二宮金次郎尊徳は何をした人でしょうか


 戦前小学校の修身の教科書、現在小学校の道徳の時間に教わる二宮金次郎尊徳は、本当は何をして偉人と言われるようになったのか、これが今回のテーマです。

 幼名も通称も金次郎で、金治郎とも書きます。本人はどちらも使っていました。尊徳は“たかのりと”呼ぶのが正しく、これは(いみな)と言ってある程度の身分(武士等)になると諱を名乗ります。ただ尊徳を“そんとく”の呼ぶのが一般的になっていますので“そんとくび、ここでは敬意を表して尊徳先生と

言い表すことにします・

 尊徳先生、幼名金次郎は天明7年(1787)に相模国()山村(やまむら)に生まれ亡くなったのは安政3年(1856)で享年70歳でした。栢山は現在の神奈川県小田原市栢山です。小田原駅(城)から北に向かって足柄まで細長い足柄平野があります。その平野のほぼ中ほどに栢山があり、東側には酒匂(さかわ)(がわ)(二級河川)が流れています。

小田急で小田原から新宿方面に四駅目に栢山駅があり、そこから歩いて20分位の所に生家が保存されています。

尊徳先生は明治の初めに修身の教科書で記述され全国区の名士になりました。

尊徳先生については四項目にわたって記述されています。四項目もついやすのは尊徳先生の記述だけです。

記述内容は少々長くなりますのでここでは教えの内容を一括まとめてしまいます。

一番に“貧乏の中でも「勤労」、「勤勉」にすれば富める身となる。二番に貧しくてもその力に応じて「慈善」を行うべし”

ここでポイントは貧乏だった百姓の尊徳先生(金次郎)が述べたことに意味があります。

大体どの偉人も勤労、勤勉の大事なことは言っています。しかしその偉人は

すべて権力者、政治家、武将、学者等社会的に高い立場の人が上からの立場で述べています。

 尊徳先生は貧しい庶民として述べていることが明治政府にとって大事なのです。

 富国強兵の思想の実行は、一般庶民から盛り上がってこなければなりません。

 勤労、勤勉は庶民の代表の貧乏な尊徳先生もおしゃっている。当時貧乏な家が多かった子にやる気を起こさせるための大事な仁として修身の教科書に載せられたのです。

 この尊徳先生の伝記、業績について先生の一番弟子富田高慶が「報徳記」として明治の初めにまとめました。これが当時のインテリの間で人気を博し、尊徳先生の株が急速に上がりました。内村鑑三は英文「代表的な日本人」で四人中の一人として取り上げました。

 この「報徳記」をもとにして修身の教科書の「二宮尊徳」は記述されました。

「報徳記」は先生の生まれ育ちの伝記部分とおやりになった仕事の業績そして思想について記述されているのですが、修身の教科書では生まれ育ちが貧乏ではあるが、良く勉強、仕事をした部分だけを取り上げ、先生の仕事の業績や根本思想を入れませんでした。

 先生は農政家、経済家そして思想家と言えます。

 ここで尊徳先生の業績についてお話します。

 傾きかけた自家の再興、二宮本家の再興、小田原藩家老服部家の再建、小田原藩の支藩下野国の桜町領3村(宇津家4千石)(現栃木県真岡市)の農政の立て直し、小田原藩の天保の飢饉の時の救済業務遂行、相馬藩農政の再興、実質幕府直轄領の日光山領の復興(途中で死没)等々で自分自ら再興に陣頭指揮した所、および弟子にやらせた所を入れると100数十カ村に及ぶと言われています。

 それでは先生の農村再興、藩の農政の改革の手法について見る前にこの時代の農村の情勢を見ておきます。

 18世紀以降の日本の気候は、関東、東北は冷温化や洪水、火山の噴火等の自然災害の続発による凶作が頻繁に起こり、米の収穫が減り、それにつれ百姓の人口が減り、それが又連鎖して、収穫を減らす悪循環で疲弊していく農村が増えていきます。領主も年貢が減り、家来の知行、給与を減らし、農村の復興の農政を実施しますが、なかなか成功が難しい状態にありました。

 尊徳先生はこの農村の復興と領主(藩)財政の健全化の方策を提案実行したのです。

 この手法を「報徳仕法」と言います。

 報徳の意味は、国語的には恩に報いるとなりますが、ここではすべての人、物には特性や良さがある。これを役立て行くことを「徳に報いる」、の意味となります。

 尊徳先生はこの「報徳仕法」によって、農政改革(農村復興)を成就するためには、「至誠と勤労」を基に、具体的には「分度と推譲」の施策の実行が必要であるとしました。

 

 この「報徳仕法」の成功例の一つとして小田原藩(藩主大久保忠真)の支藩である下野(栃木県)の桜町領の復興の仕法を記します。

 桜町領は本来4000石収穫していた土地でしたが、文政4年(1821)には2000石しか収穫出来なくなっていました。

 農家は往時の430軒(1910人)から156軒(749人)に減少していました。

 小田原藩は復興のために毎年村助成しましたが、一向に復興しません。この頃関東、東北地方の農村は相次ぐ不作、凶作で村が縮小し、米の収穫が大幅に減収していたところが多くありました。桜町領だけが疲弊縮小していたわけではありません。

 小田原藩の領主大久保忠真は領内の二宮金次郎が家老服部家の財政再建成功の話を聞いて、桜町領の復興を金次郎に委ねることにしました。

 尊徳先生が桜町領復興のために施した策である報徳仕法は「分度」と「推譲」によって成り立っています。

 桜町領の領主宇津家の出費を固定します。これを「分度」と言います。即ち領主収入の年貢を固定してその年貢の範囲で領主財政を行うのです。

 年貢は過去10年間の平均の年貢高に固定します(定免)。復興が出来るまで年貢は固定です。

 要するに藩(領主)財政の予算化ですが、普通は支出が際限なく、足りない分は年貢を増税するか借金するのが為政者です。今もそうですか。

  =毎年尊徳以下百姓が努力して増収させた収穫分は、荒地(元は田んぼ)の開発(田地化)の費用に投入して、増産に結び付け毎年さらなる増産をくり返していく(増収部部分を年貢で取らない)=
 そして「推譲」ですが、領主も農民も収入に応じた支出をし、余財は余譲する。譲ると意味です。
 「推譲」は二つの意味がありまして、自譲と言って余財を自己のため、子孫のために蓄える。もう一つは余財を他人に貸与する(無利息又有利息)。これを他譲と言っています。
 藩にも農民にも余財を自己のため、他人のために使うことの重要さを説いています。

 尊徳先生は上司との衝突もありましたが、現地に文政6年(1823)赴任に

して6年間で荒地開発に成功して、2000石の領地を3000石にしました。 この後は報徳仕法を続けながら、以降は領主も百姓も取り分が以前より多く
なるように収穫を配分しました。

 領主の宇津家は毎年年貢から300俵を開発費に拠出しました。(推譲)

  この成功により尊徳先生の名声は高まり、多くの村や藩、幕府からの農政改革の依頼があり先生は応じていきます。桜町領復興の任期後も先生は桜町領に留まって、多くの弟子を使って関東を中心に活躍します。そして桜町領で亡くなります。

  尊徳先生の功労は上記の報徳仕法による農政改革、農村復興を多くの村で成功させたことです。これで江戸時代の後期に名声があがったのです。

 ただの貧乏なお百姓さんが勤労、勤勉の大事さを伝えたのではありません。

 修身にはこの部分がありません。

 何故書かなかったかは次の通りです。

 尊徳先生は百姓に勤労、勤勉を説きましたが、併せ為政者の領主には分度(支出予算の厳守―過剰年貢の禁止)と推譲(余財を開発費に回す)を守り、仁政を行うように求めています。

 明治政府は天皇を最高権力者の統治者としています。修身の教科書にも教育勅語でうたっています。

 一般の国民が天皇に向かって仁政を求めるのはもってのほかですので先生の

報徳仕法の政治信念の大部分は削除となりました。

 修身では偉い為政者、武将、学者だけでなく、一般の貧乏なお百姓さんも勤労、勤勉をうたっていることを庶民の子らに伝えて説得力を持たせたのです。

 

 最後に、金次郎十四歳でお父さんを、お母さんを十六歳で亡くし、おじさんの二宮家に引き取られました。

しかし四年後には自分の家を再建して自立しました。もちろん本人の勤勉によるものもありますが、お父さんは六反ぐらいの田んぼは残していましたので、大人になって百姓として自立できたのです。

決して尊徳先生の家は報徳記や修身の教科書が言うような極貧の家ではありません。二宮一族は中流以上の百姓です。

以上

   

2017年5月30日

   梅 一声