)。江戸町奉行は2名です。 

以上

 

2014年7月7日

 

梅 一声