日本の歴史は主人(主家)への裏切りの歴史です 


 

 日本の中世、近世の政権は後醍醐天皇の建武の政権(3年)を除いてすべて武家の政権です。

政権を樹立した武将や大名家は平清盛以来幾人(家)もありますが、「政権の交代」、これは武士がすべておのれの主人(主家)を裏切って奪取したものです。

武士たる道は、「主人(主家)に対して忠義・忠誠をまっとうすることが本分である」と古今言われてきましたが、実際は全く逆で武士が新たにおのれの政権を樹立する為には、主人(主家)への裏切り(謀反・反逆・寝返り)によって政権を奪取しているのです。

以下年代別に個別に見てみましょう。

 

(1)平 清盛―法皇への反逆

後白河法皇の臣下であり、同法皇に引き立てられるにもかかわらず法皇に反逆して、朝廷での実権を奪取そして法皇を幽閉。

 

(2)源 頼朝―法皇への反逆

臣下でありながら後白河法皇の意に反逆して関東で武家政権を樹立(鎌倉幕府)

 

(3)北条義時・政子―二つの主家への裏切り

源 頼朝亡き後源家を滅亡させ、政権を奪取。更に臣下でありながら後鳥羽上皇を配流の刑に処した。

 

(4)足利尊氏―主人への裏切り

鎌倉幕府の主要な武将(守護)でありながら北条家を裏切って、後醍醐天皇側に寝返る。

更に臣下でありながら後醍醐天皇を裏切って室町幕府を樹立した。後醍醐天皇の南朝は滅亡。

 

(5)三好長慶―主家への裏切り

細川家の家臣でありながら、細川家の主人たちを追放し、没落させ京都の政権を奪取した。

 

(6)松永久秀(弾正)―主家への裏切り(殺害)

三好家の家臣から足利将軍家の家臣となり、13代義輝将軍を息子の義久等に謀殺させ、政権を得ようとした。

   

(7)織田信長―二人の主人への裏切り

主家の斯波義銀を追放して、斯波家を滅亡させる。更に15代将軍義昭を追放する。(室町幕府滅亡)

 

(8)明智光秀―主人への裏切り(殺害)

政権を得んがために、主人の織田信長を襲い殺害(本能寺の変)。

 

(9)豊臣秀吉―主家への裏切り

織田信長が謀殺された後、織田家の政権を奪取。

 

10)徳川家康―主家への裏切り(殺害)

豊臣秀吉に五大老筆頭として秀頼の後見を頼まれながら、政権を豊臣家から奪取し、大阪の陣で秀頼を殺害し、豊臣家を根絶やしにした。

 

11)島津久光―主家(将軍家)・ 西郷隆盛―主人(薩摩の殿様(久光))への裏切り

薩摩藩は幕末、徳川幕府(徳川将軍家)とは信頼関係にあった。もちろん外様でしたので老中等の政権の要職にはつけなかったが、藩主斉彬は徳川親藩や譜代からも見識を評価され、幕府を支える仁でした。

徳川将軍家(幕府)は斉彬の養女篤姫を13代家定将軍の御台所(正妻)に迎え、徳川家と島津家の信頼関係を一層固めた。

それが幕末も押し迫った慶応3年(明治維新の1年前)に長州と同盟を結んで討幕側になるのです。

西郷が久光を説得したのです。(「殿様(久光)を征夷大将軍にしてあげる」とうそを言って薩摩藩を討幕側にしたのです。

薩摩の殿様と西郷達は土壇場で徳川将軍家を裏切って討幕し、明治維新政府を樹立しました。

  

 以上は政権を狙った武将や大名に限っています。そうでなく一般の主従関係で武士が主人(主家)を裏切った例は数限りなくありますので。

 武士の道は、主人(主家)に対して忠義・忠誠を誓うことが真髄というならば、歴史はまったく逆で主人(主家)への裏切りが本道のようです。

 上記の通り歴史上新政権の樹立はすべて主人(主家)への裏切り・反逆からなっています。

 もちろん政権を目指さない中堅以下の普通の武士は主人への忠義・忠誠が最大の倫理・道徳であったのです。

 それでは政権を目指す武士と普通の武士との差は何でしょうか。それは政権を目指す武士は兵士でありながら且つ政治家であるのです。政治家は古今東西いつでも裏切り、謀反、反逆は許されます。そこには武士も含めて一般人に負わされる倫理や道徳の常識は適用されません。

 しかしまあ読者の中では、上記の人物で“この人は許せない” とお考えの人がおられるでしょう。それは読者が一般人だからです。

 

以上

 

    2013年5月12日

 

梅 一声